第197話 二度変化する
東京六大学秋のリーグ最大の注目点は、佐藤直史が投げてくるのかということである。
卒業後にプロには行かないと明言していて、また周囲の人間もそれを拡散しているので、本当にそうなのかと残念に思うファンは多い。
純粋に、アマチュアの間だけの野球。
それなのに残した実績は、国際戦無敗どころか、国際戦無失点。
国内トップレベルの大学リーグで、何度もパーフェクトを達成している、奇跡のような存在。
その最後が、いよいよ迫っている。
『日曜日に先発登板だってさ』
誰が言い出したのか、辿れば早稲谷の学生を名乗るアカウント。
嘘か本当かどうかはともかく、期待は膨らむ。
四年目から大学院に編入しているという話も、似たようなアカウントから拡散されている。
個人情報の保護など全く考慮されていないが、別にこの程度ならば直史も文句はない。
ただしこれ以上の干渉が私生活に及べば、法的な措置をとらなければいけなくなるだろう。
有名税という言葉は嫌いな直史である。
別にファンに稼がせてもらっているので、その対応は塩である。
彼が提供するのは勝利のみ。
愛想笑いなど必要はない。勝つことが直史の契約――約束だ。
パーフェクトもノーヒットノーランも、その他の様々な歪な記録も、全ては取引によって提供している。
その中にマスコミ対策は含まれていない。
土曜日の第一試合は、武史が投げて勝った。
そして日曜日の第二戦、立政大学との最後の試合。
最後の夏の甲子園で投げた時のような、まだまだ終わりたくないという感覚はない。
むしろこれで、やっと終わりかとすら思えてくる。
(やっと終わるな)
面白くない試合の中で、無理矢理自分で課題を見つけて、それを果たそうとしたピッチング。
嫌々とまではいかないが、何も期待せずに投げているほうが、ずっと楽に数字を残せる。
最強のピッチャーがプロを経験することなく、野球を引退する。
クラブチームでのんびりとやるつもりの直史であるのだが、いまだに批判というか、文句は多い。
知名度だけで何も分かっていない週刊誌などは、いまだに直史が指名されるとしたら、などという記事を載せたりする。
六大学の選手たちは、結局無敗にして無失点でこの伝説が完成するのかと、最後の抵抗をしかけてくる。
春のリーグの時点ではわずかながら、完全無欠のピッチングとまではいかなかった。
ただその代わりにやたらと早い試合進行をしたり、珍しくもなくなったノーヒットノーランをしたりと、相変わらずの怪物具合だ。
大学時代には完全試合も含めて、リーグ戦で10回以上もノーヒットノーランを達成した。
五つの大学相手に、全てのチーム相手に達成しているのだ。
大学野球において、ノーヒットノーランの価値を変えてしまったと言えるほどの記録。
そもそも一度でも達成したら、ずっと自慢出来るのがノーヒットノーランと言うべきものだ。
プロで三度も達成している上杉もおかしいが、大学野球の世界で何度も達成しているのも、同レベルかそれ以上におかしい。
これに関しては直史は、春に五回、秋に五回投げるリーグ戦の方がよほど楽だと思っているが。
それでも二試合連続完全試合などというのは、どこか性能の箍が外れている。
マウンドの上に立つ直史。
そういえば神宮の方が、マリスタや甲子園より、多くのマウンドに立つ球場になってしまった。
セイバーはここを本拠地とするレックスに、武史を引っ張ってくるつもりらしいが、武史は雨天での試合を嫌う。
直史も好きではないが、武史のメンタルはいまだに屋内競技用のものだ。
ドームなら一番ピッチャー有利なのは、NAGOYANドームと言われている。
だがセイバーはあのチームには、影響力を持たないのだとか。
球界のフィクサーになりつつある人間のことはさて置いて、とりあえず目の前の試合である。
ここにきて今さらながら、直史はまた試したい球が出てきている。
(こいつ本当に野球やめるつもりあんのか?)
