十四章 大学四年 ラストシーズン

第196話 最後のシーズン

 樋口は呆れていた。もう何度目のことかも分からないが。

 九月。大学はまだ夏休みであるが、野球部は普通に練習試合はある。

 そんな練習試合を一切無視して、ブルペンとクラブハウスでトレーニングとピッチングをしていた直史が、気が付いたら元通りのスペックに戻っていた。

 即ちストレートはMAX150kmを軽く出し、スルーのコントロールもほどほどによく、変化球のキレが戻っている。

 何より追い込んだ後にストレートで三振が取れる。


 真面目にずっと練習やトレーニングをやっていた者がバカのように思えてしまうが、こういう形の才能を持っているのだから仕方がない。

「ただし全開出力はあんまり出せないぞ」

 元はと言えば144kmのストレートでパーフェクトをしていたので、それで充分とも言える。


 この時期になると、プロ入りが現実的に見えてくる。

 またプロ入りではなくても、社会人へ進みたいという者も出てくる。

 早稲谷の人間では、キャッチャーの小柳川などが、時代が悪かったとも言える。

 一年から直史のボールを受けていた樋口に、完全に出番を独占されていたからだ。

 練習試合にまで注目する者なら、その能力が優れていることは分かっただろう。

 だが今年に目を向けたなら、練習試合では打てるキャッチャーである上山が、一年のくせに目立ったりしている。


 主砲候補だったり、ショートを守りたかった選手も、この世代は直史と樋口だけではなく、全体的にレベルが高すぎた。

 まだしもピッチャーは、投げる機会が多かっただけマシと言えるだろう。

 実際一年の時は梶原と直史、それ以降は直史と武史、さらに淳などに出場機会を奪われても、調査書は複数球団から来ている。

 樋口は露骨に、希望する球団以外には調査書を返さなかった。もっとも志望届を出せば、強行指名されても文句は言えないのだが。

 しかしこんな人間性にクセのある選手を取りたいと思う球団は案外少ないのではないか。

 もっとも実際にチームメイトになれば、勝利のこととチームものこと以外は、何も考えてないのだと分かるが。


 樋口も本来なら、中学で野球は辞めるはずだったのだ。

 それが父親の死と、復讐と、その恩返しと社会の変革と、さらには初恋のために、色々と思い通りの人生は歩めていない。

 直史も歩めていないようでいて、実は一番実入りのいい道を歩んでいるかもしれない。

「それで志望届はもう出したのか?」

「いや、とりあえず調査書が向こうに返ってからだな」

 樋口は別に金満球団に行きたいわけでも、熱烈なファンの球団があるというわけでもない。

 ただ主義として、千葉と巨神には行きたくないという理由はある。

 ちなみにこれは直史もかなり似通っている。直史はどうせ行かないので関係ないのだが。


 建前としてはプロ球団の関係者は、単純に世間話程度をするなら、現役の球児などとも話しても構わない。

 技術指導や勧誘などをすると一気にアウトになるが。

 監督である辺見の元には、球団のスカウトが普通に情報収集に来るのだが、樋口ははっきりと、三球団、特にその中でもセの二球団に絞っている。

「監督から説得してもらうわけにはいきませんか?」

 試合の中の指示さえ平然と無視し、使われなくなっても全く痛痒を感じない人間に、監督のどんな言葉が響くというのか。

 辺見は自分の失態にもなるのである程度ぼかすが、樋口が自前で想定外指名の時の就職先も決めているとは伝えた。


 あとは直史をどうにか説得と言ってくる人間もいるのだが、あれこそまさに辺見ではどうにもならない名状しがたき存在である。

 話が出るごとに直史は、プロ野球が嫌いになっていっている気がする。

 それとマスコミ嫌いで、中でも弁護士志望のくせに、左派系の論調が多い新聞が嫌いらしい。

 なるほど甲子園でも塩対応であったのは、そういうわけかと思わせる次第である。


 なら弁護士ではなく判事や検事になれよと言いたくなるのだが、直史はそもそもが保守的な人間なのだ。

 現行の秩序を維持するために、法律を身につける。それが主義である。

 とにかくマスコミが嫌いで、特に高校時代は大介のスランプ時の取材などで、徹底的に嫌いになったらしい。

 そりゃ高校生の身内の事情など、左派系マスコミが徹底して守ろうという問題であるが、それでも直史は左派系の思想が嫌いらしい。

 不思議な話ではある。

 ただ直史がレイシストで、真の意味のフェミニストで、マキャヴェリズムの信奉者であることは間違いない。

 一番弁護士などやらせたらヤベーやつである。

 もっとも辺見にはそこまでの、社会学的な知識はなかったが。




 残暑の厳しい中、秋のリーグ戦がやってくる。

 直史はブルペンでの調整に集中していたため、練習試合にも出ていない。

