第191話 四年生の夏

 全日本が終わった。

 野球で人生を続けていく人間には、これからもまだ野球漬けの日々なのだろう。

 だが野球部の中でもそんなものはごく一部で、一般企業に就職するものが大部分だ。

 早稲谷閥というのは大きな会社の中にはあり、野球部出身だと就職に強いと言われている。

 もっともそういう都合のいい学生は、去年までで品切れだろうが。


 まだ夏にはあちこちとの練習試合があり、あとは国際大会もあり、秋のリーグ戦もある。

 だがたいがいプロを志望する者は、この時機までには決めているものである。

 確実に指名されるであろうと思われるのは、樋口、村上、近藤といったところ。

 これにおそらく、土方、沖田、山口なども中位から下位の指名はある。

 もちろん指名されなくても、社会人でやっていこうと考えているのがこの当たりまでだ。

 他には代打でいくらか成績を残した者なども、社会人に行くことを念頭に考えている。


 プロ待ち、という言葉がある。

 社会人野球への内々定が決まっていて、プロに指名されなかったらそちらに、というものだ。

 ドラフトの指名が終わるまで待つということで、村上以外の五人はそういった話が既に出ている。

「まあ調査書が来てからだよなあ」

 近藤の言葉に、うんうんと頷く四年生たち。

 

 過去には強行指名や逆指名など、かなりひどいことが続いていたプロ野球であるが、今は随分とマシになったと思う。

 プロから調査書が送られてこなければ、ドラフト指名されることはまずないし、プロ志望届を出さなかった学生を、球団は指名することが出来ない。

 もしこの制度がなければ、直史の周囲は随分と騒がしいものになっていただろう。

 かつての逆指名制度の頃などは、競合一位指名の大学生になどは、契約金の10倍の金が動いたとも言われている。

 現在の一位指名だけは競合というのはエンターテインメントに富んでいるし、それ以外はウェーバー制という弱い球団から順番に指名できるのも、戦力均衡という点ではおかしくない。


 各球団の指名が本格的に決まるのは、もちろん夏の甲子園が終わってからである。

 そこから調査書が届き始めて、それに選手が返答し、プロ志望届を出すわけだ。

 もっとも調査書はあくまで調査書で、それが送られてきたからといって、必ずドラフトで指名されるわけではない。

 ドラフトも一位と外れ一位ぐらいまではかなり確定しているが、ピッチャーを早い段階で取れれば、二巡目で取ろうとしていたピッチャーの代わりに、三巡目のバッターを指名することもある。

