第203話 エースの責任
ドラフト指名を受けた選手は、とりあえず担当のスカウトから挨拶を受ける。
ずっと注目していたスカウトの間との、感動の握手ぐらいはある。
これはおおよそドラフトの当日か翌日ぐらいで、ここではまだ正式な契約とはいかない。
星などのように最後まで、本当に指名されるか微妙な選手がいるからだ。
ドラフトで指名されてからようやく、星は家族にこの話をしたらしい。
星の家は代々教師などの仕事をしてきた家で、いわゆる固い家である。アマチュア野球にはともかくプロ野球などは、青天の霹靂という話題である。
確かに高校時代にはキャプテンとして甲子園に出場した、自慢の息子であった。
将来的には高校の教師になり、野球を指導したいという話はしていた。
だが可能性の薄いプロの話は聞いてなかったため、大層驚いたそうである。指名されたと人伝に聞いて、星に電話をかけてきたそうな。
基本的にはうさんくさいと感じるのが、プロ野球のような興行の世界である。
もう大人とは言え、この説得には当然ながら辺見も駆り出されることになるわけだが、それはもう少し後の話。
浮ついてるな、と直史は感じている。
よりにもよって秋のリーグ戦、早慶戦の前にドラフトが行われる。
まあどちらにしろドラフトが終わってから、神宮大会なども行われるのだ。
プロ入りが決まった選手たちの集中力が低下するのは仕方がないだろう。
だからといって負けを許容するわけではない直史である。
あの冷血鉄仮面、鬼畜メガネの樋口でさえ、どこかメンタルが不安定になっている。落ち込んでいると言うべきか。
自分で選んだチームに決まったというのに、不思議なものである。
ここまで他の四チームに勝っている早稲谷は、慶応に負けてもリーグ優勝は決定している。
消化試合になってしまったが、だからこそ四年生は、プロに行くメンバーとそれ以外の間に、温度差というか立ち位置の違いを感じるのだ。
樋口は不安定になっているのではなく、もう見切りをつけたのだと気付いた。
それはそうだ。正式な契約はまだとは言え、キャッチャーである樋口がここから猛烈にアピールをしていく必要性は少ない。
見送る側としては気付かなかったが、意識がもう完全にプロに行っている。
それは樋口だけではない。近藤も土方も村上もだ。唯一星は、まだどこか迷いつつ、こちらがわに片足を残している気がする。
明日は早慶戦の第一試合。
先発は武史であるが、樋口の変化がどう作用するか。
慶応も慶応で、プロから指名された選手が数人いる。
あちらも浮かれている選手がいるかもしれないが、こちらは樋口が動揺していたら、守備全体にその動揺が広がる。
ならば他のキャッチャーの方が良いのでは、とさえ思う。直史がそう考えるのだから、辺見や他の人間もそう考えるだろう。
直史は樋口のことを信頼しているが、無条件でなんでも信じているわけではないのであるからして。
佐藤兄弟被害者の会、というのは敵にも味方にも存在する。
敵としては、バッターとして立派な成績を残していたはずが、武史や直史に軽くひねられてしまった者。
そして味方としては、村上などの投手陣。武史と直史の完投能力のおかげで、あまり投げる機会がなかったためだ。
だが一番の被害者は、樋口のせいでまともにマスクを被れなかった、小柳川ではないかと直史は思う。
村上は全日本などでは、それなりに投げる機会もあったからだ。直史がクローザーとして働いた試合もある。
小柳川は特待生ではないが、東北の高校からスポーツ推薦的な形で早稲谷に入学した。
高校時代は甲子園にも出ており、そこそこの活躍をしている。
しかし大学では同学年に樋口がいたのが辛い。
そして主戦力となる直史が、樋口とのバッテリーを組んでいたのはそれ以上に痛い。
直史と樋口のバッテリーは、高校時代の国際戦からの付き合いであるからだ。
まして樋口が絶対的なスピードボールに慣れていたため、武史ともバッテリーを組んでいた。
これでは出番が少なくなっても当然だろう。
二年までは細田などが、高校時代からの相棒である伏見を優先していたりした。
だがそれ以外は、もう樋口が完全に正捕手の座に座っていた。
正直に言えば、ちょっとした怪我でもしてくれて、少しぐらいは公式戦でのチャンスがほしかった。
ブルペンでは常に、直史や武史、そして村上などが、樋口に投げていない時には相手をしていた。
慢心するわけではなく、キャッチング技術にはかなりの自信を、本人も持っている。
