第190話 彼女の目があると本気になる男

 全日本大学野球選手権大会決勝戦。

 日曜日に開催されたこの試合に進出したのは、東京六大学リーグ代表の早稲谷大学と、東都大学リーグ代表の駒乃沢大学である。

 早稲谷のベンチに前日、一安打一失策の、ほとんどノーヒットに近い投球をした直史はいない。

 樋口がいて、武史と淳がいるなら、どうせ勝てるだろうという信頼感がある。


 ただ、世の中には絶対というものはない。

「ナオがちゃんと準備してたら、それは絶対と言っていいだろうけどな」

 樋口はそんなことを考えている。そして言葉にも出してしまうわけだ。


 初戦で投げた武史は、正直なことを言うと全く疲れていない。

 中二日であり、高校時代もチームの方針から、可能な限りは中三日は空けていたし、他のピッチャーとの分業をしてきた。

 しかし大学野球では、リーグ戦で土曜に投げて、月曜日にも投げている経験が既にある。

 準々決勝では他にも投げてもらったが、準決勝では直史が完封した。

 ああいった球数の少ないピッチングを、自分も身につけたいと思う武史である。




 球数は武史も、充分すぎるほど少ない。

 普通三振を取っていくピッチャーは、それなりに球数を使った後に、空振りが取れるボールを投げ込むものだ。

 武史の場合は追い込んだら、すぐにストレートで空振りか見逃しの三振を取る。

 ボール球を振らせる技術などは、武史ぐらいの球威があれば、必要はないのである。


 ピッチャーとして上のレベルを目指すのは悪くはない。

 その動機がどこにあろうと、ピッチャーとしては悪くはないのだ。

 プロの世界を志望しているのなら、上昇志向はあるにこしたことはない。

 今日の場合は武史は、観戦に来ている彼女に、いいところを見せたいだけなのだろうが。


 早稲谷の野球部は、かなりモテる。

 もっともちゃんとベンチ入りして、試合に出るようなメンバーが中心だが。

 プロ注でほぼドラフト指名されることが決まっているような選手には、それこそ有象無象が群がる。

 だが武史の場合は、あまりそういうことがない。


 間違いなくドラフト一位で指名されるような逸材であり、しかも本人は在京球団を逆指名などしているのだが、つまるところ彼女が美人過ぎて、対抗しようとしう女性はいないのである。

