第198話 刻み続ける伝説
神話が誕生しようとしている。
おそらく一人のプレイヤーが作り上げる記録としては、ピッチャーに限らず不滅のものになるであろう神話だ。
同じ世代に生きた者は、全てが引き立て役か、脇役になるしかない。
その中では助演男優賞を獲得しそうなのは、樋口、武史、そして辺見あたりであろうか。
素直に目の前の敵を叩き潰す樋口や武史と違って、辺見には罪悪感がある。
それは直史も運用を間違えて、リーグ優勝を逃したこと。
そしてもう一つは純粋に、佐藤直史という人間に関わってしまったことである。
直史の獲得は大学の方針であり、辺見には止めようがなかった。
そしてあまりにも特別扱いではあったが、実力が突出しすぎていた。
この時代の早稲谷を、佐藤直史のチームと呼ぶことはあっても、辺見のチームと呼ぶことはないだろう。
西郷や樋口、武史といった個性の強いキャラクターの中で、辺見は完全に埋没している。
たとえばジンがこのチームの采配を握ったら、おそらく四年間でリーグ優勝八回を成し遂げ、不滅の大記録を達成したであろう。
だが辺見の下手に直史を温存するという路線も、結果だけを見れば悪いことではなかった。
パフォーマンスを落とした時期も直史は、無失点記録は続けていた。
大学四年間において、自責点は0というのが、直史の成績である。
0の神話とでも言うべきだろう。
この0の数字は大学の試合だけではなく、国際試合でも維持された。
おそらくピッチャーとしては、永遠に残るであろう記録だ。
そんな直史は第三戦となる法教との試合で、日曜日ならば登板が可能だという。
法教は打線好調で、強力なピッチャーを投げさせるのに越したことはない。
ならば当然佐藤兄弟となるわけだが、自分の役割に虚しさを覚える辺見である。
チームを勝たせるのが監督の仕事。
だがピッチャーを指名してしまった時点で、ほとんど試合の勝敗は決まると言ってもいい。
プロ志望の選手たちは、もう志望届を出している。
高校生の中では大阪光陰の蓮池の評価が高かったが、甲子園でのプレイで故障し、その順位の優先度を下げていた。
ただ素材としては一級品であり、ピッチャーとしてだけではなくバッターとしても、そのセンスは世代ナンバーワンと言われている。
じっくりと高卒選手を育てる球団からは、一位指名される可能性が高い。
大卒選手として注目されているのは、やはり樋口であろう。
キャッチャーとしては異例の複数球団競合も予想されているが、本人の逆指名とも言える球団の好き嫌いが、どう影響するかは不透明である。
あとは畿内大の近衛や法教の谷といったあたりも、スラッガーとして注目されている。
ただしこの二人は直史に完封されている。
一番の注目選手が、志望届を出していない。
本当にプロに行かないのかと、今さらながら騒ぎ出す者もいる。
プロには興味がないと、何度も言っているのだ。
直史の野球選手としての魂は、おそらく甲子園のマウンドに置いたままになっている。
最後の一人をアウトにした後、気が付けば病院だったわけで。
上杉のような不動の巨岩にも似た、神々の宿る肉体とは違う。
佐藤直史はあくまでも、人間としての限界を持つピッチャーだった。
それが大学の舞台では、全てを制圧する圧倒的なピッチャーに進化したが。
大学の四年間で、さらにピッチャーとしては進化を遂げていた。
そして無理な起用によって、故障をしたわけでもない、
三年の秋から四年の春にかけては、ややピッチングの精度が落ちてもいた。
しかし最後のリーグ戦では、またも当たり前のように完全試合を達成する。
この強大すぎる才能の前に、何人の人間がプロを諦めたことだろう。
プロの世界を知っている辺見としては、直史が例外なだけで、プロの世界でもここまでおかしな生き物はいない。
もっとも今のセ・リーグは投打に、史上最強の化け物が一人ずついる混沌の時代であるが。
法教大学との土曜日の第一戦。
この日は小雨が降っていた。
直史はベンチにもおらず、だが早稲谷の面々に、不安なところはない。
この試合の先発は武史であるからだ。
法教の谷もまた、この年のドラフトの注目選手である。
なにしろ直史ほどではないが、武史が大学時代にホームランを打たれてことなど、数えるほどしかない。
