第194話 閑話 これもまた夢

 日本野球史上を見ても、最も多くの変化球に精通し、コントロールしたピッチャーと言うなら、直史はプロでの評価がなくても五指に入るし、なんなら一位としてもいいだろう。

 右腕からは基本スリークォーターだが、サイドやアンダーからも投げて、その角度でしか使えない変化球も使える。

 ただしそのパターンから投げる変化球の種類は少なく、コントロールも本人比で悪くなるため、よほど面倒な相手との初対決ぐらいしか、使うことはない。

 ぶっちゃけると高校野球のトーナメントですら、研究が進めば有効性は薄れる。

 来ると分かっていても打てない時には、確かに有効であろうが。


 そんな直史が今、使えるように考えているのが、沈まないスライダー、

 直史は分かりやすくライズスライダーなどと呼んでいる。

 耕作にとっては、自分のスライダーはあれなのである。


 ピッチャーやピッチャー候補に、ひたすら変化球を伝授した。

 ただ変化球というのは人によって、向き不向きがある。

 直史の場合はとにかく指が柔らかいため、ボールを大きく包み込むタイプの変化球も投げられる。

 そして指が長いため、縫い目にもしっかり指が巻きつくわけだ。


 そんな直史をしても、ライズスライダーの再現は難しい。

 いや、単に投げるだけなら、サイドスローにすれば投げてしまえるのだ。

 ただ直史の場合は、サイドスローからであると、投げられる球種が限られるのだ。

 スリークォーターの普段のフォームから投げるには、ライズスライダーは難しいというわけだ。

「これならサイドスローから投げる球を増やして、その中のコンビネーションの一つとして使っていった方がいいか」

 どうやら普通に活用する方法を考えてしまうらしい。

 確かにまあ、トルネード投法から投げるサイドスローなど、それだけで初見殺しではあろうが。

 これから対戦するバッターは、フォームの違いから生まれるコンビネーションまで、考えて狙わないといけないのか。


「詐欺みたいな性能だ……」

 誰かが言った。誰が言ってもおかしくないであろうことを。

 全く同じフォームから、同じピッチトンネルを通って、様々な変化球が投げられる。

 中にはリリースの瞬間に違うものだと分かる変化球もあるが、そういうものはそもそもタイミングが取れないので、やはり打てるものではない。

 コンビネーションにより、バッターを完全に封じる。

 これが世界に通用するピッチングだと、高校球児たちはしっかりと受け止める。


 この実力を持っていても、プロには進まないのか。

 国立はそう思うが、気持ちは分からないでもない。

 一度かなり大きな怪我をして、長い間練習すら出来なかった。

 その後は完治しているはずなのに、試合ではベストなパフォーマンスを発揮することが出来なくなった。

 通用するとかしないとかではない。

 野球に対してバカになれる人間でなければ、プロには行くべきではないのだ。

 そして完全にプロを諦めてからは、また全力を出せるようになったところが、野球バカたりえない国立の限界である。




 直史が見る限り今の白富東は、甲子園に行くことはかなり難しい。

 一番はピッチャーの問題である。

 エースナンバーを背負った新キャプテンの耕作は、左のサイドスローという、かなり珍しい属性を持っている。

 野球のピッチャーにおいて希少であるというのは、それだけで有利である。

 だが一試合を通じて強豪校と対決するには、無理があるだろう。

 試合中にアジャストされて、打たれる。

 だからピッチャーをあと二枚は作りたい。


 白富東の歴代のエースクラスのピッチャーは、ほぼ全員が中学時代無名か、外国からの帰国子女・留学生である。

 例外と言えるのは本当に、岩崎ぐらいだ。あとはあえて白富東を選んだ淳も別の種類の例外だが。

 あとは山村もそこそこ名前は知られていたか。エースクラスと言うには実力不足であったろうが。

 中学から有名で、高校で即戦力となるピッチャーが、来年入ってくる可能性は低い。

 だが素質が不充分であっても、投球術などでそれを補うことは出来る。


 直史は150kmを投げられるようになったが、よく言われるのはそれだけの筋量しかないのに150kmが投げられるのはおかしい、というものだ。

 だがそれを言うなら上杉のような体格の持ち主はもっといるが、上杉のような球は投げられないではないか。

 セイバーのジムにある、人間がどれぐらいピッチング時に、全身の筋肉を使っているのか、計測する機械によると、直史はおおよそ97%ほどを使っている。

 そして軸足からの体重移動を考えると、どれだけ効率的にパワーをボールに伝えられるかが、ピッチングの肝なのだ。


 一つ一つの動作を次につなげていく中で、ロスをどれだけ出さないか。

 これが速い球を投げる技術である。

 単にストレートに握りにしても、指二本を揃えて投げるか、やや間を空けて投げるかで、その球威と制球が変わってくる。

