第189話 労働の対価
ブルペンで調整投球をしている直史を横目で見ながら、ネクストバッターサークルの樋口は相手のピッチャーを観察している。
データでは知っていたし、映像も見ていたが、実際に対戦した土方らの話を聞いて、自分には苦手なタイプのピッチャーだと分かる。
畿内大の宮路は、コントロールが悪い。
荒れ球であり、ゾーン内に適当に入ってきて、しかもそれが微妙に変化したりする
変化球はスライダーとスプリットがあるが、変化度合いが一定ではない。
ひどくリードに苦労するであろうピッチャーで、こんなまだ未完成のような選手が大学野球でもエースであるというのは不思議だが、打ちにくいことは確かなのだ。
樋口は読みで打つ。
相手との駆け引きもするが、しなくてもだいたいは読んで打ってしまう。
その読みの分まで脳にカロリーを送るのはしんどいので、打つ時と打たない時を明確に決めてしまっている。
ただこのピッチャーの場合は、読まずにただ、打ちやすい球を打てばいいのだと思う。
近藤が塁に出てくれたら、打って行く。
ただ荒れ球なので、下手に内角を打って行くのはまずい。
今日の直史の調子を考えれば、よほど組み立てを考えていかないと、キレだけで抑えることは出来ない。
統計的な考え方をして、確率で抑えていくか。
樋口のリードもいい加減、あちこちで読まれるようになっている。
なのでキャッチャーはバージョンアップではなく、バージョン変更が大事な仕事なのだ。
内野に打ち上げた近藤が、辛そうに目を閉じる。
とりあえずこの打席は、来た球を打つだけ。
そして打席に入った樋口は、甘く入ったボールをセンター前に打ったが、この回は得点することがなかった。
あんなクソなコントロールで、抑えているピッチャーを見ると、直史は腹が立ってくる。
ただ荒れているというのは、樋口には打ちにくいだろうなとは思っていた。
狙った球を確実に読んで打つからこそ、バッター樋口は恐ろしい。
そしてキャッチャーとなった場合は、相手の読みをことごとく外していくのだ。
ベンチに戻ってきた樋口がプロテクターを着けている間に、直史は語りかける。
「球数を使っていこう」
「まあそれしかないな」
ストレートの球速があそこまで落ちているとは思わなかった。
そして変化球のキレもあまりよくない。
肉体の出力全体が落ちているので、スピードも変化量も、落ちるのは当たり前なのだ。
ただしコントロールはほとんど変わっていない。
二回の表、畿内大の先頭は四番の近衛。
大学野球においてさえ、三年になるまではそれほど注目されていなかった、遅咲きのスラッガーだ。
「あいつはボール球を振らせていこう」
樋口の提案に素直に頷く直史である。
まず一球目はアウトローにカットボールを。
ぎりぎりボールのところで、直史のMAXのスピードがあれば、フレーミングでストライクにしてしまえるコースだ。
だが樋口が上手く外から被せても、審判には見切られてしまったか。
近衛は見逃したが、見極めたと言うよりは、単純に難しいところは初球からは振らなかったということなのだろう。
(シンカーで)
樋口のサインに頷いた直史は、真ん中付近から胸元に変化するシンカーを使う。
これはキャッチングの位置からして、ストライクになるボール。
それを近衛は強振した。
大きな当たりではあったが、間違いなくファールになるコースとスピード。
(スイングは速いしパワーもあるけど、まだ粗が多いな)
全盛期の直史であったら、容易く三振なり内野フライでしとめていただろう。
だが現在の直史では、コンビネーションをしっかり使っていかないといけない。
あのコースにあのスピードなら、ファールになる確率は極めて高い。
そしてカウントを稼いで、最後は変化球で決める。
普段ならばストレートでしとめることも出来るのだが。
(今日はスルーの精度に自信がないとか言うからなあ)
嘆息したい樋口であるが、それでもまだエースクラスのピッチャーであることは間違いない。
三球目は外角のスプリットで、これもまたファールにさせてカウントを稼ぐ。
追い込んでからの四球目をどうするか。
(そんじゃこれで)
(いいけど球数は使っていくんじゃなかったのか?)