 そんな中で高まっているのは、サウスポーで150kmを投げる村上である。

 一個下に160kmオーバーの化け物がいるので感覚が麻痺するが、サウスポーで150kmオーバーというのは、なかなかいるものではないのだ。

 この秋のリーグ戦はプロのスカウトへの最後のアピールチャンスと言われたリもするが、実際のところはここまで来たらもう変えることはまずない。


 甲子園にもスカウトは必ず訪れるが、あそこは他のスカウトとの答え合わせの場所のようなものなのである。

 事実、最後の甲子園には出ておらずとも、プロから一位指名される選手はいる。

 地方大会でどこまでのピッチングをしているかが、一番のポイントなのだ。もちろんバッターにも同じことが言える。


 大学生にしても春のリーグ戦はともかく、全日本などはそれぞれのチームのリーグのバランスを測るような場所である。

 ただここ数年は全日本も神宮も、早稲谷がひたすら蹂躙を続ける場所でしかなかったが。

 初戦の東大戦において、土曜日の第一戦は武史が先発する。

 これは来年のドラフトの目玉なのだが、スカウトからはかなり難しい評価をつけられている。

 もちろん素材としては、世代ナンバーワンなのであろう。

 高校時代もすごいものであったが、大学に入ってからは早稲谷のドクターKなどと呼ばれている。

 平均の奪三振率が20近くもあるピッチャーなど、他にはまずいない。

 それこそ高校時代の上杉ぐらいであろう。


 レックス以外お断りと、明確にメッセージを出しているのは、最近のプロ志望者の中では珍しい。

 そしてそれ以外から指名された時のために、本当に就職先は決めてあるのだ。 

 芯からの野球好きの人間にとっては、いささかならず気に障る存在であるが、それも仕方がないことだ。

 武史の中には野球愛というものがない。

 だから我慢をわざわざしようとは思わない。試合に出られなくても別に構わないというのが、武史のスタンスであった。

 そのあたりは兄に似ているが、プロの世界にちゃんと進むつもりがあるだけで、才能が埋もれることにならないのはありがたい。


 辺見としては、まだこれでも直史よりは扱いやすいのだ。

 それと武史には、大学の数々の記録を更新して欲しい。

 とりあえず三進を簡単に奪っていく姿は、蹂躙という言葉以外に表現するものがない。

 一年の秋以降のリーグ戦では、常に80個以上の三振を記録する。

 まさに左の上杉であると言うべきか。


 九回を投げて打者29人に110球。

 奪三振21という、ギャグのような数字である。

 ただこれも直史に言わせれば、球数をもっと減らせるだろうということになるのだが。

 ノーヒットノーランを簡単に達成しているが、リーグ戦ではこれが六回目。

 歴第二位の数字であるが、おそらく一位には届かないであろう。




 そして日曜日には今年のドラフトの注目株である村上だ。

 相手が貧打の東大とあって、こちらも見事なピッチングを繰り広げる。

 それでも前日と比べると、物足りないと思われてしまうのが悲劇である。


 プロのスカウトとしては、実力の割りにどうしても評価されていない村上を、何位で指名していくが、かなりの重要事項である。

 六回を一安打二四球の無失点。

 充分に注目すべき数字であるのだが、相手が東大ということで割り引いて考えられてしまう。

 高校の時点で既にプロから注目は浴びていたが、大学の四年間で確実に伸びた。

 それでも埋もれてしまうのは、本当に運としか言いようがない。


 実力的に考えれば、直史と左右のエースとなっていたはずなのだ。

 だが本格派としてのサウスポーには武史がいて、技巧派の軟投派としては淳がいる。

 ただそれでも、最後にプロの世界で活躍できれば、野球選手としては勝ち組だ。

 興味を抱かずに、プロには進まない者は他にもいる。

 慶応の村田なども、キャッチャーとしてのリードには定評があった。

 しかし医者になるためには、野球などはしていられない。

 司法試験を受けることを目標にしながら、野球を続けていられた直史の方が異常なのである。


 そして七回からは、星がマウンドに登る。

 調査書は届いたが、本当に指名されるかどうかは分からない。

 だが鉄也は実際に、辺見とは話してあるのだ。

 もしも下位指名、あるいは育成ドラフトでも、レックスに来るつもりはあるのか。

 鉄也としては下位指名に押し込みたいところであるが、彼の目標の第一は樋口の獲得である。

 そのあたりの他のスカウトとの駆け引きが、鉄也の現在での一番忙しい仕事だ。


 来年のレックスは、武史を指名するつもりなのだ。

 あちらからも言及された相思相愛であり、サウスポーの160kmが手に入るというわけで、今でも既にお祭り騒ぎだ。

 確かに鉄也としても一位指名には相応しいと思う。

