第195話 調査書の行方

 大学の長い夏休みの中でも、直史と瑞希が遊んでいるわけではない。

 ほとんど勉強である。

 授業が始まるまでは、普通に夏休みも野球部は活動しているのだが、甲子園も終わったこの時期になると、プロから調査書が届いたりする。

 これは高校生や大学生には、プロのスカウトが注目しているということを示すものであり、この多寡によって選手の注目度が分かる。

 球団によってこの内容は異なり、選手の所属する学校やチームに向けて送られる。

 そしてプロを志望するならば、これを返送するわけである。

 なお内容は基本的に、内申書のようなものであるが、もっと単純に身長体重なども書いていく欄があったりする。

 基本的にこれに返送しなくても、高校生と大学生はプロ志望届を出した場合、その選手を球団は指名することが出来る。

 実は調査書を送っていない球団も、選手がプロ志望届を出してさえいれば、ドラフトで指名することは出来る。

 ただしそういうことをする前に、スカウトは選手自身にはともかく、監督などには接触出来る。

 そこで感触を聞いて、ある程度指名の順位に関係してくることもある。


 あれだけ言っていたのに、直史にも何球団かから調査書が届いたらしい。

 もちろん完全無視で、プロ志望届なども出さない。

 かつての有力選手の強行指名、そして交渉という手順は、お世辞にも誉められたものではなかった。

 逆指名制度があった頃が、おそらく一番金が動いた時代であろう。

 現在はかなり手順が変わって、ドラフト制度も少しずつ公平なものとはなっている。

 ただいまだに、闇の深いところはあるのだ。


 早稲谷からは何人もプロ志望の者がいるが、その中でプロへの道を諦める者もいる。

 先が見えた、と自分の才能に見切りをつけるというべきか。

 早大付属組の山口は、実家の方での就職を決めてきた。

 早稲谷の中では沖田と共に二遊間を守り、打順は二番でチャンスを広げる役割であった。

 彼にも調査書は届いていたのだが、ドラフトとしてもおそらくは下位指名。

 そろそろこっそりとスカウトなどは接触してくるのだが、辺見の言う限りでは、まずはプロにさえ入れば、あとは自分次第ということになる。


 山口がプロを諦めたのは、自分の持っている能力が、フィジカル的なものではなく技術的なものだからだ。

 二番打者として器用になんでもこなすというのは、近年では少なくなってきている。

 そしてプロに入ってしまえばあとは自分次第というのは、逆に言えば自分に自信がないなら、絶対にプロには行かないほうがいいということでもある。


 そんな山口と鉄壁の二遊間を作る沖田も、今は迷っている。

 山口よりはずっと、バッティングの成績は良いわけではあるが、求められるのはショートとしての守備力なのか。

 長打力はイマイチであり、そして三年になってから本格的にプロにアピールしだした樋口に比べると、勝負どころでの弱さを感じてしまう。

 これもまた、自分に自信がなくなってきた例の一つである。

 夏休み中の試合で、怪我をしたということも大きい。

 もちろんそんなたいしたものではなく、二週間ほど安静にすれば、選手生命に影響が出るほどのものでもなかった。

 だが将来を見つめなおすには、二週間というのは充分な期間であった。

 そして怪我をすればプレイ出来ないというのは、普段から散々に言っている直史という存在がいる。


 逆にその直史と、二年になってからは武史によって、常に三番手以下のピッチャーであった村上は、調査書が来て絶対に志望届を出すと、改めて決心していた。

 近藤と土方、そして樋口に村上と、この四人はプロに進むことをかなり明確な目標としている。

 特に樋口などは、ことあるごとに逆指名のようなことを言っている。

 在京球団で、千葉、巨神以外。

 特に出来れば、レックスかスターズなど広言している。


 レックスは正捕手の座を奪える自信があり、スターズは数年で正捕手が引退するだろうと見ているからだ。

 あとはジャガースも正捕手は、そこそこの年齢になっている。

 キャッチャーは割りと長く活躍出来るポジションであるが、もしジャガースに行くなら、正也と高校以来のバッテリーを組むことができるというものだ。

