第201話 ジャイロボール
瑞希の著書である『白い軌跡』はSS世代が一年の夏、県大会の決勝で負けたところから始まっている。
だがその直後に、直史や大介、そして鷺北シニア組の入部や春の大会の背景なども説明される。
これは瑞希が夏の大会までは、野球部に関心がなかったことから、後から取材して伝聞で追記したような文章になっている。
しかしこれを読んだ多くの人間が、最初は勘違いするのだ。
直史の魔球であるスルー、つまるところジャイロボールを、直史が身につけてから、シーナが投げるようになったというように。
逆である。シーナの決め球を、直史があっさりと習得しただけである。
夏の大会では既に使っていたスルーだけに、瑞希はそのあたりの順番を、間違ったわけではなかったが、あえて誤解のないような書き方もしていない。
後に新版が出たときに、追記で他の部分と共に改められたのだが、既にそれまでに100万部を突破していたベストセラーは、嘘ではないが本当でもないことを広めてしまった。
大学に入ってシーナは、当然のように選手として野球部に入った。
帝都大学は以前にも女子選手がいたので、その点は特に問題はない。
そしてスルーを、球速にかなりの差があるとはいえ体験出来るのは、帝都のバッターにとってはかなり有利なことであった。
だが直史にとってスルーは、決め球ではない。
決め球として使うこともあるので、追い込まれてから無視するわけにもいかない。
ブレーキのしっかりとかかったカーブ、大学に入ってから質を磨いたストレート、そしてスルー。
初見殺しは他にもいくらでもあるのだが、このあたりを組み合わせればそれだけで三振は取れる。
カーブを複数種類投げて、ムービング系で球数を減らすなど、技巧派の技も大量に持っている。
スルーを打てたとしても、直史のコンビネーションをどうにか出来るわけではない。
だがそれでも、スルーは魔球の一つである。
大学入学以降の直史は、スルーの使用頻度が減っていた。
それはひとえに、コントロールが完璧ではなかったからだ。
多少甘いコースでも、まずまともにヒットには出来ない魔球。
それは確実に相手を打ち取れるボールを身につければ、あまり必要となくなるのは当然である。
だが実際には初見殺しであるし、相手のバッターのデータもない状況では、必殺の魔球になる。
国際大会などでは、比較的多く使用した理由である。
だが六大学のリーグ戦では、特に帝都相手には、あまり使うことがない。
球速こそ違えど、シーナのスルーで練習が出来るからだ。
ただし使わないと思わせて、いざという時には使う。
その駆け引きを含めて、ピッチングというのだろう。
とにかく持っている球種を、打てそうにない角度で入れる。
緩急を使えばそれで、バッターを充分に封じることが出来る。
反応だけで打つバッターすらも、反応させないコンビネーション。
人間の心理的死角は、あちこちにあるものだ。
もしも、の話である。
もしもあの時、入学初日にグラウンドに行かず、のんびりと部活紹介を待っていたら。
野球部には引き続いて入っていたかもしれないが、直史は埋没していたのではないだろうか。
入学時には間違いなく、岩崎の方が分かりやすくいいピッチャーであった。
だが春の大会では勝てず、夏のシードは取れなかっただろう。
セイバーに会うことがなく、試合で投げることも少なく、普通に二回ほど勝って、三回戦で負けるような、そんな野球をしていたかもしれない。
直史の人生を一番大きく変えたのは、あのシーナの招き。
大介と初めて会ったあのグラウンドで、直史は様々な人間と出会っていった。
影響力の大きさなら、セイバーやイリヤ、何より瑞希の方が大きい。
だが最初の一歩を示したのがシーナであったのだ。
(これが大学最後の試合なら、有終の美を飾るのに良かったのにな)
そう上手くいかないところが、六大学リーグである。
無心で投げる。
そしてアウトを積み上げていく。
早稲谷側のスタンドからは、もう当たり前となってきた期待。
帝都側のスタンドからは、打って欲しいが同時に記録の達成も見たいという、複雑な感情。
序盤、中盤、終盤と、配球のスタイルを変えていく。
むしろそれこそが樋口のリードである。
緩急をつけるのもただのチェンジアップではなく、スローカーブやゆったりと流れるシンカーを使う。
右バッターにも左バッターにも、必殺となる球種がいくつもある。
そして変化球に目を慣らしてから投げるストレートは、まともに打てずに空振りする。
指の柔らかさから、本来なら変化球に優れているピッチャーである。
しかし体を上手く連動させることで、全ての力をボールに込めることが出来る。
150km台のストレートを投げる。
それだけで一流の条件なのだが、直史にとってはオマケでしかない。