 だがレックスに欠けているのは、むしろ野手陣であるのだ。

 吉村に金原と、リーグを代表するサウスポーを、二人も持っているレックス。

 投手王国と言われてもおかしくはないのだが、実際にはそうでないのはなぜか。

 キャッチャーの問題だと、元ピッチャーの鉄也は分かる。

 だから今年はなんとしても、樋口を取りたいのだ。


 キャッチャーが上手くなるためには、すごいピッチャーとバッテリーを組むのが一番手っ取り早い。

 樋口は高校時代に上杉兄弟、またワールドカップU-18代表と、同世代の実力のあるピッチャーの球は大半を捕っている。

 そして大学でも日米大学野球やWBCにと、その経験はおそらく学生ナンバーワン。

 来年取る武史を最大限に活かすためにも、樋口は取っておきたいのだ。




 星も三回を投げて、二安打の無失点。

 おそらく彼に調査書を出したのは、レックスだけだろうなと考えている鉄也である。

 そしてそれは正しい。

 

 高校時代から見てきた選手の一人だ。

 高校時代よりも対戦相手のレベルが上がっている大学野球で、ちゃんと通じているアンダースロー。

 最下位でもいいから、育成ではなく支配下登録で指名したいと、鉄也が必死で説得している選手である。

 星に限らず、鉄也のピックアップした選手は、他の球団に取られて才能を開花させていることが多い。

 大介などはどうしようもないが、大原なども七位あたりで取れないかと言っていたら、ライガースに先手を打たれた。

 しかし甲子園でパンクしたと思われている金原を、順調に回復しているという話を聞いて、見事に指名させることには成功した。


 この六年間で鉄也が獲得してきた選手は八人にもなる。

 吉村などは他球団も狙っていたが、他の選手は主にピッチャーを、上手く二位以下の指名で獲得している。

 競合で取るようなピッチャーは、他のスカウトも目をつけているのだ。

 二位以下でそれだけ確実に、狙っていた選手を獲得出来るか。

 それがスカウトの醍醐味であり、本領発揮というところだ。

 ぶっちゃけ上杉や大介などは、一位指名して当たり前であり、活躍しても当たり前なのだ。

 もっとも大介の年、指名が集中すると考えていた鉄也は、井口を単独で指名したら、競合せずに取れると主張したものだが。


 関東以外に東北にも、足を伸ばしているのが鉄也である。

 村上などは高卒の時点で、指名したいと思っていた。

 ただ本人の進学の意思が固く、下位指名で美味しくいただくことは出来なかったが。 

 大学でいまいち活躍は出来なかったが、それは同学年に直史がいたからという理由がある。

 高校時代から見てきただけに、今度こそ手に入れたいが、かなり商品価値は上がってしまっていた。




 今年のドラフトの注目選手は、プロに進むつもりはないと、はっきり断言してしまっている直史である。

 プロ入りしない直史のことを、逃げたという球界関係者もいる。

 だが逃げた先が司法試験というのは、あまりにも困難な道のりではないか。

 単純な話、今のプロ野球選手で弁護士をはじめとした法曹資格を持っている者はいない。


 プロへ挑戦しなかったなどというのは、野球を中心に考える人間の発言であり、はっきり言って世界が狭いのだ。

 去年のドラフトで言うなら竹中なども、大学四年生になっても、まだプロ入りなど考えてはいなかった。

 大阪光陰の正捕手という、その時点で高卒でドラフトにかかる才能と言われていながら、慶応大学に自力で入学。

 それは将来、親の会社を継ぐためという、はっきりした目標があったのだ。

 数百人の従業員と、その家族まで含めた数千人の生活を、その両肩に背負う覚悟。

 なんだかんだ言って一匹狼の個人事業主であるプロ野球選手の方が、よほど気楽であろう。

 それに将来的に動かせる金銭についても、しょせんは個人のプロ野球選手とは比べ物にならない。


 志望届の提出は、ドラフト会議前日までは受け付けている。

 しかし直史が気を変えることは、ないことだと分かっている。

 おそらくどれだけ優れた弁護士になろうと、ピッチャーとしての戦績を上回ることにはならないだろう。

 だが怪我でもして選手生命を絶たれた場合、球団がその将来を最後まで保証してくれるわけではない。

 直史は臆病なのではなく、単純にシビアなのだ。


 早稲谷が勝ち点一を上げた。

 そしてこの土日で、直史は投げなかった。

 残るカードは四つ。

 早稲谷を見に来ている鉄也は、直史がちゃんと投げ込んでいるのを知っている。

 最後の表舞台になるのか。あるいは優勝して神宮大会でも投げるのか。

 史上最強のアマチュアと呼ばれるであろうピッチャーの、最後の大きな戦いが、ついに始まったのである。

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