 野球部の中で彼女が可愛いランキングを作れば、一位に選らばれるのが武史なのである。

 そして単に美人なだけではなく、完全なるお嬢様。

 芸大で音楽をしているなどという存在は、スポーツ選手に群がる存在とはちょっと一線を画している。

 爆発しろと面と向かって一番言われることが多いのが、武史なのである。




 武史が本気になるのは、だいたい女性の応援がある時である。

 神宮を満員の観客が埋め尽くし、その中で恵美理は、既に強くなってきた六月の日差しを、帽子と日焼け止めで防いでいる。

 今日もまた、武史の奪三振ショーが続いている。

 初戦は見に来ることが出来なかったので、恵美理としてはこの決勝戦だけは外せなかった。


 高校野球における甲子園とは、どうしても注目度には劣るのが、全日本大学野球選手権である。

 しかしこれは間違いなく、各大学リーグを勝ち残ったチームによる、大学野球の王座決定戦だ。

 六大学野球のトップで、相手も東都のリーグ戦優勝チームとなれば、大学野球のトップ同士の対決である。


 だが武史の球は打てない。

 直史の球以上に、武史の球の威力は、六大学リーグよりも年に二度の全国大会での方が、打てないボールなのである。

 なぜなら武史の投げるボールを、六大学リーグの野球部はしっかりと研究している。

 そしてなによりそのスピードを体験している。

 年に一度あるかないかというそんなスピードボールとの対決に、即座に対応するのは難しいのだ。


 直史の場合は、理屈が全く違う。

 研究しても「なんでもあり」ということが分かるだけで、配球も変化球も多彩すぎて、どうせ一つには絞れない。

 何をやっても無駄ということを、直史のピッチングは味合わせてくれる。

 そんなもの、味合わせてもらいたくないのに。




 奪三振ショーは、公開処刑のように続く。

 樋口としても武史をリードする場合、コンビネーションのパターンが直史よりははるかに少ないので、あまり頭を使わずに済む。

 キャッチャーをダメにするピッチャーではあるが、純粋にキャッチングの技術を磨かなければ、そもそも武史のストレートを捕れない。


 空振りのたびに、三振のたびに、球場が湧く。

「どうしよう。武史さんがものすごくかっこいい」

「惚気てる~」

「まあホッシーらの出番はなさそうやな」

 聖ミカエル時代の友人たちと共に、そこだけ別格のお嬢様空間を作っている恵美理。

 本日は明日美もツインズもいないので、周囲が別の種類の驚きに満たされることがない。


 高校時代には明日美を相手にキャッチャーをやっていた恵美理は、武史のボールの恐ろしさがはっきりと分かる。

 この間はついに球速を更新して167kmを出したそうだが、確かに前よりもずっと筋肉がついてきたな、とは思ったものだ。

 ただこの試合も160km台を普通に投げて、振ることさえ出来ない見逃し三振も奪っている。

 明日美と比べるのもなんだが、武史は剛速球投手だが、コントロールもいいのだ。

 そして高めに投げると、ことごとくそれが空振りになる。

 見逃しは低めが多いか。


 今はも指のことを考えると、キャッチャーなどは出来ない。

 ただ今さらではあるが男子の野球を見て、そして気付くのだ。

 自分も天才だったのではないかと。


 明日美のボールはコントロールがそれほど良くはなかった。

 それなのにほとんど後逸などもせず、140kmのボールをキャッチしていたのだ。

 高校時代に武史とキャッチボールをしていれば、面白かったかもしれない。

 ただ160kmオーバーは、さすがに想像できないぼーるなのだろうが。




 決勝戦だけあって、相手も早々に得点を許すようなピッチャーではない。

 ただ恵美理の目から見ると、どうしてバッターはあの球を打たないのだろう、と思うことがある。

 同時中継されているライブ映像をタブレットで見ても、恵美理の疑問は尽きない。


 それは彼女が、相手の投げるボールが、なんとなく分かっているという特殊能力によるものだ。

 一種の未来予知に似たものだが、彼女はその能力が特別なものだと思っていない。

 この感覚は、音楽の中で磨かれたものだから。

 野球とは全く違うジャンルから、そういった能力が伸びていく。

 あまり気付く人間はいないだろう。


 そしてこの能力に一番近い読みを持つ樋口が、ツーランホームランを打った。

 そこからはもう打撃のことは考えず、リードに専念するのみである。


 三振と、内野フライと、外野フライ。

 一つのフライのお見合いからのヒットが、スコアの中での染みとなった。

 球場中が落胆のうめきを洩らす中も、武史は平然としている。

 自分のミスではないから、かっこ悪いところではないだろうという、謎の割り切りによるものだ。


 勝てばそれでいい。

 ここもまた、一つの頂点を決める場所。

 そしてそこで武史もまた、プロへの道を自分で敷設していく。


 最終的には2-0のスコアで勝利。

 29人に対し、被安打一のフォアボール一で、完封である。

 球数もさほど多くはなく、樋口としてもかなり楽なリードであった。

 振らせるつもりのボール球が速すぎて、相手が見送って歩かせてしまったことは失敗であるが。

(さて、これで俺のキャッチャーとしての評価はどうなったかな)

 ドラフトの時期を考えると、大学生にとってはここが事実上の最後のアピールの場である。

 打率も残して打点も長打もある樋口が、どういう評価をされるものか。

 少なくとも去年の、竹中よりは高い評価だと思いたいのだが。


 六月。一つの大会が終わる。

 そして四年生たちにとったは、残された季節はもう少ないものとなってきていたのであった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る