第184話 時短要求
基本的に佐藤直史という人間は、勝利だけを求める。
色々な記録が達成されてしまうのは、効率と確実性を重視したからにすぎない。
なので目指すのは27奪三振などではない、
27球でゲームセットという、打たせて取るの究極形に、どれだけ近付いていけるかということ。
それに試合をさっさと終わらせれば、それだけ他のことも出来るようになる。
従って法教との日曜日の第二戦。
テーマはスピードである。
「一時間ぐらいで終わらせようぜ」
「お前は何を言ってるんだ?」
樋口のツッコミは素で鋭い。
この世で一番価値があるものは何だろうか。
価値の基準を決めるのは金である。
ならば金で買えないものが、一番価値のあるものだろう。
ただ、金で買えないように見ても、実は買えるものはたくさんある。
命は買えない。だが金をかければ、ある程度の長生きは可能である。
健康もまた同じだ。金をかければ病気にもなりにくく、初期の段階で対応が可能になる。
愛。愛は買える。正確に言うと、買えるタイプの愛もある。
そんな中で直史が、一番買いにくいと思えるもの。
それが時間である。
もっともそれも金を使うサービスによって、他の無駄なことに使う時間を短縮出来るが。
武史は明らかに「別に野球が死ぬほど好きじゃない」というタイプであるが、直史にも似たような部分はある。
もちろん嫌いであるはずもないし、あれほどの練習量を好きでもないのに出来るのか、と一般人は思う。
出来なくはない、と直史は答えるだろう。
モチベーションとなる元は、努力が全く報われなかった中学時代。
そして高校に入ってトーナメントを勝っていくと、学校や地元の住民、特に田舎の家の周りは、全てが応援してくれる。
この一体感が、高校野球の魅力であると思う。
白富東の場合は特に、近所の子が甲子園に行くということが、より熱狂させたのだろう。
留学生や帰国子女、養子縁組までした淳、入学前に転向してきた悟などを除くと、近所の家の子供が、甲子園でプレイするのだ。
それはもう、応援のしがいがあったであろう。
直史が本当に楽しめたのは、おそらくそこまでである。
大学における野球は、直史にとってはただの仕事だった。
もちろんサークル内での立場や、教授たちに与えた印象はよくなっただろう。
だが何千人もいる大学の中では、身内意識が育ちにくい。
あとはマスコミの報道加熱も、野球という競技を純粋に技量を発揮する場、としたことと関係するだろう。
高校野球は地元の支持を得られた。
大学では単なる仕事だった。
プロでもただの仕事に出来るのではないか?
単なる仕事で、日本のどこに飛ばされるか分からない上に、さらにトレードという転勤があるなどやっていられない。
大介には言わないが、ライガースなどには特に、絶対に行きたくない直史である。
あとは謎の球団ルールがあるチームにも行きたくない。
地元からは離れたくないし、北海道は寒いし、福岡は遠い。
地元のチームには信条的な理由で入りたくない。
だからこそプロという選択肢はなかったのだ。
プロで成功する自信がないとか、怪我での引退があるとか、活躍出来る時期が短いとか。
それらも全て本当のことではあるが、単純に仕事として魅力的ではなかったのだ。
才能がないと自認する人間にとっては、羨ましく妬ましい限りである。
ならばなぜそこまで練習をするのか、と問われれば、純粋に仕事として結果を出そうという、奇妙な部分での責任感による。
単にピッチング自体は好きだったという理由もあるが。
優先順位の問題である。
お仕事として認識している大学野球は、もうこれまでの貯金で充分に、最後の一年も乗り切れそうである。
ならば将来的なことを考えて、勉強の方に力を入れてもおかしくはない。
ちなみに弁護士という仕事上、対人関係のつながりが重要なことも分かっている。
なので大学院の級友たちを、試合に招いたりもしている。
観客席は満員なので、果たして楽しめるかどうかは疑問だが。
楽しむかどうかはともかく、誘われた10数人の級友たちは圧倒されていた。
高校野球の、甲子園優勝ピッチャー。
昭和の時代なら全国的なヒーローであったが、平成になると徐々にその知名度も落ちていったものだ。
だが上杉の存在が、また甲子園の存在を、日本のスポーツトピックの一番に引き戻した。
その甲子園の夏の大会で唯一の、しかも二度のパーフェクト達成ピッチャー。
少しでも野球をやっている者なら、誰でも知っている存在。
新聞の一面に何度も、そしてテレビのニュースの冒頭で何度も、全国に顔を売っている人間。
自分たち文化系とは、別次元の存在だと思っていた。
野球好きのおっさんや爺さんが、プロで活躍する姿を見たいと熱望する選手。