ピッチャーは枚数が必要だが、キャッチャーは一人でも充分だ。一応控えはいるが、それはあくまでも控え。
さらに下級生にも、立派な実績を持って入学してきた者がいる。
キャッチャーというのは他のポジションへのコンバートもしづらいポジションだ。
今から他のポジションを狙うのは、早稲谷の陣容を見れば難しい。
なので樋口の控えとして、ずっと出番を待っていた。
そして、待つままで大学野球が終わる。
卒業後の進路は普通に就職で、早稲谷の派閥を上手く使って、それなりの有名企業に就職が決まっている。
だが最後まで出番はないのかな、と寂しくは思っている。
「つーわけで明日の試合、キャッチャー頼むな」
その前を聞いていなかったが、直史がそう言っていた。
土曜日の早慶戦は、早稲谷が珍しくも押された試合になった。
序盤で武史が点を取られて、終盤でぎりぎり追いついて逆転するという流れであった。
直史はベンチにすら入っていなかったが、さすがに辺見もキレたらしい。
試合の映像を見てみれば、樋口のリードがおかしいし、土方や近藤もバッティングが狂っていた。
武史が力任せに三振を取りまくり、バッティングも自分自身で打ったりと、ドラフト組の集中力の欠如が見られた。
プロ入りが決まったやる気がなくなったのか、それとも単に集中力を欠いていたのか。
辺見からその話を聞いて、直史が考えた。
「じゃああいつら外して戦いましょう」
センターの土方に代えて西。そして近藤の代わりにもサードを入れ替える。
そしてバッテリーは直史と小柳川という按配である。
本当にこれでいいのかと、むしろ辺見の方が戸惑ったぐらいである。
キャッチャーはデータと経験の蓄積が必要なポジションで、一朝一夕には上手くいかない。
だがブルペンでは樋口以外ではもっともボールを受けていて、キャッチングの技術はおおよそ高い。
あとはリードを直史の方ですれば、どうにか無失点には抑えられるだろう。
打力もかなり落ちているが、それでも戦う状態にない選手を使うよりは、まだしもマシだろうと思ったのだ。
優勝自体は決まっているが、全勝優勝がかかっている。
そこをピッチャーのパワーで強引に乗り切ってしまったのが土曜日の試合である。
直史としてはそんな状態の樋口でも、普通にどうにかなるのではと思っている。
ただこの後の神宮大会に備えて、頭を冷やしてもらう必要はあった。
プロ入り組がいないことに対して、応援席からも動揺の気配が伝わってくる。
秋も深まってきたこの日、直史は最後のリーグ戦のマウンドに立つ。
神宮大会もあるので土日のどちらかのマウンドには立つだろう。
しかしこれがリーグ戦としては最後の試合。
おそらくこれも含めて、神宮のマウンドに立つのは残り二回。
小柳川に対する同情とか、そういうものではない。
だが神宮大会で優勝するためには、プロ入り組の集中力を引き戻す必要があると思ったのだ。
ショック療法によるメンタルの正常化。
それを考える直史自身は、自分の投げない試合には、さほどの関心もないであろうに。
早慶戦に出ている自分を、不思議に思う小柳川である。
大観衆が、マウンドの直史のピッチングに期待をしている。
しかしそれと組むのが、聞いたことのない選手なので不審が広がる。
怪我の類かと思うのだが、ベンチにはちゃんと入っているメンバーである。
「まあ最後の最後で、面倒なことになったよな」
センターの西も、久しぶりのポジションである。
これまでは上級生が引退しても、おおよそ土方がそのポジションにいた。
守備固めで時々レフトに入ることはあったが、スタメンは初めてだ。
そんな初めてが、全勝優勝を賭けた早慶戦。
なのに全く不安がないのは、どうせほとんどボールは飛んでこないだろうと踏んでいるからだ。
直史は最近は、高校の後輩である上山を鍛えることが多かった。
ただそれでも、この四年間で直史の球を受けて来たのは、樋口を除けば小柳川が一番多い。
なので直史としては、この選択は当然のものだと思っている。
守備力はともかく、攻撃力はかなり落ちている。
だがそれでも、一点取ってくれればいい。
あとは完封するのが、エースのお仕事である。
「普段通りのリードでいいから」
直史はピッチング練習の時も、実戦を想定して変化球をしっかりと混ぜてくる。
だが相手チームの打線の研究をして、丸裸にする作業は樋口がやってきたのだ。
それを自分がやらなければいけないと?
