第180話 才能の形

 直史がリーグ戦に出てこない。

 それはほとんどの大学にとってはありがたいことなのだ。所属する早稲谷も含めて。

 言うなればそのレベルの格差は、プロ注目の競合必至高校球児が、シニアの大会に混じるようなもの。あるいはそれ以上。

 早稲谷にとっても直史の投げる試合は、とりあえず一点を取れば、あとは守るのを頑張ればいいという空気が出てくる。

 そんなチームが、来年以降も続いていくのだ。


 リーグ戦第三週、対戦相手は立政大学。

 土曜日の第一戦の先発は、佐藤武史。

 第一週はノーヒットノーランを達成し、奪三振22個は歴代三位タイ。

 とは言っても二位と三位の記録を持っているのが、武史自身なのだが。


 東大は野球でのセレクションが一切ないため、どうしてもレベルは他の五大学よりは落ちる。

 だからそこで三振を奪っても、それほど評価はさらない。

「そう思っていた時期が私にもありました……」

 誰がそう呟いたのか、立政の表情は暗いものである。


 八回までで19奪三振。

 武史は三振を奪っていくパワーピッチャーだが、その割には球数が少ない。

 つまるところバッターが当てることさえ難しいので、ゾーン内で簡単にストライクを取っていくのだ。

 そしてスライダーを実戦で使っていく。

 カットボールとの違いには、頭を悩ましたものである。

 実際にプロでも、カットとスライダーの差は変化量の差だけという者もいるし、いやカットはムービング系のうちという人もいるし、スライダーを小スラと大スラに分けて考える人間もいる。


 武史の場合は、とにかく横に大きくスライドするボールがほしかった。

 頭の中に、既に理想のボールはあったのだ。

 甲子園の舞台で、真田が使っていた高速スライダー。

 あれは生来の肉体的な資質がないと、投げられないものである。

 だが武史も水泳をしていた関係上、体はかなり柔らかい。

 とは言っても真田ほどの、キレと変化はどうしても手に入らない。

 あれがなければ、プロに行っても大介に打たれるだけだと思う。


 スライダーの試し投げ。

 ランナーが出てしまうと樋口からは禁止令が出てしまうのだが、終盤になるとランナーがいる状態でもサインが出てくるようになった。

 これは自分への信頼が高まったのかと考える武史であるが、樋口としては単純に、コンビーネーションに組み入れただけである。

 結果、九回まででフォアボールが四つの21奪三振。

 ストレートとナックルカーブ、チェンジアップ以外でも空振りが取れるようになった。

 これは武史にとって、大きな出来事である。




 翌日の日曜日の第二戦は、随分と面白い継投が見られた。

 先発の星が三イニングを投げて、続いて村上が三イニングを投げて、最後に淳が三イニングを投げるという。

 アンダースロー、左の本格派、左のアンダースローという、おそらく世界でもここでしか見られないパターンである。

 星が三回に一点を失ったものの、この短い継投はハマった。

 ただ星と村上は今年で卒業なので、来年は佐藤兄弟の次男と三男で回していくことになる。

(ずいぶん弱くなるな)

 樋口はそう考えているが、あの二人だけでもピッチャーは充分すぎる。

 上手く休ませて投げさせれば、普通にそれなりに勝てるだろう。


 樋口が弱くなるなと考えるのは、キャッチャーがいなくなるからだ。

 今の控えの小柳川も、樋口と同じ四年生。

 三年生以下では、キャッチングは出来るがリードが未熟か、キャッチングが下手なのでリードの幅が狭いかのどちらかだけ。

 別に鍛えてやれと言われれば鍛えるのだが、言われなければ何もしないのが樋口である。

 とりあえず春のリーグ戦と、その後の全日本では、バッティングでも成績を残していくつもりである。

 現在は五番を打っているが、そのバッティングスタイルからすれば、三番あたりを打っていてもおかしくない。

 だがチャンスの時だけを狙って的確に打ちたいので、チャンスを作りだし、拡大する三番には、今はあまり適応しない。


 チャンスの時にだけ打つ男。

 とりあえず樋口は、そのキャッチコピーでいこうかと考えている次第である。

 ちなみに土曜日は三打数一安打で一打点、日曜日は三打数二安打で三打点と、とてつもなく効率のいい点の取り方をしていた。

 読みで打つ樋口は、どうしても打たれたくないとバッテリーが思っている時ほど、逆に打てるものなのだ。

 春のリーグ戦では、とりあえず首位打者を狙う、危険なバッターがやる気になっている。




 第四週は日曜日が、直史が登板できる日程となっていた。

 だが実際に使うかどうかは、辺見の采配次第である。

 週に二度ほど練習に顔を出し、調整だけをして帰っていく。

 いくら実力が隔絶していると言っても、あまりにも待遇に差がありすぎる。


 強ければ何をしてもいいのか?

