第182話 至高の技巧

「おかしいなあ」

 帰りのバスの中でも、何度も首を傾げるジンである。

 結局1-0のスコアのまま、ノーヒットノーランで負けた試合であったが、ジンが感じているのは屈辱でも怒りでもない。

 ただただ不審なのである。


 ジンは才能について、二つの種類で分けている。

 センスと素質だ。

 センスというのは技術的な面で、純粋にどれだけの早さで技術を習得し研鑽していくか。

 そして素質というのを、肉体的な能力と定義していた。


 直史はこれで言うならセンス九割の素質一割。

 武史だとその逆で、センス一割の素質九割。

 自分一人の考えであるが、あながち間違いでもないと思う。


 ピッチャーのタイプは主に二つに分かれると思う。

 本格派と、それ以外だ。

 良いストレートと、それを活かす変化球を持っている。

 上杉や武史、また岩崎などもこのタイプ。素質に優れている者が、本格派になりうる。

 それに対するのは、ちょっと一言では言いづらい。


 技巧派、軟投派、変則派。

 直史や淳、あとはナックル使いのサウスポー坂本などもこちら側だったろう。

 本格派というのは純粋に、自分のパワーをボールに込めてキャッチャーミットに投げる。

 力尽くでバッターを抑え込もうというタイプだ。


 それに比べると技巧派、軟投派、変則派というのは、よりバッターの狙いを読み取り、駆け引きで勝負する。

 基本的には打たせて取るというもので、たとえば星などは完全にこちら側だ。

 もちろん本格派でもある程度は駆け引きを使うし、技巧にも優れた本格派というのもいるだろう。

 この分類で言うと、直史は本格派以外の部類に入る。

 だが大学に入ってからは、ストレートとチェンジアップにカーブだけという、本格派に近いピッチングスタイルの試合もしている。

 明らかに素の身体能力を伸ばし、より楽にアウトが取れるように変わってきたのだ。


 そういった部分まで含めて、直史は完全に技巧派。

 それも超絶技巧派とでも言うべきものだと思っていた。

 そしてそういった超絶技巧は、わずかでも野球から離れて練習をしなくなれば、すぐにさび付くものだと思っていたのだ。

 もちろん本格派であっても、ちゃんとトレーニングをして筋肉を維持しないと、速い球は投げられない。

 だがジンは直史のピッチングを、もっと精密機械に近いものだと考えていた。

 雨天にはどうしても精度が落ちる。

 それが練習時間もトレーニングの時間も、かなり少なくなっている。

 嘘だとは思えなかった。明らかに今日の試合の序盤は、手探りのピッチングをおこなっていたからだ。

 だが中盤から終盤にかけて、一気によくなってきた。


 直史が努力家であることは間違いない。

 ただしセンスがなければ、努力は無駄な努力となる。

 そして努力せずに維持できるほど、直史の持っている技術は簡単なものではないと思っていたのだ。


 おそらくこの考えも間違いではない。

 序盤から球数を使い、微妙にコントロールも悪かった。

 だが球数が多かったのは、単純に試合の中で微調整を続けたからだろう。

 ストレートが150km以上出るようになってからは、圧巻のピッチングだった。

 つまりなすべきことは、待球策ではなかった。

 今日の試合に限って言えば、序盤の微調整をしている間に、叩いておくべきだったのだ。

 だがその序盤も、三振だったり内野ゴロだったり、記録だけを見れば完全に遊ばれている。


 不調ではあった。それでもなお、実力差が隔絶していた。

 高校時代に比べても、明らかに球速をはじめ、ピッチングの種々の要素が成長している。

 そしてここまでの貯金で、残りのわずかなリーグ戦も、誰にも追いつかれずに無敗で終わってしまうのか。

(勝つだけが野球じゃないよな)

 直史がプロへの道を、全く考えずにいる理由。

 それはもう、プロまで行っても別に、苦戦するような相手がいないと考えているからか。

(秋はもう出てこないかな)