ストレートにさえも、微妙な違いがあるのだ。
結局一試合を通してさえしっかりと打てないのは、その微妙な調整によるものだろう。
まともに打ちたいなら、ボールになる球を打っていくしかない。
ムービング系のボールを打つのも難しいのだが、大きく変化する球をそれに加えたら、本当にまともに打てる球がなくなる。
苦心するのは、ボール球を振らせることだ。
アウトローいっぱいからわずかだけ外すカットボール。
インコースなので打てるように錯覚する高め。
こういったボールを自由自在に操って、バッターに狙い球を絞らせない。
そして反応だけで打てるほど、ビールのキレは落ちていない。
最後のシーズンだけに、磨き上げてきたのだ。
たとえ敵として対戦しても、その変幻自在のピッチングの前には沈黙するしかない。
なんと見事なことか。
打たせて取ることも出来れば、三振を奪うことも出来る。
剛腕から繰り出されるピッチングとは違い、その球筋が見えない。
前のボールの残像が頭に残っているうちに、違う軌道が上書きしてくる。
そのくせ時々、ほとんど同じコースから、ほんの少し曲げてくる。
ピッチャーの使える技術を、ことごとく身につけている。
それを好き放題に使ってくるのは、もうこれが最後の対決となるからか。
残しておく必要はない。
全てを解放すれば、こういうピッチングになるのだ。
直史が考えたのと、似たようなことをジンも考えている。
直史はプロを目指さなかった。
だがプロ入りした選手に、とんでもない影響を残している。
大介があそこまでパカパカと打っているのは、高校時代の蓄積があるからだ。
同じチームに、そして甲子園での対戦の中で、どれだけのピッチャーと戦ってきたことか。
大介の存在は、日本のプロ野球の歴史に刻まれている。
既に若くしてレジェンドであり、その影響力が大きい。
岩崎もプロに行った。
プロを諦めるために選んだ高校だったはずなのに、背中を押したのはチームの力だった。
対戦したバッターたちも、直史を打つことをひたすら考えただろう。
そして西郷は二回りは大きくなって、プロ野球の世界に殴りこんだ。
今年のドラフトでも、直史の影響を受けた選手が、たくさん入団するだろう。
樋口にしても直史がいなければ、プロという選択をしたかは怪しい。
そしてその歩んできた道は、ここで途切れる。
これまでずっと後ろを歩いてきた存在が、ここからは自分の力で道を切り拓いていく。
九回、27人。94球。
三振を15個奪って、最後のスリーアウト。
誰もランナーに出さない、最高のピッチングが完成した。
ジンが同じ球場で直史と対戦することは、もう二度とない。
プレイヤーではなく指導者として、今後は野球に関わっていくのだ。
狙うは帝都一の松平の後継者。
そのためにはコーチで入るか、あるいは地方の系列校で、結果を残すことになるのだ。
直史は故郷へ帰る。
彼を野球に留めておく理由が存在しない。
惜しいとは思う。あのピッチャーとしての能力が、他の人間に備わっていたならば。
だが結局は、プロには行かない人間だからこそ、むしろ故障の心配などを考えなくて済んだのか。
天才という言葉は、ジンは好きではない。
だが直史のやっていたあれは、単なる努力などではなかった。
やるべきことをひたすらにやる。
自分の体を使って、ぎりぎりのところまで鍛え上げる。
普通の人間は一日に500球も投げていれば、必ず壊れるものなのだ。
だが直史は壊れなかった。
血マメを潰したのを別とすれば、一年の夏ぐらいがまともな故障か。
それでも秋のブロック大会からは、普通に投げることが出来た。
球数を制限して、それでも相手を完封してしまう。
WBCの決勝戦でさえ、もし球数の制限がなかったら、パーフェクトを狙っていったのではないか。
直史は疲労を考えて、パーフェクトよりは球数の少ない完封を狙う。
だがあの試合は、しばらくは投げなくてもいいという場面であった。
あるいは本当に本気だったのは、壮行試合の方であったのか。
大介との勝負は、結局あれが最後。
(どうなのかな。本当に限界を考えてたのかな)
本当の底はどこにあったのか。
あるいは高校時代こそが、本当に本気になれる舞台ではなかったのか。
年間に100試合以上もするプロの世界。ピッチャーは中継ぎで多く投げても、せいぜいが60試合ほどか。
限界を知らないまま、直史は高いレベルの野球から解放されようとしている。
「結局のところ、なんだかんだ言って目立ちたがりというか」
「目立ちたがりじゃないと思うけど、なんだろうね」
確実に野球人としては別の感性で、野球を行っていた。
覇気がないわけではないが、それを表には出さないタイプ。
それでも勝ち続けていったのは、あの夏の日。
「なんかもう一回甲子園に行きたいなあ」
「監督として行ったらいいでしょうが」
