第183話 やりすぎた復讐

 ヒットを打たれるよりも、フォアボールで歩かせてしまう方が嫌いだ。

 そういった考えも、兄の影響を受けたものかもしれない。

 とにかくひたすら、確実に楽に勝つために、練習はちゃんとすること。

 練習もトレーニングも、兄は努力とは言わない。

 それは単純に必要なことだから、効率的にやっているだけのこと。

 限界かどうかすら分からない、本当にぎりぎりのところまでやって、それでこそ努力と言えるのだ、と兄は言う。


 ストイックなようであるが、性生活においては非常に俗物なことも知っている。

 ただ絶対に、自分では敵わない存在でいてくれる。

 そんな不思議な安心感を、直史に抱く武史である。


 大学野球のリーグ戦は、年に二回。

 春と秋であるが、直史が投げるのはもう、本当に限られた回数だけであろう。

 少しでも安く法曹の資格を取るために、生活のかなりの時間を費やして勉強に勤しんでいるらしい。

 らしいと言うのは、野球部で直史と関わることの多い樋口はあまり会っていないし、瑞希は直史と一緒にいて武史と会わないからだ。


 樋口は樋口で、各球団のスカウトへのアピールで忙しい。

 プロの世界になど、行く気はなかった樋口である。

 だが当初の人生の予定を変えさせてしまうからには、絶対にその対価を得ようと考えている。

 そんな樋口は武史以外にも、下級生まで含めて早稲谷のピッチャーたち、全員の力を把握している。

 樋口がキャッチャーであると、おおよそ疲労度が20%ほど違うような気がする。

 来年はいなくなってしまう樋口なので、武史はせっせと同学年や下級生に、その暴力的なストレートを投げ込む。

 