ただ変なピッチャーの意地を持たない武史は、樋口のリードの通りに投げることが出来る。
ストレート勝負などということは考えず、内野ゴロが抜けていく程度ならばヒットも許容する。
そうやって状況に幅を持たせれば、必ず試合には勝てるのだ。
早稲谷が初回から先制し、流れを一気に呼び込む。
最初の谷との対決は、ナックルカーブとチェンジアップを使った後、ムービング系のボールで内野ゴロに打ち取る。
たいていのピッチャーからならフライ性の打球を上げることが出来る谷だが、武史のスピードのムービング系ではそうそう思い通りにはいかない。
ただし三振に取れなかったことを、悔しがる武史の姿がベンチで見かけられる。
ホームランの恨みは怖いのである。
試合自体は早いうちに勝利が見えので、あとは武史記録である。
本人としては別に、勝ちが決まった試合なら他のピッチャーに任せてもいいのだが、辺見がこだわっているのだ。
武史の叩き出している、奪三振記録に。
ピッチャーだった辺見は、大学時代はエースが普通に完投する時代に投げていた。
今は大学でも普通に継投をして、ピッチャーへの負担を軽くしていく。
それでも頭の中が古い辺見は、どうしても武史の奪三振を見たいのだ。
応援席でもKの旗を振っている者がいる。
毎試合18~20個ほどの三振を奪う投球は、これもやはりバッターの心を折ってしまう。
武史のピッチングのえげつないところは、むしろ試合の中盤以降から、その真価を発揮する。
肩の関節が暖まって柔らかくなると、そこを大きく使って加速に必要な距離が増える。
そして指先のかけるスピンは、綺麗な水平軸。
浮いたように見える球は、高めでいくらでも三振が取れる。
ただしこの球はスピン量の関係で、当たればそれなりに飛ぶ。
当たらなければどうということもないのだが。
ヒットとエラーが一つずつあったが、四番の谷に四打席目が回ることなく、試合は終了した。
11-0と圧倒的なスコアであり、三振も19個奪った。
「強いていうならあと少しだけ、打たせて取るピッチングにしたいな」
樋口の要求は高く、それも直史の球を受けているから無理もないのだ。
武史の球数も、おおよそ120球以内には抑えられている。
だがこの先プロに進むなら、さらに球数を抑えることは重要になってくる。
日本のプロ野球の場合は、中六日体制をほとんどの球団が採用している。
それだけの時間があれば、確かに普通には回復するのだ。
しかし球数を減らすのは、いざという時のスクランブル体制でも投げられることになる。
武史は兄譲りの身体ケアをしっかりとしているため、大卒ではあるが200勝を狙ってもいい素材だ。
たいがいのピッチャーは、沢村賞を取るほどのものでもどこかで、故障して投げられなくなるものだ。
正直なところ樋口は、沢村賞はともかく200勝投手というのも、最近では価値を置いていない。
分業体制によって勝てる試合が、ある程度は潰されていくからだ。
だが引退後の人生を送る上では、200勝という名刺は絶大な効果があるだろう。
樋口としても2000本安打は狙った方がいいかな、と思っているほどだ。
ただあまり長く、プロ生活を送るつもりもないのだが。
樋口は冷徹な自信家である。
キャッチャーは一度スタメンを固定すれば、かなりの期間を過ごせることを知っている。
打撃の方を評価されて、最初はキャッチャーではなく代打で使われるかもしれないな、とは思っている。
出来ればスターズに入れれば、そろそろ引退時の尾田の、後釜に座れそうではある。
だが本当に実力で奪うなら、レックスあたりがいいのではとも思う。
ドラフト会議が近付いてくるにつれ、やはり四年生の間には重苦しい雰囲気が漂ってくる。
早稲谷の同級生の中には、NPBではなく独立リーグや、また社会人へと進む者もいる。
この年代はスター選手が揃いすぎたため、実力に比例した出場機会を与えられていない者が多い。
それ以上に活躍すれば使ってもらえるのだろうが、そのあたり辺見は安全策を取るタイプで、特待生でもあまり出番のなかった者は多い。
そんな四年生の空気を全く読まない、直史が日曜日の先発である。
