第200話 感謝を込めてさよならを

 直史がどうしても頑なにプロスポーツへの道を拒むのか、幾つもの理由があった。

 そしてその中の一つとしては、プロスポーツのような将来の保証がない世界に飛び込むには、直史はバカになりきれなかったというのがある。

 その意味ではジンの、アマチュアの指導者というのは、まだ分からないでもないのだ。

 ただ直史自身は大学野球という、ある程度ガチの環境にいるのでまだ気付いていない。

 プロではなく社会人にも進まないのなら、歯ごたえのあるバッターと戦う機会など、もうほとんどなくなるであろうことを。


 最後のリーグ戦、二試合連続で完全試合を成し遂げている直史に対する、周囲の期待は独特のものである。

 立教大との試合では、延長戦に突入したため、あるいは記録が破れるかとも思われた。

 しかし10回を投げて完全試合。

 そして次の試合も、普通に九回を投げて完全試合。

 三年の春から四年の春にかけては、やや成績がおとなしかったようにも見える。

 だが他の選手を使ってクローザーとして投げたり、奪三振を少なくしたりしただけで、実は全く指標的には落ちていない。


 完全試合など、直史は狙っていない。

 必要なのは少ない球数での完封だ。

 その点では四死球の多すぎた一年の秋の試合は、かなり反省するものがある。

 直史を早めに降板させたせいで、優勝を逃した辺見であるが、あのシーズンは直史の大乱調の試合があったのだ。

 それでも直史を控え目に使ったのは、辺見の失敗である。


 下手に野球の常識が存在すると、運用を失敗する選手というのがいる。

 西郷レベルまでなら、まだ史上最高の逸材として理解は出来るらしい。

 だが直史などはスコアを見ても、どうしてここまで打たれないのかは意味不明である。

 同じことが武史にも言えた。

 東大相手に負けたのは、屈辱ではあった。

 正確に言うと東大に負けたのではなく、女に負けたのだから屈辱だったのかもしれない。


 まあ身体能力があまり関係ない将棋で負けても、男は女に負けたくないものではある。

 それが野球で負けたのだから、佐藤兄弟以外は、ある程度悔しくても仕方がなかっただろう。

 武史としてはむしろ、あの二人にはほとんど勝ったことがない。

 今だってあの二人は、既に完全に生活的に自立している。

 華やかな世界にいながらも、醒めている。

 そのあたりは直史よりも、現実を冷たく見ている。




 帝都大との第二戦、日曜日はわずかに雨が降っていた。

 降ったり止んだりの、さほど試合には影響しないであろう雨だ。

 雨の日は色々と思い出すことが多い直史である。

 勝った試合も多いが、どうしてもあの、初出場でのセンバツでの敗戦を思い出す。


 直史にとっては最後の敗北。

 あれ以降はチームが負けることはあっても、直史が負けたことはない。

 そのあたりのことを考えると直史がプロに行かないのは、あの上杉でもシーズンの中で、一度や二度は負けることを覚悟しなければいけないからかもしれない。

 一年に何十試合も行う。ピッチャーはまだしも少ないが、先発でも20登板以上はする。

 そして、そこで負けたとしても、またシーズンが続いていくというのが、直史の感覚には合わない。


 ピッチャーの出来不出来は、試合の勝敗に密接に関連する。

 戦うならば全て勝ってしまいたいというのが、直史の贅沢すぎる気持ちである。

 敗北など知らないまま、大学生活は終えたい。

 一試合も負けないからこそ、緊張感を保って試合で投げることが出来る。

 負けても、143試合の中のたったの一つ。

 そんなように考えるには、直史のメンタルは慣れていないのだ。


 もっとも高校時代でも、春や秋の大会は、敗者復活戦がブロック大会ではあったのだが。

 それでも二度負けたら終わりというところが、直史の性格には合っていた。




 敗北を与えること。

 帝都大との試合で届かなければ、おそらくもう届かない。

 ジンとしては伝説に傷をつけることを、恐れる気持ちはない。

 高校時代から見ても、さらに化け物になってしまった相棒であるが、どうせもう野球をしないのなら、屍となって後に続く者たちの血肉となってほしい。

 そんなことを考えてはいるのだが、何をどうやっても、勝てるプランが見えてこない。


 キャッチャーとしては後輩のピッチャーを育ててきたし、対戦相手のピッチャーを見て、試合のプランを考えてきた。

 それでこの二年の帝都はかなり強かったわけであるが、早稲谷はとにかく別格である。

 直史と武史がいることで、ほぼ確実に完封出来るピッチャーが二人となっている。

 直史の防御率が0であるのは、もう奇跡ですら形容するには生ぬるいと思えるが、武史にしても完封する試合がほとんどという、大学野球の歴史に残るピッチャーであるのだ。


 おまけに樋口がいる。

 樋口はキャッチャーに徹していて、全体の作戦を考えるタイプではない。

 だがバットを握って、援護点を叩きだすことが出来るのだ。


 本当に緊迫した場面では、むしろ西郷よりも恐ろしいバッター。

 甲子園の決勝で、逆転サヨナラホームランを打ち、新潟に初の優勝旗をもたらした樋口は、やはり何かを持っている人間だ。

(天才が凡人に負けることは珍しくないけど、あっちは凡人の強みも知ってるからなあ)