「そうじゃなくてさ」
ジンは基本的に、未来を重視する。
高校野球など、負けるチームが多いのは当たり前なのだ。
中学時代の反動で、とにかく勝つのが好きな直史とは、そこが違う。
プロになればピッチャーなど、年に何度も負けるのは当然だ。
上杉ですら年に何度かは負けるのだ。
直史の性格は、プロ野球には合っていない。
だがだからといって、他の何かに合っているというとも思えないが。
野球から離れて、本当に勝負ではなく、プレイ自体を楽しむならば、それはもう仕方がないのだろう。
ジンとしてはそう思うしかないが、あのピッチャーが頂点の舞台で戦わないのか。
「社会人野球で、何年か後に出てくるかもなあ」
「その時は遠慮なく応援出来るじゃない」
敵として対戦するのは、単純に難敵というだけでなく、応援してやることも出来ない。
あのピッチャーと対戦するのは、純粋に気持ちがいいものではなかった。
最後のシーズンが終わっていく。
神宮を前に、ジンの大学野球は終わる。
初戦の東大戦は、必要がないから投げなかった。
そして二戦目から、延長になった試合も含めて、三試合連続で完全試合。
本当に余分な物を削ぎ落とした、ピッチャーという名の生物。
完璧な世界が、球場で演出された。
プロに行かないし、一気にメジャーに行くわけでもない、野球から離れていく存在。
それにどうして、これだけの力が備わってしまったのか。
野球の道を進まないこと自体は、樋口としても納得している。
自分だって最初は、そのつもりだったからだ。
甲子園で優勝してドラフト一位で入団した選手が、怪我で三年目で球団職員となっていた例を知っている。
直史が野球の世界に関わるとしたら、むしろ球団職員としての方がしっくりくる。
所謂ブルーカラーではなく、ホワイトカラーの人間。
自分もそうだと思っていたから、ちゃんと分かるのだ。
「そういやお前、もう志望届出したのか?」
「ああ。月曜日に」
野球部の練習がオフの月曜日に、樋口はプロ志望届を出している。
ドラフト直前まで受け付けていはいるが、さっさと出した方が、球団もやきもきしなくていいだろう。
だが意中の球団に対しては、既に心を伝えていたのだが。
スターズかレックス。
最終的に樋口は、そのどちらかに絞っている。
スターズは15年以上も不動の正捕手尾田が、さすがにそろそろ引退を考える年齢である。
レックスは一応丸川が正捕手であるが、打てるからキャッチャーをしているだけで、あまりキャッチャーとしての能力は高くない。
それでも打てるから使われているのだが、それ以上に打てるキャッチャーがいれば代えられるということだ。
関東なら他に千葉や埼玉、そして巨神がいるが、とりあえず千葉と巨神はありえないというのが樋口である。
地元の球団ではあるが、確かに千葉だと厳しいだろうなと、直史も思う。
なにせ寮と二軍のグラウンドは埼玉にあるのに、一軍のスタジアムは千葉にあるのだから。
本拠地が横浜で、寮も横浜の神奈川が、一番だと樋口は考えているだろう。
あそこには上杉がいるから、またも悪夢のバッテリーの再現となるかもしれない。
ただ樋口に関しては、パの他の球団も目をつけている。
セの球団にしても、勝負強く打てるキャッチャーというのは貴重なのだ。
投手崩壊している東北なども、キャッチャーから補強してピッチャーを強くしたいという気持ちはあるだろう。
つくづく面倒だと思う、日本のドラフト制度である。
せめてもうちょっと早くFA権が取れればいいのだが。
しかしその分、日本はアメリカより、早い年齢から活躍する選手が多い。
(まあこいつがプロに来る可能性は、全くないんだよな)
もし志望届を出しても、樋口と同じチームになる可能性は低い。
ここが分岐点か。
残りの早慶戦と、そして神宮大会。
神宮大会に関しては、ちゃんと出場できるかも危うい。
だがこいつが本気で投げる最後のボールは、自分が受けるのだと決意している樋口である。
プロにさえ行けば、トレードやFAがあるし、オールスターもある。
日本代表を考えれば、上杉ともう一度組むことは充分にありえる。
だが直史とは、これが最後になるのだ。
大学野球史上、間違いなく圧倒的に最高のピッチャー。
おそらくはプロに行っても、メジャーに行っても活躍しただろう。
WBCでの試合を見ていれば、むしろ活躍して当然である。なのにプロにか行かないのだ。
後年、おそらく自分は、この年代の最高レベルのピッチャーの球を、全て受けたキャッチャーとして記録されるかもしれない。
それはキャッチャーとしての役割上、主役にはなれないことだ。
だがそれでいいのだと、樋口は割り切って考えている。
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