第188話 堕天

 佐藤直史は本気で野球をやめるらしい。

 それを聞いて、何を今さらと親しい者は思うし、一般人は愕然とする。

 プロの世界に挑戦もせずに、野球をやめてどうなるというのかと反応するのだが、本人は別に野球をやめるわけではない。

 大学院にいる間は、暇な時にバッピをしてやるつもりはあるし、クラブチームに誘われている。

 千葉に戻れば本格的に、休日を野球で楽しむクラブチームに入るだろう。

 試合に出られるかはともかく、バッティングピッチャーはコントロールがよければどこでも重宝される。

 それに試合に出たいなら、数イニングさえ投げさせてもらえばいい。

 ただそれは全て、司法試験も終わって司法修習も終わって、二回試験も終わって法曹の資格を得てからだ。


 野球が好きであることと、プロになることはイコールではない。

 直史は高校時代、びっくりされるぐらいプロの事情を知らなかったりもした。

 だがそれも全ては、高校で野球を終えるつもりであったからだ。

 大学ではせいぜい野球サークルに入るぐらいだろうというのが、高校入学当初の直史の未来予想図であったのだ。


 プロというのが金銭が介することで成り立つものだと言うなら、大学野球こそが直史にとってはプロだった。

 結果を出すことを期待されて、事実上の無償奨学金など、様々な恩恵を得ることが出来た。

 そして直史はしっかりとそれに応えたし、今もまだ応え続けている。


 だからプロを引退すれば、技術がさび付いて肉体が衰えるのも当然だろう。

 別に直史に限らず、アスリート以外の一般人が、一番肉体の能力が高まるのは運動系の部活に入る者が多い高校生の頃で、大学でもスポーツをするのはかなり減ってくるのだ。

 プロになると逆に、そこからこそが本当に肉体の能力が上がっていくのだが。


 


 衰えていく。

 日々の運動量も足らず、最低限のピッチング練習も足りない、

 直史は優先順位を間違える人間ではない。

 だが自分の体が思い通りに動かなくなるというのは、老人の例を出さずとも不快なものなのである。


 ちなみにせめてもの運動不足解消のために、夜の運動の回数と時間を増やされると、次の日もへろへろになるので困っていた瑞希であるが、なんとかだんだんと体力がついてきた。