それがプロには行かないと明言している。
そして以前から直史を知る瑞希なども、その意思は変わらないだろうと言っている。
100年に一人のピッチャーが、ほぼ同時に二人存在している。
その片方が、プロには行かずに大学で野球を終える。
本人としては草野球やクラブチームでは楽しむらしいが、それはテレビなどでは見られない試合であろう。
あまり野球に興味などなくても、それはもう一度ぐらいは見に行こうと思うものだ。
そして満員の神宮球場。
もちろん相手チームの応援団もいるのだが、基本的に中立の立場の観客は、ほとんどが早稲谷の応援である。
周囲の観客の会話を聞いていると、ほとんどの人間がただ一人、直史だけを見にやってきているのだ。
野球とはこんなにもすごいものだったのか。
いや、直史が特別なのか。
他の大学から早稲谷の大学院に編入した者も、名門私立だからこんなにも応援があるのかと、そんなことを考える。
だが実際のところ早慶戦でもないので、どうにか入れたというものだ。
これが早慶戦であると、満員のさらに限界まで、観客が入ることになる。
意味が分からない。
プロ野球の世界に詳しい人間ならともかく、普段はそれほど野球とは接しない人間たちだ。
これだけ人気があるのなら、そして100年に一人の逸材だと言うのなら、プロに進めばいいのでないか。
だがそれに対して、瑞希はこう答える。
「アイドルなんかでもずっとアイドルではいられないでしょ? そこから事業を興したり、俳優に転向したりするけど。直史君はそのタイミングが大学卒業だっただけ」
そういうこと、なのだろうか?
プロの契約金など、一億だとかいうぐらいの話は小耳に挟む。
一億と言えばほとんどの学生にとっては、目が眩む大金だ。
弁護士はかつてほど稼げない職業となっている現在、そちらの道に進んだ方がいいのでは、と弁護士志望の者さえ思う。
弁護士は指が折れても、手が折れても、足腰を故障しても、それなりに働ける仕事だ。
だがプロ野球選手はそうはいかない。
大介の進路を調べる上で、瑞希はプロ野球の世界についてもある程度調べた。
絶対にプロの即戦力と言われたピッチャーが、どれだけ通用せずに引退しているか。
まあ直史ぐらいの経歴であれば、早期引退しても、球団にポストは作ってもらえるのだろうが。
ただ直史はとにかく、自分の生活を他人に決められるのが大嫌いなのである。
試合が始まった。
直史が投げると、あっさりバッターは打ち取られたり、三振をしたりする。
相手の攻撃はあっという間に終わり、こちらの攻撃はそれなりに長い。
なんでこんなに違うのかと、瑞希に聞いてみる。
「今日は早く試合を終わらせるって言ってたから」
瑞希の返答の内容は、斜め上である。
野球人気が一時期落ちた原因の一つには、その試合展開の遅さが言われている。
高校野球から野球人気が戻っていったのは、甲子園では試合の攻守交替などがスピーディである。
直史はわざわざ試合を見に来る級友たちのために、試合展開を早くしようと考えていた。
つまりあまり三振を狙わず、初球から打てそうなところに投げていく。
そしてヒットを打たれたら、スムーズにダブルプレイを取れるピッチングに移行する。
へえ、と感心する人々であるが、普通はこういうことは出来ない。
直史と樋口の間のサイン交換は、極めて早い。
ほとんど直史が、首を横に振らないからだ。
そして追い込まれたら、ほとんど打てないボールを投げてくるとしたら、早打ちになってしまう。
帝都大のように待球策をして、相手にアイドリングの時間を与えない。
だが結局結果はあまり変わらない。
法教も早稲谷の打線を警戒するが、直史が完全に抑えてくれるので、積極的に打っていく。
それで結局、試合展開は早くなる。
かつて江川は大学時代、後の夫人とのデートに間に合わせるため、試合をさっさと終わらせていたという逸話がある。
直史は時間を有効に使うために、野球の試合をさっさと終わらせようという考えなのだ。
時間は有限という考えは、白富東で身に染み付いている。
勉強があくまでも最優先であった白富東は、部活動の時間が限られているのだ。
だらだらと時間をかけることは、直史にとって人生の損失である。
ひどい試合であった。
法教はヒットを三本打って、珍しくも直史が(比較的に)打たれる試合となった。
だがダブルプレイ二つと樋口の牽制球アウトで、結局は打順の始まりが変わらない。
樋口の肩の強さを、印象付けたい試合。
だが直史はクイックが速すぎるので、盗塁はかなり難しいのだ。
追い込んだならもう打たせることなく、ストレートでしとめる。
球速は150kmぎりぎりなのだが、スピンがしっかりとかかっている。