 高校時代も既に化け物だったのに、さらに化け物になっている。

 そう思いつつもしっかりと武史のストレートを捕る、ブルペンキャッチャーの上山である。

 他のキャッチャーは、少なくとも一年の中には捕れる者はいない。

 それだけに集中すれば別であろうが、キャッチャーの役割は広範囲に及ぶ。

 MLBであればキャッチングさえ出来れば、打てることがキャッチャーの第一条件になるのだが。




 直史は色恋と勉学に溺れているので、まだマシなのである。

 武史は完全に色ボケしていた。

 直史の監視がなくなると、こういうこともある。

 ただすると今度は、樋口が切れてグラウンドに引っ張っていくわけだが。


 キャッチャーとしての評価を高めるために、樋口は非常に打算的な行動をしている。

 早稲谷の野球部が早大付属出身と、それ以外に主に分かれている。

 それ以外というのは単なる派閥だけではなく、練習や野球部精神に関わることでもある。

 野球部の伝統を結果的に破壊したのは直史だ。

 だが樋口としては選手たちをまとめるという、チームを掌握する力を示しておきたい。


 すると辺見にある程度阿る。

 辺見としても理論派で合理性を重視する樋口が、ある程度こちらの提案を聞いてくれるのはありがたい。

 それに樋口は別に、早大付属の選手とも仲が悪いわけではない。

 ただ上からの間違った指導に対しては、我慢が出来ないというだけである。


 才能や能力を重視するという点では、樋口はある意味直史よりもリアリストである。

 直史はそもそも野球において、味方にはあまり期待したことがない。

 田舎の旧家の長男という、かなり保守的な思想を持っている。

 それに比べると樋口はもっと攻撃的だ。

 もっとも攻撃的なのは生来の性格であり、グラウンド上では冷徹な守備の要となる。


 チームがまとまっていないと試合には勝てないというが、圧倒的なピッチャーが一人と、一点を取ってくれる打線があれば、実は勝ててしまうのが野球である。

 チームがまとまっていないと勝てないという理屈を欲するのは指導者などである。

 そもそもチームワークというのは、勝利のためにあるのではないか。

 いや、勝利を考えるのは監督の仕事であろう。

 などと色々と言ってはいるものの、結局は勝利至上主義が樋口である。

 いや、利益最大主義と言うべきか。


 たとえば試合に勝つためだけなら、大介は全打席敬遠する。

 しかし勝負するピッチャーの価値を高めるためには、敬遠する打席で布石を置いて、一打席だけでも必ずしとめる。

 それが樋口の、チームの利益の最大化である。

 大学で野球を終わらせるつもりであったので、選手としてキャッチャーとして、自分の利益の最大化を目指していたのがかつての樋口である。

 だがプロのスカウトへのアピールとしては、既に使えるキャッチャーであると思わせなければいけない。

 ドラ一とそれ以外では、チームの中での重要後も変わるのだ。




 樋口が色々と画策しているのは気付いている直史である。

 だがそれは自分の不利益にはならない。

 キャッチャーはなんだかんだ言いつつ、試合に勝つためにはピッチャーが必要になる。

 そして試合に勝たなくてもいいなとピッチャーが思ってしまえば、キャッチャーは何も出来ない。


 樋口とは戦友であるが、親友というのとはちょっと違うと思う直史である。

 たとえ敵のチームでも、ジンに対する方が、直史としては気が休まる。

 樋口はジンよりもずっと、キャッチャーとしては完璧主義者だ。

 自分にも他人にも、求める物が大きい。

 ただ直史が、野球よりも尊重するものがあることを、理解はしてくれている。

 その一点だけで、直史としては充分なのだ。


 樋口と組むことは、武史にとってはいいことだと思う。

 普通に投げているだけで、大学野球のレベルでは、武史を打てるバッターなどほとんどいないのだ。

 だがこの先プロに行くなら、さらに対決する相手のレベルは上がる。

 それこそセの球団に行くつもりであるのだから、大介や西郷と対決する必要がある。

 あの二人を含むクリーンナップというのは、はっきり言ってピッチャーにとっては、悪夢以外の何者でもない。


 まだしも西郷はマシなのだ。

 だが大介とはまともに勝負しても、勝てるとは思わない。

 サウスポーのスライダーにやや弱いと言われているので、スライダーを磨いてみた。

 だが真田のスライダーほろの、悪魔めいた変化はしないのが武史のスライダーだ。


 まあまだ卒業までに時間がある。

 武史はそれについては楽観的だ。

 それよりも重要なのは、第六週の法教戦。

 土曜日の先発は武史であり、去年の秋に谷から浴びたホームランを、もっと劇的にお返ししなければいけないだろう。

 武史にはピッチャーとしてのプライドなどというものはないが、やられたらやり返すのが世の中の基本である。




 法教大学としてはむしろ、こちらがやり返す側だと考えている。

 確かに谷のホームランで、二点は取った。

 大学に入ってからの、佐藤武史の初被弾。

 だがチーム自体は負けている。

 それに次の日曜日では、兄による弟の敵討ちという名の蹂躙が凄かった。

 80球も投げていないのに、パーフェクト達成なのである。

 あの兄弟はどちらもおかしいが、やはり兄の方がおかしい。

 最近では練習に出ることさえ減っているらしいが、それで弱体化を期待出来ないのは、この間の帝都戦で分かっている。


 勝ち点を得るためには、まず土曜日に勝たなければいけない。

 こちらも極悪な性能を誇るのだが、武史の方がまだマシというレベルである。

 水爆と原爆を比較するようなものなのかもしれないが。


 武史は普段は序盤を適当に流すのだが、温かくなってきたこの季節は、しっかりと肩を作っていく。

 点を取られた仕返しは、チームとしては済んでいる。

 だが個人としては、今日は全打席三振にしないとおさまらない。


 160km台のストレートというのは、プロの世界でも数人しかいない。

 その中の一人が、また今年からはMLBに挑戦に行っている。

 武史は直史ほどではないが、日本大好き人間である。

 田舎から東京に出てきた時は興奮したものだが、アメリカなどは観光ぐらいならともかく、一年も滞在する場所ではないと思っている。

 MLBなどに興味はない。

 ただシーズンオフ期間中にNBAが見たい放題だというのは、かなり魅力的ではある。




