第186話 作戦の限界

 12回を投げてヒット一本にフォアボール一個、そしてエラーが一つ。

 22奪三振。

 現在の六大学リーグでの、一シーズンでの奪三振記録は、武史が持っている。

 二年の春に六試合に投げて、119奪三振というものがそれだ。

 そう、現在は武史にとっては、三年の春。

 であるのに、しかも早稲谷は直史と二人で三試合目にもつれ込む前に勝つことが多いのに、その累計奪三振は、既にリーグの記録に達しようとしている。


 そこまで武史がやっても、勝てなかった。

 日曜日を勝ったとしても、さらに月曜日の試合に出なければいけない。

 そしてその日曜日、一応直史は予定が空いている。

 予定がないわけではなく、空けることが出来る、と言った方が正しいのだが。

「というわけで先生、よろしくお願いします」

「……どうれ、とか言わないといけないのか?」

 弟からの大雑把な頼みに、眉をしかめる直史であった。




 日々、衰えを感じる。

 神経が全身に行き渡り、その細部までも操作できる。

 自分の肉体を、当たり前のように操作する感覚。

 それが徐々に失われていく。


 これまではそれでも、週に二度ほどの練習で、維持することは出来ていた。

 だがそんな時間さえも、なくなってきている。

 勉強のためには体力が必要で、そのための運動はしている。

 しかし野球に割くだけの時間は、本当にもうなくなってきているのだ。


 それでもまだ、今は通用するのか。

「封じる方はお前に任せて、俺は打つ方に注力する」

 樋口までもがまだ、直史の状態を誤解している。

「あまり期待するなよ」

 直史としては、自信がない。

 いや元々、自信があるからピッチャーをやっていたという意思はない。


 勝つために投げていた。

 クローザーとしての役割もしていたため、実は直史の大学野球の勝利数は、30勝にも届きそうにない。

 むしろ武史の方が先発タイプのピッチャーであるため、30勝はしそうなのである。

 平成の時代に入って以降、投手の分業制や休ませることもあって、30勝を達成した選手はあまりいない。

 一年の春から投げさせてもらって、しかも勝って、勝ち点を得るための三試合にまで登板する。そんな条件が必要になるからだ。

 ただし佐藤兄弟は、そんなレベルの勝率ではないのだが。


 大学野球史上間違いなく最強の兄弟が、ほぼ同じ時期に同じ大学にいた。

 おかげでここまで簡単に、リーグ戦で優勝出来ている。

 しかも全日本や神宮まで優勝していて、単純に勝つだけであれば、監督としてはほとんどもう何もしなくていい。

 辺見はそう思いつつ、なんとか一点を取るのが、自分の采配の役割だと思っている。




 直史の樋口も、辺見には期待していない。

 元プロ野球選手という肩書きも、元早稲谷のエースという過去も、現在の監督という立場も、はっきり言って二人には意味がない。

 二人にとって必要なのは、勝つことである。

 その上で樋口は、プロのスカウトに向けてアピールもしていかないといけない。


 いいキャッチャーがほしい球団は、とてつもなく多い。

 既にいいキャッチャーがいるとしても、キャッチャーは時間をかけて育てていくというのが、日本の野球の常識だ。

 配球などがベンチとピッチャーで主に決められるMLBなどとは、そこが違う。

 樋口は間違いなく、現在の大学野球界における、最高のキャッチャーである。

 だが全ての部門において、その能力や技術が傑出しているというわけではない。


 たとえばチーム運営などに関すれば、ジンの方が上である。

 大阪光陰の木下監督などは、大学時代は控えのキャッチャーであったことが普通に知られている。

 ジンが樋口より優れていることは、チーム全体の運営である。

 まさにそれを目指して、ジンは野球をしてきたのだから。


 そして村田は、現有戦力で最大の効果を上げるのに向いている。

 樋口などは守備面はともかく、攻撃では自分の打席にだけ集中し、打線全体のことなど考えてはいない、

 作戦によってとりあえず、早稲谷の打線を封じてきているわけか。


 この試合の直史の役割は、当然ながら完封である。

 試合の順番が違うので、最悪12回までの完封でいいのだが、こういう試合では流れを持って来るピッチングをしなければいけない。

(九回までに終わらせないと、ミスが出るな)

 直史は冷静に悲観的である。

 今の自分の体力で、12回までを投げるのは辛いしめんどくさい。

 試合自体の勢いをつけるために、完全んピッチングをしかけていかないといけない。


 樋口にはむしろ、バッティングで点を取ってもらう。

 早々に一点でもリードすれば、そこであとは完封する。

 いつもとやることは変わらない。

 変わったのは直史のスタミナ量である。




 一回の表に、早稲谷の攻撃がある。

 今日は打順を代えて、三番の沖田が五番の樋口と入れ替わっている。

 一番の土方は巧打者であり、二番の山口はめんどくさい打者だ。

 その後に、さらにめんどくさい樋口を入れてきたわけだ。

 沖田もいい打者ではあるのだが、決勝打の多さではさすがに樋口が上なのだ。


 さらに打順を前にすることで、少しでも打席が多く回ってくるようにしている。

 バッティングに関しては、打ってほしい時に長打を打つ樋口は、かなり辺見からも信頼されている。

(出来ればこの回で決めたいな)

