第192話 真夏は昼にも夢を見る
フィジカルかテクニックか、短い時間でどちらを優先して維持していくか。
直史に言わせれば、フィジカルトレーニングは空いた時間ですぐに出来る。
専門の機械の計測や、相手がいないと難しいテクニックの方をこそ、やれる時間でやるべきだろう。
春のリーグ戦も、全日本も、正直直史のピッチングは全盛期からは遠かった。
各種数字を見れば、色々とおかしなことをやっているが、いくつもあった引き出しから、一発芸を多く披露しただけである。
基本的な技術だけで、圧倒していたのが去年の春までの直史だったのだ。
驕ったわけではなかろうが、WBC以降はモチベーションの低下を感じる。
だが司法試験の受験資格を得る予備試験の不合格より後は、また体のキレが戻ってきている。
本当に純粋に、野球の時間を勉強にかけていただけなのか、と驚く樋口である。
樋口の進路とは無関係だったので、言われるまで知らなかったのだが、直史の受けた予備試験というのは、合格率が4%程度であるという。
官僚になろうとしていた樋口もたいがいであるが、純粋に試験の難しさだけを言うなら、司法試験は医師試験よりも難しいだろう。
錆の下にはまだ煌めく刃の輝きが残っている。
ただその錆を落とすには、優秀なキャッチャーの強力が必要だ。
そして樋口はこの時期、一軍帯同で練習試合に出まくっている。
直史は現在のレベルでも、まだ充分に学生相手なら無双出来るが、調子を取り戻すために下級生のキャッチャーを使う。
全ては秋の、最後のリーグ戦のために。
あとはついでに、神宮大会のために。
だいたいの野球をやっている人間は、練習よりも試合の方が好きである。
試合に備えて練習をしなければいけないというのは分かるが、野球のようにルールが複雑であり、攻撃でも守備でも選択肢が多ければ、練習でそれを確認しなければいけない。
そして練習したことを試合で確認し、またさらに練習していくというのが循環だ。
直史の場合は練習にはもう、あまり興味がない。
どこの少年マンガのラスボスかと思われるかもしれないが、もはや強くなりすぎてしまった。
やるべきことは身体能力と技術の維持。
それさえやっていれば、もう普通にどんな相手とでも戦える。
身体能力が落ち、それに伴った球速やキレが落ちていっても、コンビネーションで相手を封じることが出来る。
肩を作ればそれなりの球速は出るのだが、直史はもう無理をしようとは考えない。
体重、つまり筋肉が落ちているのは確かだ。
そんな中で全力で投げたら、腱や靭帯、細くなった筋肉にどれだけの負荷がかかるか。
筋肉というのは出力であるが、同時にブレーキでもある。
それがなければ肉体は、過剰な出力で壊れかねない。
甲子園の舞台などで、ブルペンでも出ない自己最速が出てしまうのは、実はあまり良くないことなのだ。
しかし下級生の捕手を相手のピッチング練習は、キャッチャーの実力の差が如実に分かる。
キャッチした時の音が、樋口などとは比較にならない。
変化球を捕っても、ミットが流れていく。
被せてくるか、せめて動かないようにキャッチしてほしいものだ。
なので途中からは、構えたミットのところへ、確実に狙ってボールを投げていく。
落差のあるカーブを、なかなか捕れるキャッチャーがいない。
あまりやると心を折ってしまうので、下手にキャッチャーに指名することは難しい。
だが同じ高校の後輩であれば、少しは雑に使える。
上山は白富東の甲子園優勝時の、正捕手であった。
配球もしっかり考えていて、キャッチングの能力は高く、肩も強い。
キャッチャーにしてはかなり足も速く、おそらくちゃんと鍛えていけば、四年生までに正捕手になる実力はある。
ただし樋口のような存在が入ってこなければだが。
キャッチャーはなかなか戦力として育たないので、プロでも高卒で取る場合はあまりない。
大卒や社会人でさえ、数年かけて育てるポジションだ。
ただ直史は壮行試合やWBCを通して、キャッチャーの実力の基準が分かっている。
「キャッチャーはたぶん、一番練習が結果を裏切らないポジションだな」
直史はそう考えている。
ただしピッチャーの次ぐらいには、素質などより性格での向き不向きがある。
ピッチャーはどこかネジの外れたぐらいの性格の方が、むしろ成功したりする。
だがキャッチャーは黒子に徹する覚悟が必要だ。
もちろんピッチャーが弱気になった時は、それをフォローすることも必要となる。