 千葉がNGなのは地理的な理由であり、巨神は純粋に競争が激しすぎそうだからだ。

 思想は保守的ながら、樋口は球界の名手であるタイタンズには、なんとない反発を感じているものらしい。




 そんなプロ志望のメンバーとは別に、頭を悩ませている者もいた。

 レックスから調査書の届いた星である。

 確かに三年の頃からは、練習試合でそこそこ投げていて、リーグ戦や大会でも、短いイニングを投げることはあった。

 ただそれでも、プロのレベルに達しているとは思えないのだが。


 全く考えていなかった星が相談したのは、高校時代からのチームメイトである西と、県内で鎬を削った直史である。

 直史の場合は首を傾げたが、レックスのスカウトならばやはりジンの父なのかと考えると、それで当たっていたらしい。

 基本的にスカウト一人が目をかけたからといって、その選手が必ず指名されるわけではない。

 チーム事情によって必要なポジションは数が決まっており、上位指名でピッチャーが多く取れれば、下位指名では野手の優先順位を上げてくる。

 そして指名するにしても、支配下登録と育成では、全く扱いが違う。

「ホッシーは教員になって、高校野球の監督やりたいんだろ?」

 コクコクと頷く星に対して、なら迷う必要はないだろうとも思う直史である。


 ただ、星としてはプロの世界に、興味がないわけではないらしい。

 それに昔と違って今は、プロ経験者でもアマチュアの指導、特に高校野球の指導に、ちゃんと携わることが出来るようになった。

 指導者を目指すのなら、プロの世界を経験してからでも、遅くはないだろう。

 幸いと言うべきか、教員免許の更新制度もなくなっているわけだし。

「プロの世界にも興味はある、と」

 やはりコクコクと頷く星である。


 高校時代の指導者を思い出すと、直史が知っている中では、身近なところでは秦野やセイバー、ある程度野球に昔から関わっているが、秦野もプロを経験したわけではない。

 そして他のチームの監督を見ても、国立や鶴橋などといった監督も、プロの経験はない。

 ドラフトの目玉になりそうな国立も、結局はプロの世界は一度も踏んでいないのだ。

「俺はいいと思う」

 直史は他人の人生ではあるが、もし失敗してもこれならやり直しが利くと思う。

「結局プロでは大きな活躍が出来なくても、その経験は他の高校の監督でも、まずまずない経験だろ。教員免許自体は持ってるんだし、野球部の監督がやりたくて元プロ野球選手なら、採用されるのに最後の一押しになるかもしれないし」

 打算的に考えても、ここでプロの世界に入っても、別にそれほどの回り道ではないと思う。

 そもそもまだ注目しているというだけで、本当に取るかどうかも分からないのだ。


 ただ、これが他の球団なら、ちょっと話は変わっていた。

「でも水沢さんにはちゃんと話しておいたいいと思うぞ」

 星の彼女である瑠璃は、一つ下の大学生である。

 彼女が卒業後にどういうつもりでいるのかによって、星の覚悟も変わってくるだろう。

 育成ならともかく、支配下登録で星を取るのは、ちょっと難しいのではと考えるのが直史である。

 ただ星の面白いところは、高校時代にもっと低いレベルの相手と対戦した時より、大学で高いレベルの相手と対戦した方が、数字が良くなっていることだ。


 プロ野球選手というのは、どれもこれもほとんどがフィジカルお化けであると直史は思っている。

 星の身体能力は直史よりもずっと低く、平均と比べても優れているのは、その身体の柔軟性ぐらいしかない。

 それでも、あのアンダースローが通用すると思ったのか。

(樋口が一緒にレックスに行ったら、上手く使ってくれそうではあるけどな)

 星のプロ入りに関しては、自分のそれと違って前向きな意見を述べる直史であった。




 そして相棒もまた、思い悩むことが多いらしい。

 樋口のところには12球団全てからの調査書が届いた。

 それはそれでスカウトの注目が高いことを示しているのだが、昨今の「指名してくれたらどこにでも」という優等生的な志望を語る学生と違い、樋口は明確に球団の好き嫌いを表明している。