 直史にしろ樋口にしろ、単純に天才と言うには、経験してきた挫折が多いのだ。

 天才は挫折に弱いなどと言われるが、あの二人にはそれは当てはまらない。


 とにかく一点でも取られたら、それが決勝点になる可能性が高い。

 なのでこの試合、ジンは自分がマスクを被ることにした。

 練習試合などの様子を見て、ジンに声をかけてくるプロのスカウトもいる。

 だがレックスのスカウトの大田の息子と言うと、あちらから避けていってくれる。

 それはまあ、スカウトの内情が鉄也に洩れたら、困るであろうからだ。


 父はジンに、プロには本当に行かなくていいのか、と尋ねた。

 ジンの打撃能力はお粗末なものだし、肩の強さなどもプロの平均と比べれば、埋没してしまうほどのものでしかない。

 だがキャッチングとコーチング、リードや試合での指示などは、間違いなくプロにも向いているものだ。

 だがジンは、高校時代から決めていたのだ。

 それにジンがドラフトにかかるとしたら、最下位かそれでなければ育成だ。

 育成の環境で自分を伸ばすよりも、他の才能ある選手を伸ばしていた方が楽しい。

 ジンはもうそんな境地に至っている。




 一回の表の早稲谷の攻撃を三人で抑え、そして帝都の攻撃である。

 さて今日の調子はどうかなと、ベンチから乗り出して様子を観察する。

 だいたい直史は投球練習では、その日の調子を見せてくれないのだ。

 どうせ今日もいつも通り、つまり絶好調なのだろうが。


 早稲谷に勝つチャンスは、何度かあったのだ。

 辺見の起用方の失敗は、ジンから見ても明らかなことが何度かあった。

 他のチームと協力でも出来ていたなら、どうにか優勝させないことは出来たかもしれない。

 もちろんそんなことはアウトであり、その結果として早稲谷の栄光はここまで続いているわけだが。


 先頭打者にはインハイのストレートを投げてきて、選球眼のいい一番が思わず仰け反ってしまう。

 だがコールはストライクであり、球速は150kmも出ていないが、球威の方は相変わらずなのだろう。

 そのまま変化球を組み合わせて、三球三振。

 三振を奪うタイプのピッチャーであっても、普通ならそのストレートや変化球を活かすために、ボール球を上手く使うものだ。

 だが樋口のリードにはそんなことはなく、基本的に空振りが取れる場面以外では、ゾーンの外で勝負することはない。


 もちろんそれは、直史も武史も、抜群のコントロールを誇っているからだ。

 普通のピッチャー相手なら、樋口もそれなりに球数を使う。

 ちゃんとピッチャーに合わせ、バッターにも合わせて変化するのが、樋口の恐ろしいところである。

 そしていざという時に、点を取ってくれるバッティング。

 ピッチャーにとっては得がたい相棒だろう。


 今日はどのタイプのリードをするのか。

 樋口は直史と組んだなら、二種類のリードが出来る。

 三振を取るリードと、球数を減らすリード。

 そしてそのどちらであっても、普通のピッチャーの球数よりも、ずっと少ない球数で試合を終わらせることが出来る。

(あんなピッチャーこれから先に、育てることは出来るのかな)