 直史はそういうことも語りつつ、フォームを指導し改善していく。

「とりあえず股関節柔らかくしたら、それだけで球速は上がるから」

 球速を増すには、体を柔らかくすること、そして伸ばすことが重要になる。

 だがそういう意味では、耕作は下半身が硬い。

 柔軟性がないと言うよりは、どっしりとしていると言うべきか。


 そのおかげで球速の上限は伸び代がなさそうだが、フォームがちゃんと固まっているという点では一番だ。

 コントロールをもっとつけて、変化球の精度を上げる。

 そしてとにかく、体力をつける。

 高校野球は高度な練習で質を上げるのも重要だが、今の白富東であれば、まずはピッチャーの体力増強が必要だろう。

 継投するのが前提の投手運用になるだろうが、自分一人でも完投出来るぐらいには、体力をつけておかないとまずい。

 三イニングずつ、上手く投げ分けることが出来るわけでもない。

 誰かの調子が悪ければ、他の二人でフォローする必要があるのだ。




 色々と投手陣には教えたものの、それが実行できるかどうかは、やはり個人の資質による。

 直史は技巧派であり、武史のようなストレートを投げることは出来ない。

 そして直史のストレートのはるか手前に、普通の人間の限界はあるのだろう。

 特定のコースや球種が苦手な選手相手には、なかなか全てとまではいかないが、出来るだけバッピで投げてやる。

 ほどほどに手加減して、あまり自信をなくさないようにしてやることも必要だ。


 そんな中で、国立は頼むことがあった。

 自らがバットを持って、打席に立つ。

 三打席勝負。

 プロに行かなかった天才と、プロに行かない怪物の、エキシビジョンマッチとでも言おうか。

 

 国立はノックの腕も上手く、そのスイングは毎日見ている白富東の選手たちである。

 時にはお手本として、マシンの変化球をどう打てばいいのかを見せることも多い。

 だが、本物の怪物クラスのピッチャー相手に、どれぐらい今なら打てるのか。

 

 国立としてはこれは、我儘だとは分かっている。

 だが色々な理由をつけても、直史とこうやって勝負したいのは、野球人としての自然な感覚である。

 三打席勝負というのは、かなりピッチャーに有利だ。

 直史は肩も出来ていて、八月下旬の暑さの中で、ほどよく汗もかいていた。


 国立のバッティングについては、アベレージヒッターながら打つときは、簡単に長打を狙っていくというタイプであった。

 だが現在の国立はどうなのか。

 選手の指導のために体を動かしているが、真剣勝負の場からはもう遠く離れていた。

 実は折を見ては、クラブチームなどに顔を出して、感覚が鈍らないようにはしているのだが。




 興味深い対決である。

 常識的に考えれば、最近少しボールの質が落ちてきたとはいえ、直史が勝利するだろう。

 10打席もあれば分からないが、三打席である。

 それこそ直史は、四打席の方がいいのではといったものだ。

 ただしこの勝負、直史はフォアボールで歩かせるわけにはいかない。

 フルカウントからボールになる変化球が投げにくいという点では、国立に有利なところもある。


 キャッチャーボックスの塩谷は、簡易なサインを直史とかわしている。

 このキャッチャーが慣れていないということも、やや直史には不利な点だ。

 しかし純粋にバッティングだけの勝負なので、後逸したり振り逃げといったことは、気にしなくていい。

 国立はただ打つことだけを考えて、直史はただ抑えることだけを考える。

 そのバックを守るスタメン選手たちも、かなり興味深い対決である。


 一打席目の初球はカーブ。

 落差のあるカーブに、国立は反応しない。

 審判役をしているのはキャッチャーの塩谷がそのままである。

「ストライクです」

「うん」

 短く応じた国立は、投げた後の直史の姿勢までも、じっくりと観察している。


 一打席目は見ていく。

 直史の変化球の種類と、そのコンビネーションを考えれば、三打席でどうにかなるとは思えない。

 だが直史のピッチングを、実際の打席に立って感じなければ、いきなり打てるようなものではない。


 二球目、直史はストレートを投げた。

 アウトローのぎりぎりに、まさにゾーンを掠めるかのようなコース。

「ストライク、です」

「うん」

 審判によっては、ボールと言ってしまうコースかもしれないが、それでも絶妙なところだ。


 ゾーンに連続で投げ込まれて、あっさりと追い込まれた。

 ここからは国立は、まずはミートに徹する。

 その国立に向けて、直史は投げる。

 ピッチトンネルを通った球が、下に向かって伸びていく。

 これを国立は振って、ボールの上を叩いた。

 ワンバンで塩谷のプロテクターに当たり、ファールである。


 スルーを当てられた。

 だが直史は驚かない。今の自分のスルーは、あまりキレがないのだ。

(それじゃあどうするのかな)