 チーム編成の都合で、ピッチャーの数とバッターの数は変わるのだ。

 キャッチャーなどはキャッチャー能力重視か、バッター能力重視かで、最初からコンバートを考えて獲得することもある。

 現在は育成枠があるが、過去には自由獲得枠があったりと、色々な段階を経てきたのが現在のドラフトにつながっている。




 主に指名が予想されるうち、サウスポーで150kmを出す村上は、まず指名されることは間違いない。

 そして特にどこの球団ということもなく、指名されれば行くつもりである。

 近藤たち早大付属組は、やはり在京球団か、甲子園のあるライガースに期待する。

「よくあんな頭のおかしなファンばっかのチームに行こうとするな」

 大介の試合を何度か見ていた直史は、そういうことも知っている。

 ただ基本的には四人とも、あまり球団を限定して考えてはいない。


 樋口は逆に、在京球団以外お断りである。

 特にセのチームを逆指名しており、レックスかスターズが望ましいと広言している。

 もしそれが無理なら在京の社会人野球に行って、そこでもうプレイする。プロには行かない。

 家庭を持つ上で、在京球団でセでなければ、あちこちの移動が大変だからだ。

 タイタンズを口にしないのは、あそこはとにかくFAで選手を取ってくるため、実力があってもチャンスが少ない。

 特に狙い目なのは、そろそろ尾田が引退するスターズだ。

 タイミングがよければすぐにそこで、正捕手の座をつかめるかもしれない。それにあそこには上杉がいる。

 もっとも樋口の場合は、バッティングで先に出番が回ってくるかのしれないが。


 もっとも山口は、出身地の福島に帰ろうかとも考えている。

 シニアまでは福島にいた山口は、地元での就職も考えているのだ。

 幼少期からの縁で声をかけてくれる人がいて、そちらでコーチをやってみないかとも言われている。

 野球に関わるのは、選手だけでいる必要はない。

 ただどうせ関わるなら、プロを経験してもいいだろう。




 そんな話をなぜか、直史の部屋でしている。

 直史はどうするのか、という問いかけがあるからだ。

「野球はもう遊び程度でいいよ……」

 マスコミから散々に質問されているので、身内にもげんなりと答える直史である。


 編入制度を使った直史は、現在大学院の一年生である。

 法学部の単位を取っているので、二年間で修了すれば、司法試験の受験資格が得られる。

 そしたら五月にその試験があり、それに受かれば一年間の司法修習。

 その最後には司法修習生考試、通称二回試験が行われ、やっと法曹三者となる。

 まあ司法修習で世話になる事務所は、既におおよそ決まっているのだが。


「よくもまあそんなにずっと勉強する気になるよな……」

「そうか? 勉強と言うよりこれは、得意分野を伸ばして知識を得ているだけだろう。野球と変わらない」

 近藤の言葉にそう返すあたり、直史の勉強や野球への取り組み方が分かるというものである。

 だいたいやることは交通事故関連、離婚関連、遺産相続関連など、古くから顧客を既に持っている、瑞希の父の事務所で働く予定なのだ。

 将来的には事務所の名前が変わるかもしれない。


 直史は法律を学んでいき、近藤たちは野球を学んでいく。

 人の人生には本来、学びの終わりというのはないのではないだろうか。

「野球はもうやらないのか?」

「まあ仕事がある程度安定したら結婚して、そこで余裕があったらするだろうな」

 二年間の間、ガチ野球からは遠ざかることとなる。

 子供の頃であれば、三年間のブランクも、すぐに戻すことが出来る場合もある。

 なぜなら常に運動し、成長しているからだ。

 ただ日常的に運動することがなくなる社会人が、二年間も丸々遠ざかるなら。

 それはさすがに、埋めようのないブランクになるのではないか。


 惜しいという気持ちは、確かに誰にでもある。

 だが同時に、このまま神話のように、語り継がれていってもいいのではないか。

 プロの世界には、一度も入ることはなかった。

 だが日本代表には選出され、高校時代、大学時代、そして特例としてWBCで投げて、国際戦無敗であったエース。

 その限界がどこであったか、ついに人々が知ることはなく、日常に埋もれていく。

 直史はそう埋没することを恐れない人間だ。


 将来のことは考えている。

「司法試験に受かって修習も終わったら、試験があるからな。それが終わってからすぐ、瑞希と結婚する予定ではある」