(使うべきとこではな)
なるほど、やはり樋口である。
四球目のボールは、外角に外れる。
そこからゾーンをめがけて変化してくるのだが、それでもまだわずかに遠い。
だがキャッチしたミットの位置は、確かにストライクである。
審判のコールで見逃し三振となった。
なるほど、ボール球からぎりぎりボール球に変化してきて、そしてキャッチャーが上手くフレーミングを使ったわけか。
近衛は多少の怒りを感じながらも、コンビネーションには納得していた。
外角のぎりぎりを狙えるコントロールと、それをストライクと感じさせるキャッチャー。
確かにピッチャーの調子が悪くでも、大学ナンバーワンバッテリーである。
続く五番と六番も、上手く変化球を組み合わせて内野ゴロに。
変化球の種類でコンビネーションを組み、完全に翻弄している。
球速には試合が進めば慣れることが出来るが、配球を読むのは難しい。
コントロールと変化球の種類だけで、どうにか打ち取っている状態である。
荒れ球のピッチャーというのは、甘く入って下位打線に打たれることもある。
そして上位打線は、ストレートに慣れてきたらかなり対応もしてくる。
なんだかんだと苦労しながらも、先取点を取ったのは早稲谷であった。
また苦労しているのは樋口もである。
今日の直史の調子であると、一点あれば大丈夫などとは言えない。
ただ高校時代にしても、調子の悪い正也を必死で、リードして勝ったことはある。
不調のときのピッチャーでも試合を壊さずに勝つ。
これこそまさにキャッチャーの務めであろうか。
五回の表、二打席目の近衛。
ランナーもおらず、先頭である。
つまりここまで、なんだかんだ言いながらもパーフェクトピッチの直史なのである。
そしてこの二打席目の近衛は、スルーを使って内野ゴロを打たせた。
調子が良ければ空振りするのだが、そこまでの伸びがなかった。
笑みなども浮かべず、ベンチに戻る直史である。
そのベンチ内では、守備の間にはひそひそと会話がされる。
「今日、調子が悪いとか言ってなかったっけ?」
「まあストレートも最速が144kmだし、三振もあまり取れてないしな」
「でもパーフェクトですよね?」
それを耳にしていた武史と淳は言いたい。
直史は大学入学当初、その程度の球速で完全試合を何度もしているのだ。
つまるところ、あれだ。
スーパーサイヤ人が普通のサイヤ人になったところで、一般人が勝てないということには変わりはない。
「調子悪いわ~。今日俺、調子悪いわ~」
などと言いつつ驚きのパフォーマンスを残していくのが、佐藤直史という人間なのだろう。もちろん実際に言うことはないし、調子が悪いのは確かなのだが。
内野ゴロの送球がずれて、ランナーが一人出る。
これでようやくパーフェクトピッチングが途切れたが、ノーヒットノーランは続行中である。
1-0のスコアのまま、試合は既に終盤。
そしてこの終盤になってから、直史はストレートを多投し始めた。
終盤からどんどんと、球速は上がってきた。
なんだそれはと周囲は呆れていくが、つまり、あれである。
弟の武史を見ても分かる通り、佐藤家の人間は、スロースターターだということなのだろう。
直史の場合は、そんな気配はみじんも見せたことはなかったのだが。
むしろ肩を作るのは早く、リリーフ向けでクローザーの実績もあるのだ。
正確にはこれまで、色々と余裕があったから、そういう成績になっていたのだ。
今さらそんなことを言われても、とあせりだすのは畿内大である。
エラー一つの出塁でパーフェクトこそ消したものの、ノーヒットノーランでもやられたら打線陣は屈辱である。
いやそういうレベルではなく、ちゃんと勝利を目指すべきなのだが。
ただ球速が上がってきたのではなく、ストレートの軌道が変化している。
スピンと回転軸。
わずかにそれをずらして、高速のカットボールなども投げてくる。
これがいちいち内野ゴロになってしまって、ボールを高く上げることが出来ない。
さすがに分かってくる。
映像などでは分からない、直接対決してみて感じること。
ピッチャーとしての支配力が、そもそも絶対的に違うのだ。
スピードとか変化球とか、コントロールとか色々と要素はある。
だがその要素を上手く組み合わせれば、まだまだ無限にバッターの読みを外すことが出来る。
「冗談だろ……」
九回の表には、第四打席が回ってくる。
どうしてそう安直に思えたのだろうか。
四番バッターに四打席目が回ってくるには、ランナーが四回は出なければいけない。
だが一本だけ出た内野安打でさえ、ダブルプレイで取り消してしまっているのだ。
四番の近衛は、ここまで空振りでの三振はない。
いや、そもそも空振りをしていないのだ。
ファールを打たされて、最後はゾーン際を見逃してしまったり、ファールフライでアウトになったり。
一度も空振りをしていない。
一度も空振りをしていないのだ!