 いいのだ、と答えるわけにはいかない辺見である。

 ただ対戦するのは帝都大学。

 おそらく現在は、早稲谷に続いて実力のあるチームである。


 帝都大学にももちろん、プロ注の選手はいる。

 エースやクリーンナップは、むしろ三年生以下で構成されていたりする。

 これを再拝するのが、最高学年になったジンである。

 キャッチャーとしては控えになるが、それは打撃力の不足ゆえ。

 打撃力が必要のない試合であれば、マスクを被ることもある。

 ただその本質は、もはや指揮官に近い。


 より広い範囲を掌握すべく、高所から俯瞰して眺める。

 この史上最強のチームに、どこか弱点はないか。

 どれだけ強いチームであっても、全く弱点がないはずはない。

 だがピッチャーは言わずもがな。鍛えられた帝都の打線でも、一点を取れるかどうか。

 相手の打線は一番から五番まで、三割台後半のマシンガン打線。


 だがこんな相手であっても、弱点はある。

 そしてなければ作るまでだ。


 樋口がリードしていると、おおよそのピッチャーは実力が二割ほど増す。

 ジンも意表を突くリードをすることはあるが、樋口は下手にピッチャーを鼓舞しようなどとは考えず、冷徹に組み立てを考える。

 このバッテリーを崩すことは出来ないだろうか。

 樋口の実績と言えば、甲子園優勝捕手、WBC選出の捕手。

 直史のオマケと言われることもあるが、打撃力が高いのは間違いない。

 目の前で逆転サヨナラホームランを打たれたことを、ジンは絶対に忘れない。


 樋口は冷徹なだけでなく、ピッチャーの能力に胡坐をかくこともなく、とにかく計算と非合理な組み合わせで、最高の結果を出してくる。

 大胆なリードの裏側には、必ず彼なりの裏付けがある。

 もっともそれがなくても、早稲谷には強力なピッチャーが揃っている。

 ちなみにジンは直史に、試合に出るのかと普通に訊いてみた。

 出るかどうかはともかく、日曜日には体が空くと、普通に教えてくれた。

 別に舐めているわけでもなく、どうでもいいと思っているのだろう。


 直史をちゃんと活かせるかどうか。

 そう、つまり監督の采配を、どうにか上回ることができないか。

 もちろん常識と言うか、グレーな範囲内の活動で。

 ブラックでさえなければそれでいい。




 辺見の指揮官としての能力は、過去を見れば低いわけではないはずだ。

 だが直史と、それに武史が関わる時は、明らかに処理能力が落ちる。

 バグめいた味方の力に、むしろ判断力を削られるのだ。


 ただそれが、具体的にどこで起こるか。

 それを考えないことには、仕掛けもそう出来ない。

 以前に帝都と戦って負けた時は、直史を降ろすのが早すぎた。

 一年だった直史に、あまり負荷をかけすぎないようにしようとでも思ったのだろうが、典型的な継投失敗である。


 そしてジンは直史と、普通に連絡を取っている。

 直史があまり練習が出来ていないというのは、本当のことだろう。

 なにしろ勉強も野球もぎりぎりで両立する直史が、試験に落ちたのだ。

 ならば勉強の方に、その比重をかけるのは当然のことだ。


 三年間で既に四年分の単位を取っている。

 あれだけのピッチングが出来るほどにピッチャーとして成長していながら、どうしてそんなことが出来るのか。

 いやまあ、ジンも単位は早めに取ってしまっているが。

 教員免許を取るための教育実習は、なんとか終えることが出来た。

 ただそちらをおろそかにするわけにはいかないので、この春が最後かもしれないと考えても、全力を注ぐことは出来なかった。

 高校野球に今後も関わっていく。

 そう考えるジンは、帝都のチームの中でも、かなり異色の存在だ。




 土曜日の試合は、武史が先発として出てきていた。

 早稲谷にとっても一番のライバルは、帝都だと考えているのだ。

 去年は慶応も竹中の守備の統率があって強かったが、今年はそれよりは戦力を落としている。

 まあハズレとはいえドラフト一位指名のキャッチャーがいなくなれば、戦力が落ちるのは当たり前のことである。


 高校時代の後輩であるから、当然よく知っている武史であるが、よくもまあここまで化け物になったものだ。

 ストレートのMAXが166kmなどというのは、人類全体でくくっても、トップ10に入るほどのものである。

 ムービングファストボールで凡打の連続。

 そこにナックルカーブと、高速チェンジアップがあったわけである。

 加えられたのは、まあ普通のスライダー。

 だが武史が普通レベルのスライダーを身につければ、難易度は一気に高くなる。


 勝ち点を得るためには、二試合に勝たないといけない。