小柳川の考えていることは分かるが、考えすぎである。
「普通にリードしてくれればいいぞ。嫌なら首振るし」
キャッチャーがどう考えていようと、投げるのはピッチャーなのである。
慶応のキャプテン桂は、やはりプロから指名を受けたという意味では同類である。
ただそれほど、この試合に対してプレッシャーなどは感じていない。
既に優勝の芽はなく、せっかく春にはあった村田の助言も、上手く活かすことが出来なかった。
それでもデータの分析にだけは、付き合ってくれたのはありがたかったが。
とにかく一点取らなければどうにもならない。
それは分かっているのだが、相手は四年間自責点0のピッチャー。
直史はワールドカップも日米野球もWBCも、ほとんど自分より年上の面子と絡んでいる。
よってせっかくの同学年であるが、直史との接点はあまりないのだ。
(村田と会わせてみて、どんな話するか聞いてみたかったな)
村田もまた、高校で野球を辞めた人間である。
ただし桂の見る限り、キャッチャーとしての分析能力は、樋口をも超えていたのではないかと思う。
医学部に入学して、親の医院の跡を継ぐ。
そのために進学校であった明倫館に入ったわけだが、本当に野球の才能は天才的だった。いや、キャッチャーとしての才能と言うべきか。
様々な理由で、野球から離れる人間はいる。
野球というのはこの世で最高の権威ではない以上、それは人それぞれなのだ。
桂としても野球は、自分を構成する要素の一つでしかない。
学歴とこのプロ野球選手としての経歴でもって、将来的にはフロント入りしたいなと、かなり打算的に考えている。
そのために慶応では、キャプテンまで務めたのだ。
先攻の慶応に対して、直史は投球練習をしている。
攻めるならキャッチャーだろうな、と桂は考えている。
ただキャッチャー前に転がしたりしても、直史はフィールディングも上手いので、自分で処理してしまう可能性が高いのだ。
ロースコアで、出来るなら無失点同士でイニングを進めて、どこかであちらのミスを誘いたい。
早稲谷は土曜日の試合では、ミスから先制点を許し、攻撃もちぐはぐであった。
そこにつけこめば、勝算は充分にあると思うのだ。
(と言っても自責点は0にするだろうけど、リーグ戦で一試合ぐらい負けても、充分に伝説の存在だぞ)
桂はそう考えるが、劣勢であっても敗北などは考えず、とにかくどうにかしてしまうと考えるのが直史である。
初球、先頭打者がいきなりセーフティを仕掛けてきた。
ボールを上手くサード方向に転がしたはずが、そのボールの前には既に直史がいた。
素手で掴んだボールをファーストに送り、一球でまず先頭打者を切る。
素早いフィールディングは上手いと言うより、完全に相手の意図を読んだものであったろう。
なんだかんだで小柳川は、この全勝優勝のかかった早慶戦では、緊張を隠せていない。
だが問題はない。
キャッチャーが微妙な時にはどうすればいいか、直史は甲子園で学んでいる。
それに小柳川は、直史や武史のボールを捕るために、散々に練習をしてきたのだ。
練習は自分を裏切らない。
能力以上のものは出せないが、小柳川の能力は、充分に直史に応えられるものなのだ。
問題があるとすれば、キャッチャーとしての能力ではなく、公式戦で積んだ経験の差。
こればかりはどうしても、高校時代を思い出してもらうしかない。
甲子園に出場したぐらいのキャッチャーなのだから、最低限の仕事は出来る。
直史はちゃんと、小柳川のことを信頼しているのだ。
変化球でカウントを稼いで、それからストレートでしとめる。
ワンバンするカーブでも、小柳川は体で止めて前に落としてくれる。
それだけやってくれれば、直史には充分なのだ。
大きな変化球と、伸びるストレートのコンビネーション。
この秋のリーグ戦に向けて、直史は体を戻してきていた。
そして三試合連続の完全試合。
もう神話の完成が、目の前に見えている。
相手もあることなので、思い通りに行くわけではない。
だがそれでも、針の穴を通すようなコントロールと、緩急でバッターをしとめていく。
先頭打者が初球で仕掛けてくれたので、逆にそこで球数は節約できた。
三番バッターはスプリットに当てて、ショートへと転がって行く。
センターラインの中でも、山口と沖田の二遊間が磐石なのは、不幸中の幸いである。
沖田の危なげない捕球と送球で、内野ゴロアウト。
まずは八球でイニングを終えて、好調なスタートである。
「調子良さそうだな」
「まあな。延長戦に突入しても完封していくぞ」
そこまで点を取れなければ、さすがに打線の責任は大きいと思うが。
ベンチに戻ってきて、先頭打者は西。
最後のリーグ戦で、公式戦スタメンは初めてであるが、せっかくの機会である。
西の場合はその就職先は、また野球に関するものとなった。
とは言ってもスポーツ用品メーカーで、かなりつながりは薄いものであるが。
人間やはり、好きなことをやっている方が、幸福感は強くなるのだ。
「ニッシー、彼女が見てるよ!」
そんな星のいらない声援も受けて、西はバッターボックスに向かうのであった。
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