 全国から精鋭が集まる帝都一でも、あんな素材を見ることはありえないだろう。


 結局は三振一つで、内野ゴロ二つ。

 粘ることは出来ず、球数は10球で終了。

 だが本当にまずいならば、九球未満で回を終わらせてしまう。

 どうにかして一イニングあたり、12球以上は投げさせるようにしたい。

 それでも直史は、150球を投げてもスタミナは切れないのだが。




 あの、一番熱かった夏。

 延長15回を投げて、一人のランナーも出さないパーフェクトピッチング。

 大介と真田の相性が悪かったこともあって、白富東も点を取ることは出来なかった。

 しかし15回を投げて150球程度で、次の試合も普通に先発した。

 酷使ではないのかとも言われたが、球数制限には全く引っかかっていない。

 直史は練習では300球でも投げるピッチャーだった。

 今年の春までは少し精度を落としてきていたが、それをまた上げてきている。


 完全燃焼。

 誇張ではなく倒れるまで投げたあの夏、直史は燃え尽きてもおかしくなかった。

 いや、ジンの見る限りにおいては、技術もフィジカルもさらに強くなってはいるが、あの夏ほどの凄みは感じない。

 大学野球は直史にとって、ビジネスだ。ジンもそれは知っている。

 ただその仕事は、直史にとっては少なくとも、退屈なものではなかったようだ。


 プロの試合を見ていると、大介は上杉以外のピッチャーからは、安定してホームランを打ったりして成績を平均化させている。

 おそらくほとんどのピッチャーは大介にとって、脅威ではない。

 普段は自分との戦いであり、そして上杉との戦いは真剣勝負。

 あの二人の対決は、見ているだけで気が遠くなる。


 直史が本当に燃え尽きるほど投げるとしたら、それは大介との対決であろう。

 高校時代は紅白戦を行う場合は、まず確実にチームを分けた二人である。

 成績としては、それなりに大介は直史から打っていた。

 だが打率的に見れば勝った対決でも、大介は釈然としない表情をしていたりした。

 その理由はWBCの壮行試合を見て、なんとなくジンにも分かった。


 直史が結局のところプロを選ばないのは、もちろん口にしていることも間違いではないのだろう。

 だが本当の理由は、プロで投げても面白くないという、なんとも甘い理由ではないのか。

 ただそれだけ馬鹿にしても、直史の実力からすると仕方がない。

 タイタンズの二軍との試合で、武史が完封している試合があった。

 あのあたりからも考えて、直史はプロのレベルに見切りをつけたのだろう。

 大学を卒業して仕事が安定したら、クラブチームで野球をやりたいなどと言っていたが、おそらくそこまで腕を鈍らせてからでないと、相手になるようなバッターもチームもない。

 強くなりすぎてしまったなどというのは、どこのゲームのラスボスかといった感じである。


(出来れば俺が、敗北を教えてやりたかったんだけどな)

 帝都一の今年の打力は、それほど高いとも言えない。

 だが強力なプロの代表選抜が相手であっても、樋口と組めば負けないのが、直史の限界である。

 つまりは、限界に達していない。




 試合は続く。

 そして淡々と、直史はアウトを重ねていく。

 投げるために生まれたようなマシーン。だがそれは、オーバースペックだ。

 

 もしも、あの時。

 WBCのプロ選抜を相手に、ノーヒットノーランとなっている事実上のパーフェクトを達成しなかったら。

 そして試合に負けていたなら。

 特例として選ばれた日本代表の中で、他の国のメジャーリーガーの参加者に打たれたなら。

 決勝で100球以内の完封などをしなかったら。


 様々なifがある。

 打ち取るために、さらにまだ技術を磨く必要があったなら。

 大介の他にも、直史が対決するべきと判断するバッターがいたなら。

 そしたら直史は、プロの世界に足を踏み入れたであろうか。


 正直なところ、それはもちろん分からない。

 だがジンが思うに、それでもプロの世界は、直史にとって魅力的なところではなかっただろう。

 この大学野球において、直史は散々に自己流を貫いている。

 ただ楽しむだけの中学時代から、白富東という箱庭を経て、大学野球の世界に入った。

 そして自分に合わせて、環境の方を変えてしまった。

 直史は使われないことを恐れない。

 だから選手の起用を一手に握る監督が相手でも、全く恐れることはない。

 そして状況が、チームが、勝利のために直史を必要とする。


 恐ろしく我儘であり、だからこそ誠実であった直史。

 その最後のシーズン、神宮大会は平日にも行われるため、試合に投げるかは分からない。

 確実にそのピッチングが見られるのは、この秋のリーグ戦が最後。

 その最後のリーグ戦で、直史は一人のランナーも出していない。


 どれだけの優れたピッチャーであっても、直史のようなグラウンドボールピッチャーは、どうしても守備の穴を突いて、ランナーが出てしまうことはあるのだ。

 だが樋口のリードと、堅い内野守備があるおかげで、ヒットになるような当たりがでない。

 それでもなお、直史は強運と言える。

 運命の女神か、それこそ野球の神様に愛されたのか。

 直史はひたすらに投げ続けて、延々と三者凡退を対戦相手に強いていく。


 面白いやつだよな、とジンは口の中で呟かざるをえない。

 あいつと一緒に高校野球をして、甲子園に行って、バッテリーを組んでいた。

 高校球児の最後の夏を、負けることなく終えられたのは、間違いなく直史のおかげだ。

 だからこそ恩返しに、なんとか面白い試合にしてやりたかったのだが。

「どこまで行くんだか」

「限界は見えないね」

 呟いたジンに、シーナが返す。


 スルーを投げるようにならなければ。

 シーナがジャイロボールなどを投げなければ、直史はどんなピッチャーになっていただろうか。

 試合は続くが、直史は乱れない。

 その限界を見せるのは、まだこの舞台ではないようである。

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