 もしも、もう一度だけ、対決する機会があるのなら。

 友人として元相棒として、敗北を教えてやりたいと願うジンであった。




 直史が異常なまでに忙しくなった理由。

 それは法科大学院だけでなく、司法試験予備校にも通っているからである。

 司法試験に合格するにはどうすればいいのか。

 六法全書を丸暗記するだけでは足りない。


 実のところは六法の内容をおおかた暗記することもだが、判例を憶えていかなければいけないのだ。

 この判例も基本的には前例に従うものなのだが、当然法律が変われば運用も変わる。

 六法全書を全て記憶している、などというキャラクターを書く作家でもいれば、そいつはずばりアホである。


 そんな忙しい直史であるので、運動にもあまり時間を割けない。

 夜のベッドではそれなりの運動をする時間を確保するあたり、目的がブレない男である。

 自分の人生の快楽さえも、計算して追及する。

 なんとも安定した人生を考えているようだが、単純に安定しているだけでもない人生を送っている。


 本人はおそらく、一度決めたことから全くブレていない。

 ただそこへ到達する道筋は、それなりに変化しているはずだ。

 大学でも野球をやると決めて、そしてその成果は古今東西に比類の無いもの。

 これだけ傑出したピッチャーであれば、高卒でプロに行くべきなのだ。

 だが大学に入学した当初を考えると、明らかに球速をはじめとして、諸処の要素が成長している。

 やや衰えた今の状態でも、まだ大学入学の時期よりは上回っている。

 大学に入学した時点で、平気でノーヒットノーランを達成していたのだから、そこまで衰えても衰えたとは言えない。

 