そんな球を投げられたら、バッターはフライしか打てない。
これにスプリットを混ぜていったら、ゴロでアウトが取れるのだ。
なお万一のことを考えて、谷は三振で終わってもらった。
相手がやる気であった時に、対戦した不運である。
ここまで翻弄されてしまえば、プロのスカウトの目も厳しくなる。
相手が化け物だからこそ、必死で食らいついて失投を狙ってほしかった。
雨の日以外は失投など絶対に期待出来ないピッチャーではあっても。
なおこの試合の課題であるスピードについては、直史が話しているのは樋口だけである。
樋口もまた、どうせ勝つならさっさと勝つというタイプだ。
ランナーがいない時は、アウトカウントによって、ヒットを打つかどうかを決める。
ツーアウトからなら自分の後ろで得点出来る可能性が低いために、ホームランしか狙っていかない。
この試合もまた、一本のホームランを打った。
三年からホームランを量産しだしたが、さすがに西郷の記録には届かないだろう。
だが大学リーグ戦通算13本目というのは、少ない数ではない。
それにあっさりと打率は、首位打者になっている。
本当に、早い試合の展開であった。
直史と樋口に、他の選手も引きずられている。
また球数を少なくしたいのかと、早稲谷のベンチは既に諦めたような顔をしている。
だが打席に入った直史が、バッターとしても初球から打っていっている。
あっさりアウトになりたかったのだが、普通にヒットになってしまったりもする。
九回になって、どうせなら後攻がよかったな、と呟く直史。
試合はリードしているので、後攻めであったら九回の裏はなくて済む。
残念なことに先攻なので、最後まで投げきらなければいけないが。
ただここまでスコアをつけていて、辺見はやはり呆れる。
球数が80球を切りそうである。
それはまあこれまでも、やったことはある記録だ。
だが明らかに、試合をあっさり終わらせようという意図が見れる。
試合が始まってから、まだ一時間半も経過していない。
だいたい大学野球は、二時間前後が平均的な試合時間だ。
これはコールドを除いた高校野球の甲子園よりは少し長い。
だがプロ野球だと平均的に三時間を過ぎる。
このあたりも他のスポーツに、人気を取られた原因かもしれない。
年中試合をするプロは、毎試合攻守交替の時に、全力疾走などしていられないのだ。
直史はあっさりと試合を終わらせたかったが、早稲谷の打線はそれなりに奮起してしまった。
つまり試合の結果自体は、早稲谷の勝利なのである。
九回を投げて、79球。10奪三振の、三被安打で、かなり珍しいヒットの数。
ただしフォアボールはなく、対決したバッターの数も27人である。
あいつは記録を作るために試合をしているのだろうか、と呆れる者が多数。
より球数は少なく、失点することもなく、フォアボールも少なく、三振は追い込んでから狙う。
試合時間はわずか一時間22分。
歴代を見ても相当に、短い時間であった。
そして試合後のインタビューでは、友達が見に来ていたので、途中で飽きないようにさっくりと進めました、と言ってしまうあたり、もう忖度の必要を認めていない。
スカウトも含めて野球関係者は、直史の存在は野球に対する冒涜だと感じている者も少なくない。
野球に人生を賭けてきた人間にとっては、いちいち試合ごとに変な記録を作る直史は、その実績が凄すぎるが故に、逆に怒りをかきたてられる存在だ。
こいつがプロ志望でなくて良かった、と思う者は少なくなくなってきた。
もちろん打てないほうが悪い、という意見もあるのだが。
ビッグマウスとも少し違う。
直史にとっては、完全試合を狙うのも、少ない球数で勝つのも、短い試合時間で勝つのも、全て合理的な理由がある。
ただそれを出来る人間が、世界には今のところ一人しかいないだけだ。
それが逆にますます、頭にくる要因ではあるのだろう。
直史のファン層は、従来の野球ファンとは少し異なる。
上杉などは従来のファン層を広げたのだが、直史の場合は開拓したと言うべきか。
極端な話、直史はピッチャーではあるが、野球という競技をしていないイメージを持たれているんだ。
法教大学に二連勝したために、これで勝ち点の数から、リーグ優勝自体はほぼ決まった。
あとは全勝優勝が出来るかどうかという話である。
竹中がいなくなった後の慶応は、守備力がかなり低下しているはずだと言われていた。
だが実際にはこの春のリーグ戦、一応は勝ち負けはしても勝ち点は拾っていて、防御率は悪化していない。優勝の目もないわけではないのだ。
見知った顔がまだ数人いる慶応大学。
早慶戦が始まろうとしていた。
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