 樋口はともかく、近藤たちからすると、未来のことを詳細に考えすぎていて、逆に気持ち悪くも感じるものだ。

「二年ぐらいしたら子供を作って、そのタイミングで俺は仕事に専念かな。瑞希は無理をしない程度に働いて」

 地元に根を下ろした弁護士は、その人とのつながりが大きく物を言う。


 野球選手は長くても40歳前後で引退だ。

 そしてその後の方が、むしろ社会人として生きていく期間は長い。

 直史のような技術で勝負するタイプは、むしろ技巧派として長く活躍出来る可能性が高い。

 しかしその技術は、ほんのわずかなことで失われてしまうものだ。


 とりあえず近藤たちに必要なのは、様々なプロレベルの変化球を投げてくれるバッピである。

 また直史はコントロールに悩むピッチャーや、変化球を身につけたいピッチャーにも、アドバイスが出来る。

「日米野球はどうする?」

 今年も日本で、日米学生野球が行われる。

 二年生の時には二回先発完投し、完全試合とノーヒットノーランであった。

 二試合目もエラーが一個であったので、自分の責任ではランナーを出したことがない。


 おそらくあくまで結果的にという話であるのだが、直史は国内よりもむしろ、国際戦の方が強いようにさえ思われる。

 確かに情報があまりなければ、多彩なボールを投げ分ける直史は、訳の分からない存在に映るだろう。

 樋口にしても球数制限があったWBCなどでは、完投させるためにわざと、直史の力を完全には引き出していなかった。

 100球で交代というのはシーズン中のMLBの流儀ではあるが、ワールドシリーズになれば、エースに限界まで投げさせるだろう。

「俺はもう、リーグ戦と神宮だけでいい」

 さすがの直史であっても、司法試験に合格するには、かなりの時間が必要そうなのだ。


 そう、時間だ。努力ではない。

 果たすために必要なことをすることは努力ではない。

「まあアメリカ側が色々と言ってくるだろうな」

 近藤はキャプテンとして、早稲谷のグラウンドの外でも、色々と話すことが多い。

 直史がマスコミ嫌いで、樋口も物言いが辛辣なため、近藤はキャプテンとして苦労する。

 ただし度量は大きい。




 直史はおおよそ、大学のサークルで活動したり、普通に講義を受けている。

 それに加えて首都圏には普通にある、司法試験予備校にも通っている。

 本来なら難しい選択肢だったのだが、WBCのおかげで色々と利益供与をしてもらうこととなった。

 四年目が終われば寮の費用などの無料期間も終わる。


 実は辺見が、バッティングピッチャーとして働いてくれるなら、そのあたりのことを大学に通してもいいと言ってきている。

 だが直史としては、一応と思って受けた予備試験が難しかったので、あまり余裕がない。

 あの難易度であるならば、本番の司法試験を甘く見るわけにはいかない。

 実際のところは予備試験は、むしろ司法試験よりも難しいとまで言われていたりする。 

 合格率の低さもであるが、司法試験に合格する中で、一番合格率が高いのが、予備試験で受験資格を得た者だからだ。


 大学受験もそれなりに難しかったが、そもそも高校時代から、ある程度の司法試験に向けて勉強してきた直史である。

 それが合格しないのだから、やはり予備試験の難易度は高い。

 今年も受けてみて、五月の試験は終わっている。

 次は七月の二段階目の試験であるが、そこを通ってもさらにもう一度試験がある。

 だが法科大学院の二年目に司法試験に合格してしまえば、社会に出る時期が短縮される。

 さっさと社会人として収入を得られるようになって、自分の家庭を持つのだ。

 将来的にはともかく結婚してしばらくの間は、瑞希と二人で暮らしたい。

 出来るだけ早く子供も作りたいなと思うが、二人の時間もほしいと思う直史は、ある意味ではどうしようもない現実主義者だ。


 七月、野球部員が汗を流している頃、直史は予備試験の論文式試験を受ける。

 去年はここで落とされた。

 瑞希は去年はそれ以前の試験で落とされたのだが、今年はここまで進んでいる。

 直史が勉強している中、瑞希が勉強しないわけはないのだ。

 去年は本を出すために、あとそれに関連して色々と、時間を取られてしまった。

 瑞希は文章を書くことは好きで、それが収入になったこともありがたかったが、そちらの道に進むつもりはないのだ。




 そして二人とも、ここでつまづいた。

 最後の口述試験に進むことは出来ず、二年連続で敗北である。

「難しい……」

