第181話 衰えた魔術師

 東京六大学春のリーグ戦。

 第四週において、ようやく佐藤直史が投げる。

 もったいぶった選手起用に、観客たちは好き放題に騒ぎ続ける。

 辺見は胃が痛い。

 直史が登板しないのはあくまで本人の都合であって、辺見が何か画策したわけではないのだ。

 投げても投げなくても、辺見の精神には負荷がかかる。

 わずかに白髪が混じっていた髪の毛は、この三年で真っ白になった。

 精力に溢れていた姿は、もうはるか昔のこと。

 勝っても負けてもそこに魂の充足がないという点では、彼ほどの不幸な男は存在しなかったろう。


 直史が投げるのだ。

 投球練習の間も、観客席のざわめきは止まらない。

 帝都は昨日の試合を制すべく、エースはそちらに投入していた。

 よって今日の試合は、二番手が先発してくる。

 接戦になれば連投で投げてくるかもしれないが、可能性としては低い。


 ジンは一つ計算違いをしている。

 辺見の継投のタイミングが間違って、逆転をする。

 それはありえないことなのだ。

 なぜならば直史が投げていれば、点は取られない。

 点が取られない間は、直史を交代させるわけにはいかない。

 そんなことをしたら、観客もマスコミも騒ぎを起こすに決まっている。

 もう残り少ない大学生活において、あとどれぐらい生でこのピッチングが見られるのか。

 学生野球の聖地神宮にて、直史はこの春初めて、公式戦での姿を見せたのであった。


 もったいぶっても結局は、プロに行くのだろう。

 そう考えていた甘い野球ファンは、直史の動向を知るにつれて、さすがに認識を改めてきた。

 法科大学院に進み、学業を優先してグラウンドに姿を現さない。

 プロ球団のスカウトなどは当然、本人の強い意思を知っている。


 大学野球でプレイ出来るのは、高校と違って年齢ではなく、四年間と決まっている。

 来年も早稲谷の大学院には在学しているが、もう試合で投げることは出来ないのだ。

 そしてこの春にも、公式戦であるリーグ戦でも、姿を現さない。

 完全に、野球から離れようとしている。

 本人は忙しい時期が過ぎたら、またクラブチームで野球をするつもりはあるのだが、そんなことまではファンは分からない。


 早稲谷と敵対する大学の応援団や選手でさえ、分かっているのだ。

 史上最高のピッチャーが、この先は野球の道を歩むことはなく、そのプレイする姿を見ることはもうないのだと。

 ならば少しでも、その目にピッチングの技巧を焼き付けよう。

 おそらくこの先、人類のトレーニングの結果、上杉以上のストレートを投げる人間は出てくるかもしれない。

 だが直史の持つ技術は、二度と現れないであろうレベルのものだ。




 一回の表の帝都の攻撃の前に、投球練習が行われる。

 マウンドから投げる直史は、この期に及んでも全力投球はしない。

 事前に言われていたことだが、ストレッチや柔軟が完全とは言いがたいのだ。

 生活の中で野球の技術を維持するために必要だった時間まで、既に勉強に振り分けている。


 最大出力は、間違いなく下がっている。

 それでもコントロールは失っていない。

(無理をすれば150km出るかもしれないが)

 樋口はそう考えつつも、もっと遅いスピードでリードしていくことにする。


 考えてみれば、不思議なことではない。

 大学入学時の直史は、まだ140km台半ばがやっとの球速であったのだ。

 それからパワーアップしていったが、パワーアップするまえの一年の春の時点で、充分な成果を残していたのだ。


 最近は球威も増してきたため、それでフライを打たせることが出来ていた。

 だが今はまた、技術で封じ込めることが求められる。

(MAX145あれば、なんとかなるだろ)