それなのに試合は、ほぼ一方的な展開で、早稲谷が勝利しようとしている。
(冗談……)
冗談ではない。
28人目のバッターを、カーブで本日九個目の三振で抑えて試合終了。
スコアは1-0と、接戦のように見える。
だが畿内大には一度もチャンスなどなかった。
あのファールスタンドへの大飛球を、チャンスというならば別であるが。
全日本大学野球選手権準決勝。
早稲谷大学の先発佐藤直史は、九イニングを投げて28人相手に118球と被安打一の失策一。
ノーノーでも、マダックスでもない、ありきたりな完封勝利。
それでもフォアボールは一つもなかった。
終盤には150km台のストレートを投げてきていたが、それでも全盛期のスピードではない。
それなのに、この圧倒的な敗北感はなんだろうか。
劣化しているのは間違いないのだろう。
ただそれでも、大学生相手にはオーバースペックというだけで。
あるいはオーバーキルと言おうか。
プロの舞台で雪辱を晴らすことも出来ない。
近衛だけではなく、チーム全体が巨大な敗北感を抱えて、畿内大は帰途に着くのであった。
「疲れた……」
最後のアウトを取ってベンチに戻ってきた直史は、そういってどっかりと座り込む。
淳が身の回りの物をまとめてくれるが、チームメイトや首脳陣は、もう呆れたとしか言いようがない顔をしている。
弱体化したいるのは間違いない。
数字が悪化しているのも確かであろう。
だがそれでも、こんなピッチングになってしまうのか。
奪三振も多くなく、それでいてそれなりの球数になってしまったこの試合。
間違いなく直史のピッチングの中では、下から数えた方が早い出来栄えであったろう。
直史に加えて樋口も疲れた顔はしていたが、ただそれだけである。
いや本当に疲れはしたのだ。
勝ったのは自軍である。
それなのになぜか、野球を辞めたくなる。
そんな訳の分からない試合であった。
直史が本当の意味で、最大の力を発揮したのは、どの試合だったのであろうか。
完封したWBCの決勝でも、球数制限を気にしながら、その範囲で試合を終わらせようといていた。
国際試合であれば、球数制限のある試合が多く、それはあくまで縛りがある中のピッチングであり、最高のピッチングであはないだろう。
するとやはり準公式戦とでも言える、WBCの壮行試合であったのか。
パーフェクトを崩しながらも、四打席目を勝負しにいった。
直史が勝負する価値を見出せるバッターは、もうこの世に一人しかいないのか。
プロに行かない理由を、直史は優先順位の視点から説明した。
だが結局のところは、プロに行っても相手がいないというのが、本当のところではないのだろうか。
衰えてなお、圧倒的な内容を見せる直史を、畏怖の目で見ない者は武史ぐらいか。
樋口でさえ、もう呆れるしかないというのが正直なところだ。
試合の中で自分を鍛えなおしていた。そうとしか言えない。
だから序盤と終盤では、終盤の方が明らかに内容がいい。
最終回にその試合の最速を出すなど、どれだけ余力を残したピッチングをしていたのか。
割と地味めな試合であったため、一般人はあまりそうとは感じなかっただろう。
だが少しでも目のある人間であれば分かる。
こいつは本当に人間なのか、と疑問に思うのだ。
本人とその相棒は、とにかく疲れていた。
こんなことならブドウ糖の塊を、荷物の中に入れておくべきだったか。
頭を使いながら投げて、コンビネーションで凡退を積み重ねた。
それでも少しはヒットを打たれてしまったものだが。
とりあえず自分の、このシーズンの仕事は終わった。
あとは秋だなと、のんびりと考える直史である。
淳に用意してもらった荷物を抱えて、バスに向かう。
マスコミのインタビューに対しては、眠くてたまらないので脳みそが死んでいると、素直に言ってしまう直史である。
その後帰還のバスの中でも爆睡。
確かに全力は尽くしていたのだ。
だが全力を尽くせば、誰にでもあんなことが出来るわけではない。
決勝の先発の武史は、やはり呆れていた。
だが同時に「やっぱりな」とも思うのだ。
うちの兄がそんなに簡単に負けるわけがないのだと、弟は確信していたのである。
×××
1000万PV突破記念に、本日、群雄伝投下しています。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます