第185話 天才の頭脳
世界で一番難しい免許・資格というのはなんだろうか。
実は色々と意外なものが難しかったりするのだが、まあ国家医師試験と司法試験の二つが主に挙げられるだろう。
難しさの種類は違い、医師試験の方は授業からして特殊であるが。
司法試験の場合、法学部の学士であれば二年間、それ以外の学士であれば三年間、法科大学院にて学んだ後、司法試験の受験資格を得る。
早稲谷の場合は大学三年間で卒業に充分な単位を取り、学業も優秀である場合は、四年目に法科大学院に編入出来る制度となっている。
一般に言われる司法試験合格に必要な勉強時間は8000時間。
もちろん頭の出来の違いや、正しい勉強の仕方によって、必要となる時間は違うだろう。
そんな難関試験に挑もうとしている直史と瑞希であるわけだが、瑞希は直史にある程度教えられるぐらいまで、勉強の方は先行している。
時々出版社から、また書いて欲しい題材があるんですけど、などというお仕事の話があるが、学費や生活費を完全にカバーしてもらえたのはありがたいが、本筋を忘れてはいけない。
確かに瑞希の場合、直史やセイバーに間に入ってもらえば、どんどん野球界の有名人には取材できるのだが。
ちなみにイリヤの筋を利用すると、普通に国家の権力者に会えたりするのが怖い。
そんな司法試験に対して、医師試験。
医師免許を取るのに必要な年数は、日本の場合は六年。
そこまでやってもまだ半人前の医者というのは、とりあえず書類仕事が出来る弁護士よりも、実技系の能力が多いのか。
だが弁護士も弁護士で、判例などを更新していって、書類手続きをどんどんスピーディに出来るようにならないといけない。
指先を使うという意味ではまだしも、医者の方が体育会系ではある。
あちらは夜勤もあるし、患者の容態によっては、全く眠れない、
10時間を超える手術などは、完全に体力仕事である。
結論。やはり全体的に、医者の方がしんどい。
事前の予定によって休日出勤もあるが、弁護士は基本的にそうそう呼び出されるものではない。
それでどうして医者の話などになったかというと、どう考えても野球などやってる暇のない人間が、慶応の動きの裏に見えたからである。
「なるほど」
選手ではない。あれは学生コーチだ。
プレイヤーとしては実力が足りなかったり色々と弱点があっても、マネージャーとしての役割や、スコアラーとしての役割を果たす学生コーチを、慶応は学年に二人以上作る。
一般的なコーチとはまた違ったもののはずだが、なぜあいつがいるのか。
元明倫館のキャッチャー村田。
選手登録はされていないが、ベンチにはいる。
つまりコーチなりなんなり、役職があって役割があるということだ。
実家の医院を継ぐために、医学部に入ったことは知っている。
医学部であっても二年目までは一般教養などとあまり変わらないとも聞くが、四年目の今は絶対に忙しいだろうに。
同じ明倫館の桂が、引っ張ってきたのだろうか。
同じ明倫館から高卒でプロ入りした高杉は、ピッチャーから野手に転向している。
神戸の貧弱打線においては、スタメンに入っている。
選手層の薄さもあるが、主力となっているので、まず成功と言っていいだろう。
桂もプロ志望であるとは聞くが、慶応のキャプテンでありショートを守り、かなりの確率で打つアベレージヒッターだ。
面倒な相手であるが、接戦になるほど実力が拮抗してはいない。
土曜日の第一戦は、武史が先発。
さて本日は、何を狙っているのやら。
樋口としても相手ベンチの様子は、それなりに気になる。
直史が高校時代に、注意していたキャッチャーの一人だ。
高校時代の直史はストレートが140kmちょっとであったので、読まれれば対応されなくもなかった。
明倫館はセンバツには決勝まで進んで白富東と対決した。
大介の父が監督をしていたとはいえ、それ以前の神宮でも対戦しており、なかなか投げにくかった記憶があるという。
元々明倫館も、私立の進学校であったのだ。
そして慶応も、野球推薦がない。
そう思うと早稲谷の方が条件がよく、強くて当たり前のはずなのだが、実際にはそれでもない。
大学野球までやるような人間は、高卒ドラフトにはかからないものの、それでも高校野球の中でもさらにトップレベルなのだ。
その頂点にいるのが、六大学リーグと東都リーグ。
入れ替え戦がある東都の方が強いのではと言われるが、ブランドは六大である。
村田の存在が、どれだけの影響があるか。
主にリード面において、村田のキャッチャーとしての能力は高かった。
総合的に見れば樋口の方が上なのは間違いないが、キャッチャーとして特にリードや守備の要としては、あるいは上回るかもしれない。
最悪を想定する樋口としては、そんなことも考える。
この一回の表に、何を狙ってくるのか。
武史がスロースターターなのは、もはや承知の事実である。
ただ純粋に、序盤の時点でも傑出しているので、さほど問題にはならない。
相手が何を考えているのかを、樋口は推察する。
いいキャッチャーが選手としてではなく、スタッフとして存在する。
それはもちろん分析屋としての仕事だろう。
ただ武史が投げる時は、樋口も序盤しか頭を使わないのだ。
50球を超えるころから、武史のストレートは魔球になる。
全体としては上杉の方がまだまだ優れているが、ストレートの持つホップ成分だけは、武史の方が打ちにくい。
スピードと回転数と回転軸のバランスが、武史の方がいいのだ。
最大出力は上杉に勝てる者はいない。
だが同タイプのピッチャーではあるが、武史が上杉より上だと思える部分は、両者のボールを捕ってきた樋口にはあるのだ。
150km台で手元で曲がるボールなど、大学野球レベルでもそうそう打てる者はいない。
だがそれでも、浮き上がるようなストレートと組み合わせる後半の方が、武史をリードするのは簡単なのである。
普通のピッチャーだと、回が進むと目が慣れてくる。
それがほとんど詐欺めいたことに、武史は球質が変わってくる。
最初からちゃんと肩を暖めて投げても、スタミナは最後までもつ。
だがこういう回が進むごとにボールが良くなっていくというのは、ほとんど反則である。
それで序盤に、まだ訳の分からないストレートになる前に、叩いておきたい。
そういった考えは分かるが、武史の限界はまだもう少し上にあるようだ。
一回の配球と、相手のバッターのスイング。
わずかな動作から、狙い球を推測していく。
まだただ速いだけのストレートか、それとも悪魔のように手元で曲がるボールか。
ナックルカーブとチェンジアップ、そしてスライダー。
日本の大学野球で無双するなら、これでピッチングのバリエーションは充分である。
だがスライダーのサインが出しにくい。
武史のピッチングの中では、速い球をそのまま投げさせるか、手元で曲げて凡退させるというのが、一番多いパターンだ。
これに見せ付けるためのチェンジアップと、大きな変化のナックルカーブがあって、いくらでも三振が取れる。
スライダーは実のところ下位打線で見せ付けて、こんな球種もあるのだと教えるためのもの。
バッターは対応しなければいけない球が増えれば増えるほど、打つのが難しくなるのは間違いない。
かと言って中途半端な変化球を頼りにするのも、間違っていることだ。
一回の表は三振、内野ゴロ、内野フライと、問題なく始末し終えた。
ただベンチに戻ってきた樋口は、いささかならず疑問である。
バッターの狙い球が読めなかった。
ストレートに反応するか、それとも返球に反応するか、もちろん武史の投げるボールはストレート系が多いのだが。
あるいはバッターによって、狙い球が違っているのか。
それはそれで、ピッチングの内容を分析するのが、大変そうであるのは間違いない。
早稲谷の打線が封じられている。
あるいは村田が注力したのは、打つ方ではなく封じる方だったのか。
両方だと考える方が、自然は自然である。
樋口は本日、キャッチャーに専念する予定である。
どうしても試合が動かなければ、打っていくことも考えなければいけないだろう。
だが今のところは、試合が拮抗している。
武史は三振が取れないことを、かなり気にしているらしい。
だが本当に気にするべきは、そこではないと樋口は考えている。
球数が多くなっているのだ。
武史は剛速球投手にありがちな、コントロールが悪いピッチャーではない。
際どいところの出し入れが出来るため、ボール球を振らせることも出来る。
しかし今日は、特に外角の見極めがしっかりとされている。
(球数増やさせても丁寧に攻めて、そっからギアチェンジでいいか)
そう判断した樋口であるが、問題は粘られると、武史のテンションが上がらないことである。
無理に球威を出させて、壊れる可能性を高めるわけにはいかない。
さっさと打線が援護して、少しでも楽な配球を使いたいのだ。
だが慶応は明らかに、早稲谷のバッターを詳しく分析している。
上位打線が強力な早稲谷であるが、下位打線もそれなりに打てるのだ。
しかしピッチャーが粘り強く投げているので、なかなか連打で一点が入らない。
そしてこちらのサインをことごとく読まれている。
送りバントが三回も失敗というのは、あまりにもひどすぎる。
大学野球はこのあたりの、バッターの分析が高校野球とは段違いだ。
ちなみにプロはさらに違う。
試行するバッティングの数が、プロだと年間に100試合以上ある。
300打席もあれば、そのバッターのことはおおよそ丸裸に出来る。
だが去年までは姿を見かけなかった村田が、ここでそんな役割を果たしているのか。
野球知能が高すぎる。
0の更新が続いた。
中盤から武史の球威は増して、三振も増えてくる。
だがいつもに比べると、それでもバットに当てられる回数が多い。
法教戦のような、モチベーションも上がっていた試合とは違う、
樋口の分析からして、これでも充分に三振は取れるのだ。
なにせ一シーズンあたりの奪三振記録を、武史は10位以内に何度も入っている。
歴代の中の10位である。
そんなボールをしっかりと当ててくる慶応は、相当に対策をしてきたのだ。
ただ樋口の経験上、単純な本格派ならともかく、武史のようなタイプは、対策など難しいはずなのだ。
普通のストレートが既に、落ちない変化球とでも言うものになっている。
これと普通のムービング系の速球を合わせたら、打てなくなるのは間違いない。
それなのに当ててはくるのだから、何か特殊なことをしたのであろう。
プロに行っても、このような対策が可能なのだろうか。
もっともそれでも、平均よりははるかに上の奪三振率に、ランナーを出さないピッチング。
普段よりも消耗させられてはいるが、連打もなくセカンドベースを踏ませない。
送りバントならともかく単独スチールなどしてきたら、あっさりと樋口が刺すだろう。
両者共に、完全な投手戦になった。
もっとも慶応の方はピッチャーを継投してきて、それに早稲谷は対応出来ていない。
樋口としても、そろそろ覚悟を決めなければいけないだろう。
八回の裏に回ってきた四打席目。
既にツーアウトというのが、痛いところである。
ただランナーが二人いるので、ヒットを打てばおそらく一点が入る。
武史の球数は増えているが、それでも許容範囲内。
ここで点を取ってしまえば、九回の表を抑えて終わる。
しかし慶応のキャッチャーは立ち上がりもしない。
ベンチから人が出て、申告敬遠である。
チャンスに強く、それ以上に決勝打を打つことの多い樋口を、完全に警戒している。
樋口としてもボール球まで打っていくことは出来ないし、まして申告敬遠ではどうしようもない。
ツーアウト満塁になったが、それでどうにかなる試合ではない。
こういった試合で勝負を決めるのは、一発か守備のエラー。
だが下位打線の早稲谷では、得点にまで至らない。
内野ゴロで近くのベースでアウトを取って、最終回へ。
九回の表、慶応は先頭打者からの攻撃となる。
ヒットとフォアボールとエラーが一つずつ。
ほぼ完璧な内容の武史なのに、打線の援護がない。
援護してやりたくても、樋口は勝負を避けられる。
だが近藤たちがあそこまで封じられるのも予想外であった。
結局は九回の表も終わり、九回の最後の攻撃である。
そして試合は終わらない。
早稲谷はもう九本もヒットを打っているのだが、それでも点が入らない。
慶応は延長に入って、ピッチャーを四人目に代える。
それで決まらなければ、五人目も出してくるのだろう。
自分の手で決めると思って振った武史も、結局は外野フライだったのだ。
投球内容は全く違うのに、スコアボードの得点は一緒。
0がとにかく続いていて、武史は嫌になる。
スタミナ切れを、慶応は期待したのかもしれない、
だが武史は中盤以降、やや力を抜いた球で、三振が奪えている。
本日はプロの試合はないため、延長は12回まで。
武史は延長に入っても、まだまだ余裕である。
延長の12回も終わる。
結局最後まで、樋口はまともに勝負させてもらえなかった。
だがその分、他のバッターを封じている。
(白石だったらあんなボール球でも、スタンドまで運ぶんだよな)
たとえ歩かせるつもりでも、申告敬遠をさせない限り、大介との勝負は危険がつきまとう。
外角にボール二つ外れていても、腰の回転だけで打ってしまうのだ。
瞬発力のお化けは、早稲谷にはいない。
かくして12回、40人と対決して、0-0のスコアで試合は終わった。
これにて早稲谷は、全勝優勝を逃したことになる。
試合の内容は完全に早稲谷の勝ちであったが。
慶応は武史を打てなかったが、早稲谷もあと一歩の攻撃が足りなかった。
勝ち点を得るためには、先に二勝が条件。
そして直史は必ず、平日に投げることは出来ない。
一応慶応も勝ち点で早稲谷と並んでいるので、まだ優勝は分からない。
しかしこれだけの数字の違いがあって、なぜ優勝の行方が分からないのか。
野球というスポーツは、本当に奥が深いものである。
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