 そして樋口は決断する。

 140kmでも抑えられるリードをする。

 それでも精度があるので、完封ぐらいは出来るはずだ。




 三振。

 また三振。

 さらに三振。

 一回の表は、三者三振でしとめた。

 カーブ、スライダー、シンカー、スルーと、遅い球でカウントを稼ぎ、スルーで空振りを取る。

 ごく常識的なリードであり、スルーを使って空振りを取るという、意外性のないコンビネーション。


 球速はMAXで142kmしか出ていない。

 ストレートを一球も投げていないので、それも無理はないのだが。

 球速という分かりやすい凄さはないが、それでも三者三振に取った。

 だがバッテリーは共に、この最初のイニングは見てきたのだな、と承知している。


 スライダーを一球、ボールゾーンに投げてしまった。

 それ以外は全てストライクゾーンで、ツーストライクまではしっかりと見て、追い込んだら振ってきた。

 スルーだ。140kmオーバーの落ちる球は、最近使っていなかった。

「ジンのやつ容赦ないな」

 口ではそう言うが、楽しそうな直史である。

「待球策でもあるけど、変化球を投げさせられてるからな」

「まあ序盤はな」

 直史としてはあせる段階ではない。

 変化球をマウンドで確かめられて、むしろ好都合だ。


 今日は少し球数が多くなるかもしれない。

 早稲谷ベンチの中で、辺見はそう考える。

 ストレートを投げないと、どうしても緩急がうまくつかない。

 コースと角度だけであると、コンビネーションの幅が狭まる。

 だが直史は、緩急が使える。




 早稲谷も点が入らず、投手戦の気配が漂い始める二回の表、

 ツーシームをぎりぎり外れるところに投げた次は、スローカーブを投げた。

 球速90km程度のスローカーブ。

 速い球が投げられないなら、遅い球をより遅く投げる。

 これで充分に緩急はつく。


 一回とは真逆の、三振が一つもないアウト。

 だがこれもツーストライクから打っていったものである。


 とにかく直史の、球数を増やそうとしている。

 その方針自体は間違いではない。

 直史は調整自体は続けているが、ダッシュなどの走り込みでのスタミナ維持はしきれていない。

 フルパワーで投げていけば、完投は無理だろう。

 だがここで、至高の技巧派の真髄発揮である。


 相手のバッターのデータは、樋口の頭の中に入っている。

 得意なコースに投げて、そこからボール一個分ほど変化させる。

 それでミートを外して、クリーンヒットになりそうな打球になるのを避ける。

 わずかなコントロールミスで、普通にヒット二なってしまう。

 だがそのわずかなコントロールミスをしないピッチャーがマウンドに立っているのだ。


 球数を投げさせて、最近の練習不足によって衰えているスタミナを削る。

 グラウンドに姿を現すことは確かに少なくなっているので、これもまた作戦としては間違っているわけではない。はずだ。

 だが170kmを投げるピッチャーが165kmしか投げられなくなったとして、これで衰えたと言えるのだろうか。

 直史は15回をパーフェクトに投げることが出来る。

 そこから何%落ちたら、試合に負けるのであろうか。




 帝都にとっては幸いと言うべきか、投手戦の様相を呈している。

 ピッチャーのレベルはもちろん完全に早稲谷が上回っているのだが、バックの守りが堅く、得点を許さない。

 だがこういう時に打ってしまうのが、クラッチバッターである。


 アウトローをそのまま流して、スタンドぎりぎりに入れる。

 芸術的な樋口の一発で、早稲谷は停滞していた試合を動かし始める。

 中盤が終わって、まだ直史はヒットを許していない。

 ただフォアボールは二つ出している。


 球速の上限が低いと、やはりボールをぎりぎりまで見極められることが多いのだ。

 右打者へのスライダーを見逃されて、そのまま歩かせてしまうということが多かった。

 そしてストレートで三振が取れないということが、ボール球を振らせたいという気持ちになってくるのだ。

 スルーを使う回数も、以前よりもずっと多くなっている。

 確実に去年の秋よりも、弱体化している。

 このまま点差を広げられずに、終盤にまでもつれこむ。

 相手が直史を交代させて、終盤を乗り切ろうとすれば勝機はある。

 ただここまで、相変わらずヒットを打たれていないのが問題が。


 それなりにヒットは出ているのだが、点になったのは樋口のソロホームランだけ。

 辺見はランナーが出たらサインを出すのだが、これがことごとく裏目に出る。

 別に試合に負けたいわけではない。

 直史が打たれたらなんだか気分は良くなるかもしれないが、そのためだけにおかしな指揮をするつもりはない。


 純粋に、今日は帝都にツキがある日だったのだろう。

 ただそんな単純な運勢を、覆すのが直史であった。