前の試合と同じように、快調に投げていくのだが、今日はボールが伸びすぎる日であるらしい。
初回こそ珍しく高めに外れるボール球が多かったが、そのことごとくを、法教のバッターが振ってしまっていた。
バッターにはおう見えているのかは分からないが、樋口からするとなかなか、リードするのが微妙である。
ただ、高めのボール球を振らせることが出来るというのは、かなり組み立てが面白くなってくる。
直史もまた、六大学史上屈指の、奪三振マシーンである。
調子が良すぎた武史にその記録は破られ続けているが、大事なのは奪三振ではない。
自分の勝ち星ですらなく、チームが勝てばいい。
直史はそのために、大学で野球をしているのだから。
樋口はそのためには、間違いなく最高の相棒であった。
ジンなどはむしろ、野球部全体の管理に長けた人間であった。
最高学年になっても二番手キャッチャーとして、ピッチャーの育成の方に力を入れているという。
まあ打てないキャッチャーではあるが、間違いなくキャッチャーとしては一流だ。
事実直史が入学して以来、早稲谷に勝ってリーグ優勝をしたのは、帝都大しかない。
おそらく辺見よりもずっと、直史や樋口を使うことが出来ただろう。
この最後のリーグ戦を前に、連絡は遮断しているが、全てが終わったらどんな感じであったのか、聞いてみたいものである。
帝都は慶応を下しているので、次の帝都との対決が、事実上リーグ戦の優勝を決める戦いとなるだろう。
慶応に村田がいたのは驚いたものだが、この秋はそれほどぱっとした成績を残していない。
どれだけいい軍師がいても、その作戦を採用するのは指揮官である。
医学部でずっと野球から遠ざかっていた村田の話を、信じられないというのはある程度仕方のないことだ。
直史としても、ジンと同じように、村田は間違いなく優れたキャッチャーだと思うのだが。
様々な理由はあるが、人は野球から離れていく。
全ての人間がプロを目指しているわけではないし、目指したからといってプロになれるわけではない。
たまの休みに、草野球をやる友人がいれば、それで充分だろう。
左手で投げても、充分に速いだろうが、野球は楽しんでこそのものだ。
最初にボールとバットを持った時、どんな感じがしただろう。
正直直史は、中学時代の不完全燃焼から高校でも野球を続けただけなので、最初の頃の気持ちなどもう憶えていない。
だが全く勝敗にこだわらない試合が出来るようになったら、その記憶の扉は開いてくれるかもしれない。
新しいカーブを、法教の選手は予想どおりに注意してくれているようであった。
別に新しいカーブではなく、本来カーブというのは、ああいう変化を期待された変化球ではないのかと、直史は思ったりもする。
この試合ではそれ以外にも、カーブを多く使った。
良く曲がるようになったスライダーは、外のボールゾーンに逃げて、空振りをたくさん取ってくれた。
これとカットボールを混ぜると、バッターのスイングは止まってしまうのだ。
振らせるべき球は振らせ、打たせるべき球は打たせ、そして見逃し三振を取る。
直史は淡々とアウトを積み重ねていくが、法教側の応援ベンチは、お通夜よりもひどい絶望に染まっている。
打てるボールではない。
打席の中のバッターさえも、士気喪失してしまっているのではないか。
もう残り少ない公式戦で、ある程度の手応えがあるバッターと対決するのは少ないはずだ。
敵ながら、最後まで諦めないことが、野球においては大切だと思うのだが。
直史が投げると、味方の援護が少なくなる。
ただそれでも、平均して二点ぐらいは取ってくれるのだ。
一点あれば大丈夫。
直史としては五点以上は点差がほしいと思うのだが、実際に一点あれば勝ってしまうので、あまり切実に受け止められることがない。
秋のリーグ戦、第四週は法教戦。
打者27人に対し、球数91球で奪三振14個。
そしてランナーは一人も出ることはなく、完全試合達成。
最後のバッターを片付けて、マウンドの上でふうと息を吐く直史。
その伝説が完成し神話になるのか、さすがにそれはまだ誰にも分からないことである。
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