そして一番情報を持たなければいけないのが、日本のキャッチャーである。
MLBなどではリードはむしろ投手任せで、キャッチャーは壁であり盗塁を阻止するのが役目だ。
そして打撃力もかなり求められる。
上山はとにかく忍耐強い性格だ。
悟と同学年のこの男は、左右二人の三年生に、150kmを投げるユーキ、それに左のサイドスローに加えて、秦野が作った即席ピッチャーの球を、数多く受けている。
そんな上山でさえも、直史の変化球を全てキャッチするのは難しい。
ついでに来年以降の正捕手候補として、武史や淳までも投げてくるのだ。
ただこれだけ多くのピッチャーのボールを受けていると、キャッチング技術は爆発的に向上する。
八月の終盤、直史は一試合に先発した。
相手は大学ではなく、社会人野球である。
これまでにも何度か、直史は社会人のチーム相手には投げている。
社会人チームは平均した選手の質は、大学野球よりもさらに高い。
だがその中に突出した選手がいるかどうかは、大学のチームでしかも六大や東都の一部とは、変わらないものである。
かつて社会人野球はもっとたくさんのチームがあったが、野球人気や企業の業績悪化により、名門のチームでも野球部を廃止するようになった。
代わりにクラブチームは増えてきているわけだが、そんな狭き門の社会人野球であるために、より技術は洗練され、フィジカルも完成度が高くなっている。
社会人からプロへ進むとなれば、それはもう即戦力であることには間違いない。
そんな選手が今日の対戦相手にも、ちゃんといたりするのだ。
だが直史としては関係ない。
問題は相手がどんなものであるかではなく、自分の調子がちゃんと完全であるかどうか。
ただ相手チームにとってみれば、直史は色々と厄介な指標の一つではあるのだ。
高校時代には甲子園の優勝投手で、伝説と共に甲子園に登場し、伝説を残して去っていった。
ワールドカップではパーフェクトリリーフのクローザーとして、二年生ながら日本の世界一に貢献した。
そして大学野球での活躍は誰もが知るところであるし、大学生からごくわずかな例外として、WBCの選手にも選出された。
プロから選抜された代表チームを相手に、大学の選抜チームのエースとして対決し、まさかの事実上のパーフェクトゲーム。
大介を完全に封じたあの試合が、無理矢理WBCに選出された理由でもある。
そしてWBCでは決勝を一人で投げぬき、メジャー入り直前のアメリカの若手を相手に、完封してのけた。
上杉に比べれば、フィジカルで圧倒するというタイプではない。
だがだからこそ、その技術は世界の頂点に立つものなのだろう。
どんなピッチングが見られるのか、と思っていた。
だがこれは一軍との試合で、バッテリーはちゃんと樋口と組んでいる。
辺見としてはこの試合、他のキャッチャー、特に下級生を使っていくつもりだ。
樋口のリードなしで、どの程度直史が力を発揮出来るのか。
これまでも衰えや不調を見せつつも、それでも勝ってしまうのが直史であった。
ただ公式戦に比べると気楽に投げているのは、ベンチからでも分かる。
そもそも大学入学の条件としては、公式戦への出場というものがあった。
だが直史は自分の都合で、投げる時には投げるのだ。
一人の選手が突出しすぎると、チームとしてのバランスは悪くなる。
それが分かっていながら、辺見は直史を制御出来なかった。
しようとすると失敗して、チームに敗北を招いたりした。
結局当たり前に運用して、どう封じるかはバッテリーに任せるのが、一番確実なのである。
そしてこの試合でもそうだった。
春のリーグ戦や全日本では、直史のピッチングには力強さがなかった。
それでも無失点に抑えてしまうあたり、コンビネーションの他にも、試合の勘所で勝負をすることは出来ていたのだ。
対して打線は、直史が投げる時は援護が少ない。
どうしようもないことだが、直史があまりに打たれないので、我武者羅に点を取りにいくよりは、守備でミスをしないことに頭が向いたりする。
まさにこの試合、その展開になっている。
直史は打たせて取ることを基本に考えている。
そして変化球でゴロを打たせて、追い込んだならストレートを投げるようになった。
球速は落ちているストレートなのだ。事実スピードガンで測れば、150kmが出ていない。
だが相手はミスショットして、内野フライが関の山。
外野にまでボールが飛ばない野球になっている。
数字だけを見れば、他の試合に比べても、地味なものに思えるだろう。