 バッテリーを組む樋口は、羨ましい生き方だなと思ってしまう。

 樋口は結局のところ、人生全体のトータルを考えて、プロへの道を選んでしまった。

 そしてこの春はスカウトへの最後のアピールチャンスとして、積極的に打っている。

 当然ながらキャッチャーとしてはバッターをリードし、練習試合も無敗。

 樋口がマスクを被った試合では、ピッチャーが誰であっても早稲谷は負けていない。

 そしてリーグ戦では樋口がマスクを被るので、負けないというわけだ。


 第五週は早稲谷はまた休みの週である。

 最後に早慶戦が行われるため、どうしても試合の間隔は空いてくる。

 それはもうそういう制度なので、仕方のないことなのだ。


 そして第六週が、法教大学との試合。

 これに向けて、珍しく武史が燃えている。

 去年の秋、ホームランを打たれたことは忘れていない。

 本来は野球の成績において、あまり記録になどこだわりもしない武史であるのだが、彼女にかっこ悪いところを見せたくはないのだ。

 そんな武史の一方的な復讐の対象である法教の谷は、この春のリーグで樋口と首位打者争いをしている。

 ただ、直史や武史と対決しなくていい樋口の方が、明らかにこの先は有利である。


 武史は来年のエースになるが、一気に投手力全体は落ちる。

 今も直史があまり試合に出ていないのは、むしろ徐々に投手力が落ちる様相となっており、辺見や下級生たちも、心の準備が出来てきている。

 ただ直史に村上、そして最近はある程度の出番を貰っている星なども、一気に卒業してしまうのだ。

 正確に言うと直史は、もう既に法科大学院に編入しているのだが。

 大学野球に参加出来るのは、年齢ではなく学年でもなく、純粋に四年間だけ。

 村上はおそらくプロに指名されるし、星はしっかりと単位を取っていて、教職課程も終えている。

 この間は母校に行って、懐かしい顔を見て来たものだ。

 辺見は星には、スカウトの話はしていない。

 どちらにしと調査書が送られてきたら、そこで星はまた考えることになるのだろうが。




 今日は時間が取れたらしい直史が、調整のためにピッチング練習を行っている。

 スピードはそれほど出していないように見えるが、明らかにキレが違う。

 武史と並んで投げていると、それがはっきりと分かる。

 もちろん武史のボールも、キレがある。ありすぎる。

 だが圧倒的に球速では優っているのに、キレでは同じぐらいに見えるのはどういうことなのか。


 直史もそれなりに、先日の試合は反省していた。

 ストレートが使えないピッチングは、確かにああいった難しいものであった。

 高校に入ったばかりのことを思い出す試合であった。


 変化球の変化と、コンビネーション。

 それだけでほとんどの高校レベルの選手は打ち取れた。

 甲子園とワールドカップを参考に考えると、ピッチャーがバッターから三振を取るために必要な球速は、それほど速くなくていい。

 だがそれでも、直史ですらある程度の球速を求めたのは、より少ない球数でアウトを取るためだ。


 樋口は下級生のピッチャーのボールを捕ってやるために忙しい。

 なので直史は逆に、下級生のキャッチャーを鍛えている。

 さすがにノーサインで投げるということはない。

 だがカーブとしか言っていないなら、直史のボールを捕るのは難しい。


 スローカーブは山なりで、むしろ加速するように落ちてくる。

 縦だけではなく、斜めに入ってくる、変化量の多いカーブもある。

 だいたいミットをそのままにしておけば、ちゃんとそこに入れるのであるが、キャッチャーはどうしてもボールを追いかけて、結果後ろに逸らしてしまう。

 この光景を見ているだけで、凄いなと下級生たちは興奮する。

 こういう球が、世界を相手に完封をしたのだ。

 自分一人で最後まで投げるため、球数を100球までに計算して。

 もしその縛りがなかったら、WBCの決勝でアメリカを相手に、パーフェクトもしてしまえたのかもしれない。




 直史がバッティングピッチャーもやる。

 苦手なコースにとことん投げてほしいというバッターに、本当にそのコースにばかりどんぴしゃで投げてくる。

 打てるようになったかと思ったら、そこへわずかに変化やコースを変えたボールを投げる。

 するとまた打てなくなる。


 直史は自身もアベレージを残せるバッターであったが、ホームランを打つのはよほどの偶然がないと無理である。

 そしてどうしたら上手く苦手なコースを打てるようになるのかも分からない。

 直史がアベレージを残して打てるのは、相手の配球を読むからである。

 そのあたりは樋口と同じで、しかし樋口ほどのパワーはない。

 他に打てるバッターがいれば、ピッチャーは打たなくていい。

 勝利だけを考えれば、ピッチャーをベースの近くに立たせたり、ランナーに出して走り回らせることすら、やめておいた方がいいと考える合理主義者である。


 そんなわけで直史は、確実にバッティングの能力だけは、大きく衰えていた。

 ボールをミートしても、力を入れすぎてピッチングに支障が出ると困るので、どうしても弱い当たりになる。

 大介などはわずかなミートまで感じるため、バッティンググローブを使わない。

 だが直史はバッティンググローブのみならず、エルボーガードやショルダーガードなど、ガチガチに固めて打席に入る。

 そしてやるのはバントの練習である。


 ピッチング練習はかなりのハイペースで、300球ほども投げた。

 力の入った球は数えるほどで、しかし他のボールにも、しっかりとしたスピンがかかっていた。

 変化球でもストライクゾーンの四隅を狙える。

 一応法教大との試合と、最後の早慶戦には、出られるように予定は空けてある。

 ただしそれは日曜日であって、土曜日には予定が入っている。

 法律サークルの仲間は、だいたいリーグ戦も見るようになってきた。

 たとえ野球に興味がなくても、テレビや新聞、そしてネットのSNSなどで話題になっていれば、自分の傍にいるこいつが、どれだけ特別な存在なのか分かるのである。


 同じ時代に、上杉、大介、そして直史が、ほぼ同じ年代で揃っているという贅沢さ。

 それを少しでも分かってしまうと、もう虜になってしまう。

 あと実は直史の投げる試合は、相手の攻撃の時間が短いので、スピーディーにあっさりと終わる。 

 味方がガンガンと点を取って、そして直史が全くランナーを出さずに勝利を決める。

 大小のマスコミが注目して、その記録の達成を見続ける。

 大学入学以来、無失点という伝説。

 いやそれは、もう神の領域だと、変な信者まで現れている。


 この世界には合法のドラッグがいくつか存在する。

 スポーツのスーパープレーというのも、その中の一つであろう。

 投げれば投げるほど、その数字は積み重なっていく。

 どうせなら先発で投げさせろと、出し惜しみをすれば辺見の身が危うい。

 直史はいくつもの意味で、危険な存在であった。




 武史のピッチングを、直史は見ている。

 そして兄の視線に晒されるのは、武史は慣れている。

 直史は合理的な思考を持つが、時には感覚的になることもある。

 この時も、そうだったらしい。

「スライダーはまだ使わない方がいいかもな」

 サウスポーのスライダーは、右打者には懐に入っていく。

 まだ分かっていても打てないほどの、絶対的なボールではない。


 コンビネーションの一つとして、使っていくのならいい。

 だが武史のスライダーで、外にボールを逃がして打てないようにするのは、右打者相手には無理である。

「左打者相手にはそこそこ投げてみせて、その球種があることを分からせておくだけがいいだろ」

 その意見には樋口も賛成である。


 武史のスライダーは、しっかりと変化をするようになってきた。

 だがどうしてもまだ、大きく変化させようと思うと、フォームに誤差が出てくる。

 そのわずかな雰囲気の差を、強打者は見逃さないだろう。

 ただ普通の右打者相手であれば、もちろん普通に通用する。

 カットボールとの違いを、どれだけ感じさせないかが肝心である。


 大学生活は残り一年を切った。

 直史は特別なので、まだ一年大学に残るが。

 弟に助言してやれるのも、もう少ないだろう。


 プロに行く武史。

 その道の先は、かなり危険なものである。

 そもそも武史は、プロで生きていくためのモチベーションはあるのか。

 そのあたりが疑問の直史であるが、いざとなればどうにかなってしまうのが、武史の性格のおかげなのであろうか。


 傑出したピッチャーが二人、同じブルペンにいる。

 写真に撮っておいてもいい情景であるのは間違いなかった。

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