 谷の打順は四番である。

 そのあたりだけは、三弁や二番に強打者を置くMLBの方が、はっきりとデータ重視なのだとは分かる。

 だが武史にとって野球は、あまり勝つばかりのものではない。

 特にプロなどといったものは、勝ち負けよりも大事なことがあると思う。

 エースは出来れば完投して、四番は最強の打者である。

 三番に最強打者を置く白富東の出身であるが、そんな考えを持っている。

 高校時代も大学時代も、ピッチャーが同じチーム内に、何人もいい選手がいすぎた。

 それが大学でまで続いているので、考え方に偏りが生まれる。


 二回の表に、谷と対決する武史、

 ここまでにアイドリングは済んでいる。

 樋口のサインに、珍しくも首を振る。

 樋口としては武史の方が、直史よりはずっと、ピッチャーらしい我儘さを持っていると思うのだ。

 そのチームで一番偉いのがエース。

 春日山時代はずっと、そのエースを操縦するのが樋口の役目であったが。


 まあ仕方ないか、と樋口は判断する。

 そんな武史の我儘を許してでも、リードでアウトにすればいい。

 前のめりに構える谷に対して、初球はインハイストレート。

 思わず仰け反ってしまうボールであるが、コースはちゃんとストライクに入っている。

 そして球場内がざわめきに包まれる。


 球速表示に出ていたのは、167という数字。

 この冬の間、球速アップには取り組んでいなかったのだが、ピッチャーという人種はどうしても、試合の中で限界を超えてしまうらしい。

 最初の一球が全てであった。

 ストレートだけを三球投げて、谷を打ち取る。

 四連続三振であり、谷に至っては三球三振。

 また気分でパフォーマンスが変わるやつである。

 そう思うと上杉だって、大介と戦うために球速を上げていったものだ。


 谷は確かにドラフトレベルの強打者であるが、これまでにも同レベル以上のバッターはいただろう。

 だがホームランを打ったというそれだけで、完全に武史から逆恨みされている。

 いや、逆恨みではなく、正当な恨みなのかもしれないが。

 武史が封じてくれれば、それはそれで樋口としても、首位打者争いが楽になっていい。

 ただし二打席目からは、ちゃんと変化球も使わせようと決意するのであった。




 この日の武史は集中力が違ったと言うべきか。

 観客席で試合の様子を見つめる恵美理は、ほとんど呆れていた。

 これほど圧倒的なピッチングは、今までに見たことがない。

 単純に完全試合やノーヒットノーランなどは見てきた。

 だが今日は武史が、明らかにおかしい。


 13連続奪三振。

 初回から一人の打者も前に飛ばさせない。

 14人目がようやくキャッチャーフライでアウトになったが、これまた前には飛んでいないのだ。


 直史が似たような試合を一度やった。

 あの時は24奪三振で、同じくピッチャーとキャッチャー以外に、守備はいらない試合であった、

 その再現を武史はしている。


 二打席連続で三振に打ち取られた谷は、WBCの壮行試合には出ていない。

 なので上杉と試合で対決したことはない。

 だが球速はまだまだ上杉の方が上なのである。

 これから進むプロの世界には、まだこれより上がいるのか。

 いや、これより上なのは一人しかいないと思えば、まだ我慢できなくはない。


 そして呆れているのは樋口も一緒だ。

 全員を三振でアウトに取る。

 そんなバカなことを考えるのは、おそらく中学生までであろう。

 上杉は確か中学時代に、コールド勝ちで全てのアウトを三振で取ったことがあるはずだ。

 だが高校野球のレベルでも、そんな無茶は……いや、最後の一年は、樋口がもっと楽に投げさせようとしていただけか。

 やろうと思えば打たせて取るのではなく、全打者三振も目指せたのかもしれない。

 とりあえず本日の法教の打線には合掌である。

 この武史を打てそうなバッターなど、一人ぐらいしか思いつかない。

 しかも自分がリードしているのだから、その一人もどうにか抑えられそうに思える。




 とんでもない試合になってしまった。

 武史が23奪三振を達成して、直史がそれを上回る24奪三振を達成した。

 だが打線の弱い東大を相手にしても、もうこれ以上はさすがに狙えないと思っていた。

 それなのにこうやって、記録へと段々近付いている。


 さすがにバントなどで転がそうという姑息なマネはしてこないが、まあ大記録を打ち立てるのと、バントでそれを防ごうとするのと、どちらが屈辱的なものになるか。

 樋口としてはバントをしてきても、少なくとも前には飛ばないリードをしている。

 そういえば高校時代は、上杉のボールはバントでもまともに当たらなかったものだ。

 バント攻撃で上杉の前に転がそうとしたチームもあったが、バント失敗が何度も続いたものである。

 バント空振りというのがあれほど恥晒しになるとは、さすがの樋口も知らなかった。


(こいつのやる気のスイッチは、どうもよく分からないよな)

 基本的に直史からは、女がらみでやる気が違うとは聞いている。

 だが今日はもう、谷から三打席連続三球三振である。

 樋口が上手く、ボールゾーンに少しだけ遅い球を投げさせると、それを振っていってファールでストライクを稼げる。

 やや球速の落ちるムービング系を投げさえた後、本気になったフォーシームストレートを投げさせれば、全くもう誰も打つことは出来ない。

 正確に言えば当てることが出来ない。


(大学野球ってこんなレベルだったか?)

 まだ武史を甘く見ていた樋口であった。

 プロに行くとすると、こいつとも対戦しなければいけないわけか。

 出来れば同じ球団になりたいものだ。

 あるいは神奈川に入団出来れば、上杉と対決しなくて済むから楽なのだが。


 25奪三振で、球数は90球。

 そして完全試合達成。

 やるにしてもひどすぎる内容のピッチングであった。

 最後には法教の選手たちは、顔色がもう土気色になっていた。

 ともあれこれで、ようやく気が済んだ武史である。

 野球においてこいつは、容赦という言葉を知らないようであった。


 なお翌日はちゃんと日曜日なので投げられる直史の先発。

 別に弟に対抗心など抱かないよな? と考える樋口であった。

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