 一点がほしい。

 一点取れれば、もうあとは完全に、リードに専念して完封させる。

 自信がないなどと言っていても、直史の自信のなさは、100%抑える自信がないというものだ。

 99%の確率で抑えてくれるなら、それはもう誤差である。


 ワールドカップでバッテリーを組んで以来、多くの試合でバッテリーを組んできた。

 直史が樋口の信頼を裏切ったことは、一度もない。

 自分がリードミスさえしなければ、一点で勝てる。

 直史というのはそういうピッチャーだ。


 先頭の土方が、あっさりとヒットを打ってランナーに出た。

 二番の山口は下手に送ったりはしない。

 樋口は去年の秋辺りから、打撃においては神がかった得点圏打率を誇っている。

 その樋口であるから、一塁が空いたら必ず、申告敬遠か明らかなボール球で歩かされる。

 ここは進塁打でもなく、とにかく塁に出なければいけない。ノーアウト一二塁からなら、樋口はなんとかするだろう。

 万一ここも歩かせてしまったりしたら、ノーアウト満塁で四番の近藤である。


 ネクストバッターサークルから見ていたが、慶応はおそろしくピッチャーのコントロールがいい。

 どういう戦略で早稲谷の打線を抑えてくるのか、ずっと考えていた樋口である。

 とりあえずバッターボックスを外した山口に、アドバイスとも言えないものを伝える。

「低め、どういうゾーンになってるか調べてくれ」

 そう言われた山口は、フルカウントからの低めを、微動だにせず見送った。

 審判のコールはボールであり、これでノーアウト一二塁である。




 チャンスがやってきた。

 今の低めをボールに取ってもらえたのは、かなり大きい。

 低めを掬い上げることも上手い樋口であるが、この状況なら高目を狙って外野の頭を越していこう。


 そう思っていたのだが、慶応のベンチでなにやら揉めている。

 いや揉めていると言うよりは、一方的に村田が何かを言っているのか。

 周囲を無視して監督になにやら言っているが、キャプテンの桂も抑えきれないらしい。

(敬遠か?)

 慶応のピッチャーのレベルで、樋口を抑えることは難しいだろう。

 だがさすがにノーアウト満塁で四番打者に回すのは、ありえない判断だ。

 試合がまだ一回であることを考えるなら、ここは普通に勝負していく場面だろう。


 村田は普通の思考をしていない。

 高校時代と、そしてこの春のリーグの慶応のスコアを見て、その判断が的確であることと、計算しつくされたことであることは分かる。

 だが統計的に正しいことを、この振れ幅の大きな一打席だけに適応するのは、凡人では難しいだろう。

 いくら軍師が優れた案を出しても、総大将がそれを採用しなければ意味がない。

 気の毒にな、と樋口は同情する。


 自分が采配を決められる立場であれば。

 そもそも武史や直史、また高校時代からのピッチャーを思い出して、こんな事態に陥る前に解決する。

 自分は恵まれているのだな、と感じる樋口である。

 慶応にもう少し、優れたピッチャーがいたならば、そこで戦術の幅は大きく広がっただろう。


 低めに投げてきたピッチャーであるが、先ほどの判定を気にしてか、やや甘い。

 樋口は初球を打った。

 外野の頭を越える、長打となる。

 土方はもちろん山口も足は速いので、一気にホームまで帰ってくる。

 さらに樋口は三塁へ到達。

 昨日はあれほど取れなかった得点が、いきなり二点も取れたのである。

(勝ったな)