 はっきり言って取りたくない選手のような気もするが、それと樋口の実力とは別だと思うのは直史も同じである。

 村上などは結局大学時代、直史と武史がいたことで、リーグ戦で先発した試合は10試合もない。

 それでも150kmの出せるサウスポーは、プロの目から見ても魅力的なのだ。

 活躍した露出が少ないので、上位指名にはしにくい。

 村上をどれだけ評価して指名するかは、今年のドラフトの注目点の一つであるだろう。


 村上の野球人生は、プロになってようやく、本格的に始まると言ってもいいだろう。

 高校時代に甲子園を経験してはいるが、強豪と序盤で当たって、高い評価を得るところまではいかなかった。

 それでも高校の時点でも、プロからの調査書は来たのだ。

 だが自分の実力をもっとはっきりと証明したいと思って、野球推薦の特待生で早稲谷に入ってきた。

 そして結局、同学年のパーフェクトピッチャーと、一学年下のスーパーピッチャーのせいで、やはり目立つことはなかったわけだが。


 真面目に練習はするし、実力もちゃんとあるし、佐藤兄弟のせいであまり試合に出られなかったという、恨み節混じりのハングリー精神も持っている。

 けっこう成功するんじゃないかな、と直史などは完全に他人事で考えている。


 話を戻して樋口であるが、もしも期待通りの球団に入団できなかったらどうするのか。

「社会人に進んでさっさと身を固めようとか考えてたんだけどな」

 だが樋口に社会人野球のチームを紹介することは、辺見は全くその気はないらしい。

 樋口ならばプロでも絶対に通用する。

 だからどこでもいいからとりあえず行っておけということである。

 もっと他の微妙な成績しか残せなかったが、それでも実力はあるだろうという選手のために、社会人のチームは紹介したいらしい。


 その言い分も分からないではない直史であったが、じゃあ、となる。

「セイバーさんに紹介したらいいのか?」

「……お前が俺の立場ならどうするか聞きたい」

 樋口の商品価値は、高校時代から誉めていたセイバーである。

 それがクラブチームに入ってくれるなら、ありがたいことなのだ。

 セーブ・ボディ・センターは、ちゃんと職員として選手を雇う。

 武史以外に樋口まで抱え込んだら、それは恐ろしい代理人の誕生になるのではと考えている直史である。




 もしも直史が樋口であったなら。

「女を手に入れるために当初の目標を捨てたんだから、女を手に入れるために必要なことを最大限に考える」

「お前はそういうやつだよな」

 そうだよ。


 ただし直史は今後プロの世界とは関わる気がないために、平気で義理に反する選択が浮かぶ。

 それに必要な伝手も、直史は持っている。

 樋口を彼の目当ての球団に入れる方法。

 それは別に難しいことではない。直史のように思考する人間にとっては。

 彼は法律の使徒となることを考えてはいるが、法とは抜け道があることを理解している。

 法は正義の味方ではなく、法律に精通した者の味方なのだ。

 プロ野球の世界に色々と存在する協定などは、もちろん法律に優先するものではない。

 だからといって職業選択の自由などを、ドラフトの戦力均衡にぶち当てることは考えない。

 それは既にある程度の結論が出ているからだ。


 それにしてもレックスは、自分に妙に縁があるな、と考える直史である。

 一番にはジンの父がスカウトをしていたというものがあるが、現在ではセイバーも手を広げているらしい。

 そして武史は完全に、レックス一本に志望している。他の球団なら社会人と言っているぐらいだ。

 タイタンズやライガースなどと違って、レックスを唯一の志望とするのは、けっこう珍しいものである。

 武史の場合は今になっても、別に野球というスポーツがそれほど好きなわけではない。

 だがどうせ来年のドラフトでは、他の球団からも指名が入るのだろう。

 それこそ怪我でもしていない限りは。


 樋口を指名させるのも、その手段を使えばいい。

 怪我のために他の球団は回避。

 そしたら怪我が治るまで、こちらが治療費を持つとでもいう奇特な球団以外は、指名を回避するだろう。

 問題はそういう奇特な球団が、複数は存在しそうなところだ。

 あとはレックスが、樋口を一位指名できるのかどうか。

 レックスは今年もシーズンを順調に負けているが、それでも樋口を取ろうと思えば、一巡目指名は絶対条件だと思う。

 大卒キャッチャーなので高卒キャッチャーほどではないが、それでもキャッチャーの一位指名は難しい。

 ただしキャッチャーとしてではなく、バッターとして樋口を見ることもあるだろうが。

 打てるキャッチャーは貴重なのである。


 


 ドラフト会議は10月の下旬、つまり秋のリーグの終盤にかかって行われる。

 現在のチームは四年生が主力となっているため、ドラフトを前にして浮き足立ってしまうことも考えないといけない。

 直史としてはとりあえず試験には落ちたものの、しっかりと勉強をする必要が薄れたわけではない。

 来年は大学院に進み、そこを修了してから五年が、司法試験を受けられる期間である。

 年に一度しかない試験、一発で通っておきたいものだ。

 それにそこで合格しても、まだまだ先は長い。司法修習という実地での学習があるからだ。


 直史入学後の早稲谷は、一度を除いてずっとリーグ優勝をしている。

 もう二度とない記録であろうが、最後の最後で負けてしまったら、それは嫌だなと思う直史である。

 ただ月曜にまでもつれ込むことはもちろん、土日であっても自分が投げられない試合は出てくる。

 それこそ村上や星にとっては、最後のアピールチャンスとなるのかもしれないが。

 実際はもう秋のリーグ前には、球団の指名リストは決まっていて、よほどのことがない限り、これが変更されることはない。

 それこそ怪我をして、そしてその情報が出回ったりでもしない限りは。


 秋のリーグ戦は直史が、本気で投げる最後の舞台。

 だがそこには、色々な思惑が絡んできそうである。

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