 セックスって運動なんだな、と改めて思う彼女は、才女ではあるがどこか抜けているところもある。

 まあだいたいにおいてこの二人は、男性側の方がはるかに多くの運動をしているのであるが。


 気絶するような眠りの中から目覚めた瑞希は、先に起きていた直史を発見する。

 直史はだいたい何事もリードしたがり、性的には上位に振舞いたがる人間だが、眠る時に瑞希のささやかな胸に顔を埋めるあたりは子供っぽいところがないわけではない。

 朝からふにふにとあちこちを揉まれて、自然とまた一戦という、まさに怠惰な学生生活を送っているような二人であるが、ちゃんと切り替えてはいる。

 シャワーを浴びて朝食の準備をする瑞希であったが、気になることはあった。

「直史君、少し筋肉が薄くなった?」

 直史は生来、あまり筋肉が付きやすい体質ではない。

 正確に言えば消化機能が、あまり優れていないようなのだが。


 元々野球選手としては、身長に対して体重が軽いのが直史である。

 だいたい身長から100を引いた数ぐらいは体重がほしいと言われるが、直史の場合は75kgしかなかった。

 言われて計ってみれば、73kgまで落ちていた。

 鍛えて食わないと、痩せていくのが直史の体質だ。

 やはり夜の運動では、野球に必要な筋肉は鍛えられない。

 ある程度休み休みするとはいえ、持久力が必要な運動である。 

 野球は持久力のスポーツではない。


 瑞希は運動をしているおかげもあるが、確実に高校一年生の頃よりは、今の方がスタイルがいい。

 胸の大きさはもう変化していないのだが、ウエストは細くなった。

 間違いなくこれは夜の運動の成果であろう。

 意外と朝からしっかりと食べる瑞希は、もう少しうちの亭主を太らせようかと思う次第である。

 彼女は消化効率が悪いのか、かなり食べないと痩せていくのだ。うらやましいと言ってはいけない。これで子供の頃は、必死で食べないと健康が維持できなかったのだから。


 運動をするようになってから、明らかに瑞希は健康になったが、子供の頃は本当に、体が弱かったのだ。

 虚弱児というわけではないが、とにかく小さな病気は多かった。

 中学生になっても体調は安定せず、高校に入ってようやく、真っ当かなと言える程度にはなった。

 その後は運動に付き合わされつようになって、線の細さはともかく、ずいぶんと健康にはなったものだが。




 直史の場合はやはり、野球の能力の維持に使う時間が、どうしても勉強の時間を削る。

 ただ気分転換になっていることも確かで、何も考えずに投げているのは気持ちがいい。

 筋力の低下は、週に一回程度の運動でも、維持できるのが一般人である。

 だがアスリートであれば、さすがにその程度では足りない。

 そもそも直史は磨き上げるように練習を重ねることで、その技術を発揮するのだ。

 これまでの貯金でどうにかなってきたピッチングも、明らかに出力が低下している。


 ストレートに全力を乗せるのに、しっかりと肩を作らないと無理になってきた。

 変化球を投げるのは問題ないが、ほんのわずかなコントロールをする、筋肉の方が弱ってきている。

 直史は昔から、勉強の時間は効率的に行い、野球の時間は量を重ねて質に変化させていった。

 確かに他の誰にも真似できない身体操作ではあるが、指先にまで神経が通っているような感覚が、わずかずつ鈍ってきている。


 完全に体を動かさないことも、むしろ頭の働きを悪くする。

 人間の集中力というのは、ある程度の限界があるのだ。

 直史の場合はおそらく、常人の数倍の集中力が持続するが、それでも一試合の最初から最後まで、完全に集中しているわけではない。

 そしてその集中力の持続を助けるのは、体力だ。


 部活をやめた運動バカが、どこから意外と成績が伸びていくというのは、体力に理由があったりする。

 そして運動などによって鍛えられた集中力。

 直史もこれは重要だと考えているので、それなりに練習の中で鍛えることは続けていく。

 だが本来は体力や技術の向上が、もっともなされるこの年頃で、成長が止まってしまうことは残念である。

 本人は気にしなくても、周囲は気にする。


 直史の持っている変化球は、下級生のキャッチャーを鍛えるためにも使われる。

 だがなかなかこれを、しっかりと捕れるようなキャッチャーはいない。

 捕れるだけならいくらでも捕れるだろうが、試合の中でコンビネーションとして使うことは不可能だ。

 それでもキャッチャーの技術向上のため、直史はボールを投げ続ける。


 直史の技術を、他のピッチャーに教えることは不可能に近い。

 むしろ直史の変化球によるコンビネーションは、キャッチャーが憶えるべきものだ。

 だがツーシームをインハイに決めた後、逆のアウトローにスライダーを投げてくるなど、そうそう都合よくコントロールは出来ない。

 まあ直史とすれば、出来ないと言う暇があればやってみとというわけで、ここらあたりはさすがに頭の悪い教え方になってしまう。


 時間に余裕があるときに、不定期にグラウンドを訪れる。

 そして投げては去っていく、なんだか妖怪のような存在である。

 そしてそんなことをしている間に、全日本が始まっていく。




 早稲谷が勝ち進んでいくのを、直史は聞いてはいた。

 初戦を武史が投げて完封し、相変わらず20個近くの三振を奪った。

 打線もしっかりとつながって、かなりの余裕を残して勝っていく。

 もっともトーナメントの試合は、油断をして一度負ければ終わり。

 その意味では監督の辺見も苦悩しているようだが。


 先発もしくは中継ぎに、星が使われているスコアも直史は見た。

 今の早稲谷の打線は連打が続き、ランナーが溜まっていると上手く樋口が返してくれる。

 直史がいなくても、上位打線の攻撃力と、樋口のリードによって、早稲谷はトーナメントを勝ち抜いていく。

 ただ中盤まであまり勝ち越しておらず、そのまま接戦で終盤に持ち込まれると、辺見としては苦々しい思いをしていたようであるが。


 直史はパーフェクトを行う先発ピッチャーであるが、それ以上に失点しないクローザーである。

 流れが悪くても、完全にそれを止めてしまう、圧倒的な制圧力を持っている。

 たとえ使わないにしても、それがベンチにいないのでは、相手のベンチに思考の余裕が生まれる。

 直史がベンチにいるということは、それだけで監督の精神安定剤になっている。

 それをより強く感じるのは、このトーナメント戦である。


 土曜日の準決勝が、直史の登板である。

 この日直史は辺見に、一応リリーフの用意をしておいてくれるように頼む。

 直史は普通にリリーフ陣の用意をしても、それに気を悪くするような性格ではないが、じぶんから明白にこれを言い出すのは初めてだ。

 試合に勝つことを、己に課している。

 そのために必要なことは、自分の完投でなくてもいいのだ。




 そろそろ負けてもおかしくはない。

 準決勝の畿内大戦、他の誰よりも直史自身が、それを感じている。

 そもそも四年の春のリーグ戦から、明らかにピッチングの質は落ちている。

 落ちていてなお、普通に100球以内で完封はしてしまうのだが。

 ノーヒットノーランもしているが、以前のような一つのミスのノーヒットノーランとかではなく、ボール球を使うことも増えていた。

 ただそのボール球を、上手く振らせるのが樋口であったのだが。


 畿内大はこの春、リーグ戦で三冠を達成していた強打者、近衛を中心とする強力打線である。

 速球にはめっぽう強く、ドラフト会議でも複数球団からの一位指名が入るのではないかと言われている。

 このバッターもまた、大学にて下克上を果たした選手だ。

 高校時代から京都の名門校に所属はしていたが、スタメンとしては使ってもらっていなかった。

 大学でやっと、そのバットコントロールの技術が開花したと言われている。


 身長はスラッガーとしてはそれほど高くもないが、低くもないという程度。

 日本人の成人男性の平均程度であるが、体重は90kgを超える。

 ユニフォームの上からでも分かるほど筋肉があり、かといって単なるパワーバカではない。

 直史が点を取られるとしたら、連打によるのではない、一発の可能性の方が高いだろう。そう言われている中では、対決するにもっとも難しい相手ではなかろうかと言われている。