樋口は本当に、心の底から呆れるが、直史はプロに行かないだけで野球を一切辞めるというわけではない。
子供が出来たらキャッチボールぐらいはしたいな、と普通に思っているだけである。
一回の表のその初球に、直史は要求する。
この一球だけでこの試合は支配出来るだろうが、と樋口は呆れている。
その球種はカーブ。
色々と条件が、それこそ対戦するバッターの身長やフォームに依存するが、面白い変化球ではある。
すっぽ抜けたようにリリースされたカーブに、先頭打者は動きを止める。
この球はここから変化するにしても、初見では打てない。
そう思ったボールが、予想通りに途中で落ちる軌道になる。
そしてベースの手前で、もう一段巻落ちたように見えた。
(!!??)
漫画の魔球の中には、物理法則を曲げて二度変化するボールがある。
ひどいものになると渦巻き回転しながらミットに収まるボールもある。
正直そんなもの、人間の投げられる球ではない。
だが確かに、二度変化したように見えた。
(そういうことだ?)
それを気にしている間に、ストレートとスライダーで空振り三振した。
ベンチに戻って聞くのは、当然ながらさっきの初球のカーブ。
「初球、ベンチからはカーブに見えたか?」
「カーブだったと思うけど。えらい落差とスピードもそこそこあったけど」
「だよなあ」
カーブ系であることは間違いない。
四種類以上のカーブを投げられる直史が、今さら実験しているカーブ。
俗に言われるホップするストレートと同じく、あくまでも錯覚したものだ。
すっぽ抜けたようにリリースは高めに、そして軌道の頂点から落ちていく。
カーブの回転でより鋭く落ちるため、キレのあるカーブが加速するような印象を与える。
二番打者と三番打者にも、それぞれ一球ずつを投げる。
実際のところこのカーブは、バッターの体格によってはボールになるようにしか投げられなかったりする。
それでも、誰にでも使えるわけではないということを相手は知らない。
投げてこられないカーブであっても、その幻影に注意を払わざるをえない。
途中で二段階変化するボールなど、無回転で空気中の微粒子により揺れるナックル以外は、理論上存在しない。
存在するとすればアンダースローの投げる、途中までは浮き上がるようで、手元では沈むストレートぐらいだろうか。
結局はどちらも錯覚ではあるのだが、野球に慣れた人間の脳ほど、こういったボールには対処出来ないものだ。
新型カーブは、二段階カーブ、あるいは直史のカーブであることから、Nカーブと呼ばれるものになる。
実際はカーブのリリースタイミングやゾーンへの進入角度を、バッターによって調整した普通のカーブだ。
錯覚を使う変化球というのは、他にもある。そもそもストレートにさえバックスピンによるホップ成分というものがあるのだ。
このカーブの実験台にされた主力選手陣の中には、本当にプロに行ったらこんな化け物はいないのだろうな、と不安を感じていたりする。
同じリーグ内で、また全日本などで、そんな無茶苦茶なピッチャーとは対戦していないのだが。
上杉に加えて真田、そして次には武史も入るらしいセ・リーグには行きたくないなと考える野手陣である。
ただバックで直史のピッチングを見ていると、なんだかこれはスポーツではなく、舞台演劇のようにも思えてくる。
主役、佐藤直史。そしてその他。
変化球の緩急で空振りも取れるし、打たせて取ることも出来る。
自分のところにボールが飛んできたとき、エラーをしないようにする。
それに頭がいっぱいで、バッティングが疎かになるという弊害が出てしまっている。
本日は六番に入っている樋口も、得点は他に任せている。
夏場に徹底的に一人で投げ込み、出力もキレも取り戻したエースだ。
例のカーブはキャッチャーから見れば、普通のカーブの一つでしかない。
だがどういうコンビネーションで投げていくかで、この試合の結果は決まる。
とりあえず一点取ってもらえば、今日の直史なら大丈夫だ。
スコアは0-0で進むが、早稲谷はランナーを出しても上手く活かせていない。
ただそれで焦ったりはしない。
普段通りに直史が、パーフェクトに抑えてくれる。
半分以上の確率で、奪三振も取っていく。
ほとんどがゾーンに投げていて、無駄球を使わない。