 しかしさすがに練習不足だ。

 ストレートが走っていないので、他のボールの威力も圧倒的に下がってしまっている。

 こういう時に流れが変わるのが、エラーなどの出塁なのである。

 そして今日の直史は、ゴロを打たせることが多い。

 ゴロを打たせると、イレギュラーなどでエラーになる可能性はやや高い。


 強固なはずの三遊間だが、サード近藤がイレギュラーした球を捕球しそこね、慌てて一塁へ送球する。

 それはコースが外れていて、ファーストはランナーアウトではなく、セカンドまでの進塁を防ぐために、ベースから足を離した。

 悪送球のエラーで、ランナーが出る。

 こういうところに、流れがあると言えるのだろうか。


 イレギュラーがあったが、それでも近藤はキャッチした。

 そこから際どいタイミングで投げたのだから、悪送球は責められない。

 ファーストは傷口を深くしないように判断したので、ここは間違ってはいない。

 ノーアウト一塁で七回の表、四番が打席に立つ。

 樋口はマウンドに近付いて、一言。

「もういいか?」

「ああ、だいたい分かった」

 そしてキャッチャーボックスに戻る。




 ノーアウト一塁で、早稲谷のキャプテンが犯したエラー。

 これは流れを変えるきっかけになるはずだ。

 直史は牽制も上手いので、盗塁は狙っていかない。樋口の肩を考えれば当然のことである。


 ここで一番理想的なのは、内野ゴロのダブルプレイ。

 四番に送りバントなどをさせたら、確実に流れは変わるだろう。

 ここは強振。打って一点を取る。

 本当に打てるかどうかは、また別の話であるが。


 いつも通りのセットポジションから、直史はわずかに一塁ランナーを見る。

 足を上げると、普段のクイックよりもタメが長い。

 そこから投げられたストレートは、内角のぎりぎり高めに突き刺さった。

 審判のコールと共に、球速表示は一気に今日最速の152km。

 帝都のベンチでジンがあんぐりと口を開けているのが見えた。


 直史はここまで、コントロール重視のピッチングをしていた。

 そしてある程度肩が暖まって、もう問題ないだろうと判断したのだ。

 出力を上げても、確実にストレートで空振りが取れると。

 慎重すぎるほどに強いエースの復活である。




 ひどい話であった。

 不調のエースを叩こうとしたら、途中から目が醒めたようにベストのピッチングを開始しだす。

 ストレートとチェンジアップ、そしてカーブのコンビネーションで三振を奪う。

 まずはワンナウトだが、そこからが圧巻であった。


 七回のバッター二人は三振。

 八回のバッターも三者三振。

 九回は内野ゴロ二つに、最後はまた三振。

 完全にエースが復活して、そのくせ打線の援護が入らない。

 

 それでも大丈夫なのだ。

 一点あれば、それで大丈夫なのだ。

 なぜならそれが、エースの役割であるからだ。


 なんだかんだ言いながら、この日もまたノーヒットノーラン達成。

 帝都のベンチでは、ジンが「詐欺だ……」と嘆いていたが、別に直史は手を抜いていたわけではない。

 純粋に、試合の中で自分の肉体の調子を確かめていたのだ。

 それに速いストレートを投げないことで、スタミナの消費を少なく出来た。

 なんだかんだ言ってピッチャーが一番疲れるのは、ストレートを投げる時なのだから。


 これにて早稲谷は勝ち点一を得る。

 そして連勝も続き、全勝優勝への道は続く。

 春のリーグ戦、既に全力を出せないことは間違いない。

 それでも勝ってしまうのが、エースのエースたるところであろう。




 そして第五週は試合はなく、第六週は法教との対戦となる。

 以前のシーズンで武史からホームランを打った谷は、今季も好調のようである。

 だがそれでは、樋口としてはまずいのだ。

 自分がいい順位でドラフト指名されるためには、当然いい成績を残しておきたい。

 今季はバッティングも頑張っているが、打率ではその谷と競う関係にある。

 つまり直史に完全に谷を封じてもらえば、大変に助かるというわけだ。


 直史としては、樋口は友人であり、相棒だ。

 大学卒業後には道をたがえることになるが、この四年間で組んだ経験は、なかなか他には代えがたいものであるだろう。

 ワールドカップに続き、WBCも。

 樋口の力によって直史の負担は、はるかに小さなものになったのだ。

 これが下手くそなキャッチャーであると、直史が配球を考えることさえ、自分でやらなければいけなかったのだから。


 それにしても、早稲谷にはいいピッチャーが多すぎる。

 西郷がホームランはともかく、首位打者の部門でも素晴らしい成績を残せたのは、間違いなく佐藤兄弟と対決しなくても良かったからであろう。

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