「ほんとに……」

 だいたい二人とも秀才であるので、試験に落ちたことがほとんどない。

 なお瑞希の場合は、自動車免許を取る時に実技で落ちまくっている。

 直史の場合は野球部に関連したことで試験が受けられず、単位を落としたことが一度だけある。

 それが追試の融通をつけてくれない教授であったのは不運であった。


 高校受験はもちろん、大学受験も二人とも、落ちた試験はない。

 ただ直史と違い瑞希の場合は、東大を受けようかと考えたことはある。

 学費の面から心配したのだが、両親も私立で大丈夫だと言ってくれたし、結果的には印税で充分に学費が払えたので、そこは良かったと思う。

 好きでやっていたことだが、一冊の本が瑞希に与えてくれた余裕は、かなり大きなものであった。


 予備試験は三番目は、口述の試験となり、論文試験まで通ったなら、口述もかなり受かるものである。

 だが短答式試験に合格した者のうち、五人に一人程度しか、口述式試験には進めない。

 だが落ちはしたものの、かなりの手応えは感じた。

 後一年を大学院と予備校で学べば、おそらく司法試験には通る。

 これまで砂漠に水を注ぐように、ひたすら勉強をし続けてきたわけであるが、ついにその果てが見えてきたという感じだ。


 そうなれば勉強だけではなく、ある程度の体力も必要になる。

 八月、直史は夏休みの間、サークルの合宿に参加したりもする。

 だが八月となれば、あれがある。

 そう、甲子園だ。


 大学の野球部の中でも、ヒエラルキーというかカーストというか、壁のようなものがある。

 甲子園経験組と、甲子園未経験組である。

 直史の場合はさらに一段階上の、全国制覇組になる。

 佐藤兄弟は全員が、その経験をしている。

 ただし淳は最後の夏ではなく、直史と武史がエースを務めた世代の話だが。

 それでも決勝までは進み、閉会式を経験した数少ない球児の一人である。




 もう直史にとっては見知った後輩のいない白富東であるが、淳にとってはそうではない。

 自分が最後の夏を過ごした時に、まだ一年生であた選手たち。

 去年の夏は、一つ下の世代が全国制覇を達成し、正直複雑なところはあった。

 その後輩が何人も早稲谷には入ってきたからだ。

 確実に白富東閥は勢力を増している。


 準々決勝ぐらいまで勝ち進めば、応援に行こうかとも考えていた直史たちである。

 確かに後輩の中に顔見知りは、バッピをしに行った時に会ったメンバーぐらいしかいない。

 しかしこの年は、監督が国立に代わって初の世代だ。

 春のセンバツには県大会の準決勝で負けて出られなかったものの、夏は見事に勝ち進んできた。

 ただ三回戦の相手が大阪光陰であった。


 寮のテレビで見ている淳としては、複雑な気持ちである。

 自分たちの覇権を止めた蓮池が、大阪光陰のエースとして君臨している。

 白富東としては、ユーキがあそこまでエースとして育つというのは、実際の本人を見ていた淳からも以外であったが。


 この大会一の投手戦といってもいいような内容で、延長にまで及んだ試合に、白富東は敗北した。

 これで夏の決勝への進出記録は、五年連続で途切れたのである。

 もちろん長い甲子園の記録の中でも、こんな記録は初めてである。

「ピッチャーがもう、来年からは弱くなるだろ」

「そうですね。百間はいいピッチャーですけど、甲子園で覇権を握るには、さすがに器不足でしょうし」

 一年の宮武たちは、直史と一緒に甲子園を見ていた。

 この宮武の世代も、全国制覇組の一つである。

 ユーキがクローザーとして投げていって、継投で甲子園を制覇したのだ。


 優勝したのは、初優勝となる蝦夷農産。

 昨年は決勝で白富東に敗北していたので、悲願の優勝とも言えるか。

 ただこの年はトーナメントで、優勝のもっと有力であったチームの潰しあいが多かった。

 ただもちろん、蝦夷農産が弱いわけではない。


 ピッチャーを、どこから連れて来るのか。

 セイバーが国外から手配することは、もう行っていない。

 そしていくらスポーツ推薦があっても、将来はプロまでも見据えて高校野球をするなら、強豪私立に特待生で入るのが、中学生にとっては早道になるだろう。

「甲子園が終わると、もう夏も終わりだって気がするよな……」

 直史はそんなことを言うが、それは野球部あるあるであろう。

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