サイン交換が素早く、審判がプレイと宣言すると、すぐに投球モーションに入る直史。
そしてそこから投げる球が、キャッチャーのミットに吸い込まれる。
要求通りのコースに間違いなく決まる。
ピッチングと言うよりは、射撃や狙撃に近い精度。
それを変化球でもやってくるのだから、相手のバッターとしてはたまらないだろう。
淡々としてピッチングだ。
まるで凍りついたように、バッターが動けない。
ゴロを打たせることも、フライを打たせることも自由自在。
要所では空振り三振を取ってきて、上手く追い込んでからはゾーン際のボールをわずかにストライク判定させる。
立政のバッターは混乱していた。
あのボールはなんなのか。
バッターボックスに入れば、カーブの一種だとは分かる。
だが傍から見ていると、普通のカーブに見えるのだ。
ただこの残像を追っていると、速球系に対応出来ない。
今日の直史はストレートで空振りが取れている。
春のピッチングとはまるで別人。
三年の春の、一番良かった時期に戻っているのではないか。
もちろんどの時期が一番良かったかは、人それぞれ意見があるのだろうが。
ランナーが一人も出ない。
観客席やテレビの向こうでは、延々と続いていくただアウトを取るだけのお仕事に、徐々に期待が高まり続ける。
一瞬の興奮を味わうバッターのホームランよりも、ピッチャーの積み重ねていく凡退は、緊張感が違うのだ。
この調子ならばやってしまえるだろうと思っても、実際には途中で途切れてしまうことがある。
そんな中で佐藤直史は、狙ってパーフェクトが出来る、世界で唯一のピッチャーだ。
バッターの二巡目までが終わって、三振13個を奪うパーフェクトピッチング。
球数も多くなく、おそらくは90球前後でフィニッシュすることが出来るだろう。
だが今日は、なかなか一人のピッチングだけでは試合が決まらないらしい。
0-0のまま、延長に突入する。
それなりのランナーを出している早稲谷だが、あと一本が出てこない。
パーフェクトに抑えながら無援護というのは、高校時代の甲子園の決勝を思い出すが、大学野球では条件が違う。
直史が投げているのだ。
だから絶対に、点は取られない。
10回の裏に、早稲谷はごく普通にランナーを出して、四番の近藤の一打で、ランナーをホームに帰した。
1-0という、本当にわずか一点での勝利。
そして直史は延長10回を投げて、パーフェクトピッチング。
思えば早稲谷の打線陣は強かったため、これまで延長に入ることはなかった。
10回を投げてパーフェクトという、また人間離れしたことをする。
確実に全盛期の力を取り戻している。
ちょっと野球に時間配分を傾ければ、こういったことが可能なのだ。
つくづく凡人に対して、希望と絶望を与える男ではある。
試合後のインタビューでも、特に話すことはなかった。
「ピッチャーは誰でも、初回からは一点も取られないことを考えて投げてますから」
いやそれは理想であるかもしれないが、実際に出来る者はいない。
プロの世界なら上杉などは、ローテを回して勝ち星を増やすために、ある程度力を抜いて投げて、そこで点を取られることもある。
直史の場合は間隔はプロと同じように空いているのだから、これぐらいのことは出来るのだろうか。
そしてプロ入りに関して問われると、これまた愛想なく応じるのである。
志望届は出さないと。
予備試験に落ちているのは恥ずかしいので言わないが、元々合格率は4%ほどの試験なのである。
この秋は直史にとって、趣味の野球の総決算であるのだ。
立政の中にも、プロから注目されている選手はいた。
だがバッターの技量というのは、もうあまり直史には関係ない。
単にプロに注目されている程度のバッターならば、十把ひとからげに始末することが出来るのだ。
(まあ、たまらないだろうな)
樋口としてはひたすら、直史をリードするだけの試合であった。
あまり打つほうは考えず、塁にはフォアボールで出たが。
こいつと戦わなくて済む、プロのバッターは幸いである。
最後のリーグ戦、とりあえずは一つ勝利。
直史の都合によって、投げる試合は変わっていく。
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