だが実際に対戦している社会人の大人と、そしてスコアをつけている者、またそれを直接見ている者は、またピッチングのスタイルが変わったのかと思ってしまう。
練習試合であっても、早稲谷にはプロのスカウトがしっかりと目をつけている。
それが分かっている中で、こんなピッチングをするのか。
対戦する相手の方は、真綿で首を締められているような感じであったろう。
基本的には内野ゴロを打たせる。
それも丁度内野の間も抜いていかない、守備の動きに合わせたゴロだ。
そしてそういった打球を打たせることに失敗し、ツーストライクになってからは、ストレートで押してくる場合が多い。
辺見からすると三年の時には、これで空振りを取っていた。
それが内野フライになるあたり、伸びが悪くなっているのかとも思える。
だが実際には内野フライを意図的に打たせているようにも感じる。
まるで空振りとフライの場合を、調査するようなピッチング。
もちろんそこまでは、相手のバッター次第であるので、そうそう思い通りの結果にもならないのだろう。
しかし、この結果はなんなのか。
見る者が見れば、また何かの実験をしていると見えるのではないか。
九回を終えて打者28人に対し、被安打二の無失点。
ポテンヒットが二本だけというのは、完全にミートを外している。
そしてファールになったとしても、外野にまでは飛んでいかない打球にしていた。
奪った三振はたったの四つ。
内野ゴロアウトが12個で、内野フライアウトが10個。そして併殺が一つ。
ランナーが出た時は、基本的には三振を狙うか、ダブルプレイを狙うか。
化け物は三振を狙っていき、凡人はダブルプレイを狙う。
だがこの凡人っぽい球を投げる化け物は、ダブルプレイを好きだったようだ。
野球部グラウンドで観戦していたマニアックなファンと、玄人であるスカウトたちは満足した。
社会人チームにもドラフト候補はいたのだが、内野フライ二つに内野ゴロ一つと、全くいいところがなかった。
だがもう、それで評価を落とすということはない。
直史から打てればすごいが、直史を打てなくても凄くないわけではない。
野球界での常識的な価値観は、そうなりつつあるのだ。
スカウトやマスコミが、辺見と話をしたがる。
樋口のリードがあった試合だが、それでも数字から見れば、ピッチャーの凄さばかりが目立つものであった。
辺見も苦い笑いを浮かべるしかない。
「春は勉強で忙しくて、あまり練習が出来なかったですからね。秋にはまた、いいピッチングを見せてくれると思うよ」
辺見は野球部OBで、プロでも長く投げたピッチャーである。
野球部の指導者らしい指導者だったのだが、直史を筆頭とする今の主力には、なんとも言えない状況だ。
直史は高校時代のメニューを使って練習し、他人の言うことは絶対に聞かない。
それは樋口も似たようなものであるが、こちらはまだ現実的なメニューが多い。
直史がウエイトをやらないというのは、現在の野球の常識からすると、さすがに信じられないものである。
だがそれが現実で、結果を残しているのだから仕方がない。
正確に言えば直史も、インナーマッスルを鍛えるトレーニングはしているのだ。
あとは体軸がしっかりとしており、体幹が強い。
200球試合で投げても、壊れない体の使い方をしている。
試合が終わった後も、クールダウン代わりにキャッチボールをする。
ただそのキャッチボールでさえも、ボールにはしっかりとスピンがかかっている。
見ているだけの者からすると、全く疲れていないようにさえ見える。
だが実際は頭の方はかなり使っているのだ。
夏の日の数日、直史は確かに野球部に戻ってきた。
この年は甲子園に観戦にも行かず、そのせいでもないだろうが白富東は、比較的早めに敗退した。
もっとも大阪光陰との潰しあいであったので、仕方のない部分もあっただろう。
勝った大阪光陰の方も、嘘のようにボロ負けというわけではないが、次の試合ではエースが精彩を欠いた。
夏の終わりには野球部は、韓国への遠征を行ったりする。
だが当然ながら、拘束時間の多いそんなものに、直史が参加するはずもない。
大学の長い休みの中で、勉強だけではなく瑞希と一緒に、帰省する直史であった。
なお武史は遠征に付いて行ったが、腹を壊して試合に出ることはなかった。
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