 試合は早稲谷の先行で始まった。

 強打のチームではあるが、畿内大もピッチャーにはドラフトレベルの選手がいる。

 早稲谷との対決のために温存しておいた、絶対的なエースである。

 決勝ではなく、早稲谷との準決勝。

 もちろん決勝でも短いイニングを投げることはあるかもしれないが、この準決勝が一番の難題だと考えているのだ。


 三者凡退に抑えられた早稲谷だが、直史がマウンドに上がると、雰囲気が変わった。

 試合前の軽い投球練習でも、樋口さえあまり良くはないなと感じていた。

 体の厚みが減っているのではとは、樋口もまた気付いていたことだ。

 それに春のリーグ戦でも課題であった、ストレートの質が復調していない。

 もちろん試合の終盤に肩が暖まってきたら、投げられるのかもしれないが。




 本人の自己申告と、樋口のキャッチャーとしての感触は、あまり調子は良くはないというもの。

 それでもマウンドに立つと、球場全体の雰囲気を変えてしまう。

 投げれば必ず勝てる。

 そんな確信を抱かせるのが、真のエースである。


 プロのスカウト陣も、お目当ては直史と近衛の対決。

 あとは純粋に、直史というピッチャーが、今日はどんなピッチングをするのかに興味がある。

 春のリーグ戦では、三試合にしか投げなかった。

 だがその中でもノーヒットノーランを一度は達成し、他の二試合も完封している。

 少ない球数であっさりとアウトを取っていくのはまるで魔術師。

 マスコミはともかくネットなどのSNSでは、魔王だの大魔王だの、好き放題に言われている。


 むしろ早稲谷の中では、樋口に目をつけているのが、レックスのスカウト大田鉄也である。

 息子のジンからの話も聞いて、自分がドラフト前のプレゼンで推すのは、樋口と完全に決めている。

 ただキャッチャーの編成からの要求順位はそれほどでもない。

 レックスは打てるキャッチャーがいるし、そのキャッチャーのバックアップもいるのだ。

 だからここで打力も証明してほしいものだが、すると他の球団からの注目度もアップしてしまう。

 打てるキャッチャーなど、どの球団も欲しいはずだからだ。

 ただ本人は明確に、在京球団を意識してくれているのは助かる。


 一回の裏、直史は、ごく普通に投げた。

 ストレートの急速は140kmちょいで、明らかに落ちている。

 何も知らない者からすれば、故障を疑うレベルである。

 どのみちプロ志望ではないのだと、スカウトたちは己に言い聞かせる。

 だが一人の野球人としてみれば、傑出したピッチャーが故障して衰えた姿など、絶対に見たくはないのだ。

 もちろん関東担当のスカウトたちは、直史が単に練習に出ていないだけだと知っている。

 鉄也の場合は息子からも、間違いなく故障ではないと聞いている。




 カーブとスライダーを中心に、遅くなったストレートでも、それ以上に遅い変化球で緩急をつけて、見事に三人とも内野ゴロ。

 ただ今まではツーストライクまで追い込めば、確実に三振を取りにきたのだ。

 直史は変化球でも、空振りを奪える。

 だが今日はまだ、一つも三振がない。


 これは、打たれるのではないか。

 そしてネクストバッターサークルから見ていた近衛は、確信する。

 打てる、と。

 高校時代の全く手の届かない、スタンドからただ見つめるだけの存在であった。

 だが今日は、バッターボックスで対決出来る。

 そしてあの程度の変化球のコンビネーションなら、三打席以内には確実に打てる。


 ボールにスピンを上手くかけて、スタンドまで持っていく技術。

 昔からずっと、飛ばすことだけを考えて振っていたが、それは高校野球では通じない理屈であった。

 大学の野球において、本当にポンポンと飛ばすようになって、ようやく認められるようになった。

 打率も三割はキープしているが、それ以上に高いのが、圧倒的な長打力。

 アウトでもほとんどゴロは打たないという徹底したスイングで、三年の秋からようやく機会を与えられてきた。


 チャンスは逃さなかった。

 そして今、さらに大きなチャンスが目の前に存在する。

 確かに高校時代や、大学時代でも三年までは、圧倒的な存在だったのだろう。

 二年の春にも全日本では畿内大と対戦し、15奪三振98球の完全試合を達成している。

 はっきり言ってあの時は、スタンドから見てはいたが明らかに化け物であった。


 だが相手が落ちてきたのか、自分が伸びてきたのか、もう普通のピッチャーにしか感じない。

(ここで打って、俺はプロに行く)

 そして一方の直史はベンチに入らず、小柳川を相手にブルペンで調整を始めるのであった。

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