 内心で確信した樋口は、慶応のベンチの中を見る。

 村田は元々のぶすっとした顔で、ベンチの中に座っていた。


 この後の近藤の外野フライで、樋口はタッチアップ。

 早稲谷は一回の表に三点を取ることに成功する。

 そして一回の裏から投げるのは、いまだにリーグ戦で自責点0を誇る妖怪のようなピッチャーであった。




 佐藤直史から三点を取ってください。

 おそらくこれは、ほとんど不可能と等しい。

 本人の体調が悪いとか、グラウンドのコンディションが最悪だとか。

 それでもどうにか完封ぐらいはしてしまうピッチャーである。


 負ける要素は一つだけ。相手を甘く見て、辺見が途中でピッチャーを交代させること。

 それをやったらさすがに、内外から猛バッシングを受けるだろうが。

 一年の秋にそれをやって、優勝を逃した。

 ただ直史的には、負けるかもしれないなら自分に責任がない方がいいな、などと考えている。


 本日のテーマも、スピードと球数。

 慶応はどうやた待球策を取るらしいが、それはもう何度も経験してきたこと。

 ゾーン内で勝負すれば、待球策は難しい。

 追い込んでからはゴロを打たせればいいのだ。


 三振は今日はあまりいらない。

 だが慶応も、分かっていてゴロ打ちを作戦としているらしい。

 ゴロを打たされるのと、ゴロを打つのとでは、明確にバッターの意識が違う。

 中には勢いがついて、内野の間を抜けていくこともあるだろう。

 しかし統計的にやってみれば、やはり基本は低めに沈む球で打ち取れる。


 ランナーが出てしまったら、そこからは高めも混ぜていく。

 基本は低めへの変化球の中に、高めのストレートを投げられると、まず打たれることがない。

 ランナーが出てしまったら、仕方がないので三振を狙う。

 相も変わらない投げやりな投げっぷりだが、それで通用していしまうのだから仕方がない。


 慶応のベンチの中を窺っていた樋口であるが、あまり村田は動いた様子を見せない。

 ただキャプテンの桂だけは、何かと話しかけているようであるが。

 おそらくもう、村田のプランは崩壊したのだ。

 そして頭脳明晰な村田であるからこそ、ここからどうにかすることは、理論的には無理だと分かっている。


 樋口なら一応、汚い手も含めて、いくつか案は出せる。

 まあ直史にぶつけるか、樋口にぶつけるかして、バッテリーを崩させたら、勝ち筋は見えてくるだろう。

 だが早稲谷にはまだピッチャーはいるし、直史が投げているなら、小柳川がキャッチャーでも、問題なく相手を封じるだろう。

 早稲谷の方が選手層は厚い。特にピッチャーが比べ物にならない。

 それをどうにかここまで、勝負出来る状態で持ってきたのだから、村田もすごいものである。

 ただし、ここまでだ。




 直史の調子は悪いと言うか、良くはない。

 ただ140kmほどしかストレートの最速が出なくても、それでも封じてしまうのが直史だ。

 140kmが出なくても、アメリカのバッターを翻弄することが出来る。

 ただ樋口の見る限りでは、慶応もセーフティバントを仕掛けてきたりと、かなり直史を削る作戦は立てていたらしい。


 だが三塁側には近藤がダッシュしてくるし、キャッチャー前は樋口が俊敏に処理する。

 そして何より、直史はフィールティングが上手い。

 センター方向に運ばれる時、まず一番にボールに触れる機会があるのがピッチャーだ。

 打たせて取ることを基本としているだけに、直史が内野ノックの練習をしないはずがない。

 ただそれでも最近は練習をしていなかったのだが、ここまでの積み重ねでどうにかする。

 この直史を相手に、村田はどういう計画を立てていたいのだろうか。


 試合の主導権は、常に早稲谷が握り続けていた。

 それでも土曜日の試合と同じように、慶応はそうそう追加点を許さない。

 だが一点も許さなければ、初回の三点で充分すぎる。

 味方のエラーに足を引っ張られても、そこはしっかり抑えるのがエースである。


 九回の裏も、ツーアウトから打席に立つのは、三番の桂。

 おそらく明倫館時代の縁から、コーチなり分析なりを、村田に頼んだのだろう。

 それで結果が出ているのだから、村田のことを最後まで信じるべきだったのだ。

 ただそれでも初回は、一点は入っていたであろうが。


 月曜日の試合はどうしようかと、樋口はもう考えている。

 武史に投げさせてもいいが、村上から淳あたりでつないでいった方が、相手としては打ちにくいだろうか。

 さすがに辺見も、まだ星を投げさせることは躊躇するだろう。

 とにかく今年の春の慶応は、失点の少ない作戦を取ってきたのだ。

 それでもこれが、常識の限界か。


 最後の一人は、高く上がった打球をセンターが前進してキャッチ。

 これで早稲谷は月曜日の試合に勝てば、勝ち点一を得られることになる。

 ヒット二本とエラー一つで、直史は98球完投。

 久しぶりに三振が二桁にいかない、まさに打たせて取るピッチングであった。

「月曜日は出られないからな~」

 マウンドから降りてきた直史は、そうこぼす。

 ここから勝つのは、他の選手でやらなければいけないことだ。


 ベンチで荷物を片付けた直史は、時計に目をやる。

 今日は少し長くかかったが、一時間半ちょっとぐらいであるか。

 相手が変に粘らなければ、もっと早くにおわったろうに。

 ともあれ早稲谷はこれにて一勝。 

 全勝優勝ではないが、全てのチームから勝ち点を奪う、完全優勝の目は見えてきたのであった。

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