 直史としてはリードを塩谷に任せているわけだが、ちゃんと首を振るつもりはある。

 ただしここまでは、特にその必要を感じなかった。

(どうしよう)

 困る塩谷であるが、とりあえず速い球の後は遅い球がいいだろう。

 そう単純に考えて出したサインに、直史は頷く。


 ひょいと投げられたボールは、遅かった。

 だがその軌道の頂点からは、角度も鋭く落ちてくる。

 ドロップカーブはゾーンを通り、これをまた国立はカットする。


 遅くて落ちる球の後は、速くて落ちない球を。

(インハイにストレートを)

(国立先生相手だと、打たれるような気がするけどなあ)

 そうは思った直史であるが、まあこれもいい経験だろう。

 クイックモーションからの、タイミングが取りにくいストレートは、二重の意味で速い。

 国立は振りにいって、そして見事に捉えた。

 レフト前にボールが落ちて、三打席勝負と言いながら、一打席目で国立が勝ってしまった。


 スルーとカーブの軌道を見せられた上で、バックスピンのかかったストレートを捉えられるのか。

 打たれるかもしれないと思っていた直史だが、まさかこうもクリーンに捉えられるとは思っていなかった。

 苦笑が浮かぶが、ちゃんと調整していれば、もっといいストレートは投げられただろう。

 それでも国立は打ってきたかもしれないが。


 やはり、プロの世界には行くべきではない。

 国立の打撃力は、おそらく近藤や土方よりも上だ。

 読みで打つ樋口とはタイプが違うので比べられないが、対戦してきたバッターの中でも、かなり上位に入るだろう。

 これまでにも感じてきたことだが、こんなバッターがプロに行っていないのだから、直史もプロには行くべきではないのだ。

 今日もまた一つ、プロに行かない理由が出来た。

 ただし、これで全てを終わらせるわけにはいかない。




 三打席勝負は二打席目と三打席目も行われ、直史は内野ゴロと内野フライに国立を打ち取った。

 今度は塩谷のサインに、首を振った上でのことである。

 国立は正直、キャッチャーの塩谷の配球のクセも分かっていたので、やはり五分の勝負とは言えなかった。

 ただこれだけのボールを投げていても、全盛期の直史よりは落ちていることを感じる。


 WBCの時の直史は、こんなものではなかっただろう。

 あるいは代表との壮行試合の時も。

 それを思うと国立は、どこかで本当の勝負として、運命が交わらなかったことを惜しく感じる。

「花を持たせてくれたのかな?」

「いえ、あれで打ち取れると思ったんですけどね」

 二打席目と三打席目は打ち取られた国立だが、三打席通じて直史は、二球しかボール球を投げていなかった。

 ゾーンの中だけで勝負出来ると考えていて、その中でスプリットとスライダーが一球ずつ、空振りを取っていった。

 そこから決め球をゾーンに投げられて、ミスショットしたわけだが。


 いい経験になった、というのはお互いの認識である。

 だが直史としては、いくら国立が優れたバッターであったと言っても、現役の勝負の舞台から離れてもう何年にもなうr。

 自分の調子が万全ではないし、キャッチャーのリードが甘かったことも認めるが、それでも打たれていいような勝負ではなかっただろう。

 国立レベルの才能は、プロにいけばそこそこいるのだ。

 それがオフシーズン以外は野球漬けなのだから、とても通用するものではないだろう。


 今の自分では、大介を封じることは絶対に出来ない。

 どこか悲しい感じがするが、事実ではあると思う。

 野球という、自分の人生を決定付けたものが、体から抜けていく。

 それはある意味、別れの一つの形であるのだろう。




 この夏、まだ数度直史は、白富東を訪れた。

 望まれればバッティングピッチャーもしたが、国立と勝負しようとは思わなかったし、国立ももう一度とは言わなかった。

 お互いが既に、全盛期でないことが分かっている。

 それで勝負をするのは、なんだかとても恥ずかしいことのように思えたのだ。


 三人のピッチャーを、直史はそれなりに鍛えた。

 そしてこの秋、白富東は関東大会にまで進出する。

 しかしセンバツが確定するところまでは勝ち進めず。

 冬の間に本格的に、ピッチャーもバッターも、力を上げていく冬を迎えるのである。

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