 より化け物になった武史と、ちょっと落ちたぐらいでは何も化け物具合の変わらない直史。

 どちらかに勝たなければ、勝ち点を得られない。

 辺見監督はどうも、最終学年の村上と星に、多くのイニングを投げさせようとしている。

 そこに早稲谷の弱点と言うか、甘さが存在するのではなかろうか。


 リーグ戦の実戦を経験させなければ、分からないということはある。

 来年も武史がいるので、土日のどちらかを勝つことは出来るだろう。

 だがもう一勝を確実に拾うには、淳ではまだ力不足なのではないか。




 事前に色々と作戦は考えていたものの、その全てを台無しにするかのごとく、武史は剛速球を投げてくる。

 これにスライダーが混ざると、これまでとはまた違ったタイプのピッチャーになると考えられる。

 大学野球でもクリーンナップともなれば、基本的にはアッパースイングで、掬い上げるように打球を飛ばす。

 だが武史がムービング系のボールを使わず、スライダーとチェンジアップの組み合わせをすれば、まともに打つことは難しい。


 まだ未熟な覚えたてのスライダーだろうに、樋口のリードで上手いところに投げてくる。

 その効果の高さは、ベンチの中のジンを舌打ちさせるものだ。

 待球策を取ってはいるが、せっかくのスライダーも、あまりボールに逃げていくようには使わない。

 樋口は帝都の作戦を見抜いているのは明らかだ。

 ジンだって逆の立場であれば、そこそこあっさりと見抜いているだろう。


 打てないピッチャーには出来るだけ早々にご退場していただいて、打てるピッチャーに出てきてもらう。

 だがそれなりに球数は嵩むのに、辺見はピッチャー交代を告げない。

 確かに高校時代の計測でも、150球までなら球威が落ちないのが武史であった。

 大学に入って、体の厚みは増している。

 スタミナもそれに合わせて、増加していっているのだろうか。


 極端に身も蓋もなく言ってしまえば、選手層が違うのだ。

 樋口という最高級のキャッチャーに、ピッチャーはドラフト一位レベルが複数。

 それも完投能力のあるタイプである。

 打撃に関しても勝負強い樋口のほかに、早大付属の四天王。

 高卒時点でもプロからの誘いがあった選手が、その上位打線に名前を連ねているのだ。


(これで明日ナオが出てきた場合、どうやって対処すりゃいいんだか)

 ジンは頭を悩ませる。辺見が最後まで武史を投げさせたのは、ちょっと予想とは違った。

 150球近くを投げたのに、最後まで球威が落ちなかった。

 序盤の立ち上がりの悪さを、スライダーで誤魔化したところも、成長ポイントであろう。

 このまま戦っても、純粋に戦力が足りない。

(俺らが春夏に国体と神宮まで制覇してた時、他のチームはこんな感じだったのかな)

 圧倒的な強者早稲谷。

 直史が入学後、リーグ戦で優勝出来なかったのはただ一度のみ。

 全勝優勝を何度も繰り返し、まさに六大学史上に残る金字塔を立てた。


 直史の成したパーフェクトゲームの数。

 そもそもそんなものは、超高校級のピッチャーなどでも、なかなか達成することは出来ないのだ。

 それを複数回、当たり前のように達成してしまう。

 確かに悪夢のような存在だな、と今さら再確認するジンである。


 最終的にはヒット一本のフォアボール四つで、武史は完封した。

 三振は19個で、これまた大量ではあるが、武史としては珍しいことではない。

 ボール球を振らせることも出来るスライダーを、実戦で精度を増すために使っている。

 甘く見られているのか、いや、そもそもレベルが違いすぎるのか。

(タケも打てなかったし、次はナオなんだよなあ)

 ベンチの中で、溜め息をつくジンである。


 全体的に、とにかく圧倒的に強い。

 これに勝つには、直史に早めにマウンドを降りてもらうしかない。

 辺見はどうやら、他の四年生ピッチャーも使いたいようなのだ。

 ならばそこそこの点差で終盤にもつれこめば、ピッチャーを交代させる可能性はある。

 直史はたとえ電池が切れても、それはそれでどうにかしてしまう、ピッチングマシーンなのだが。


 明日もまた待球策。

 チームの作戦立案をする立場であるが、今のチーム力の差から考えると、他にどうしようもない。

 勝つためには、ある程度以上の運が必要だ。


 運。運か。

 運に頼ってしまえば、作戦立案者としては、失格以外の何者でもないだろう。

 雨でも降ってくれれば、まだ可能性はある。

 だが降水確率は低い。降っても湿る程度で、そのぐらいならむしろ、直史はボールに指がかかりやすくていいだろう。

 辺見の継投のタイミングを見極め、そこで一気に攻撃する。

(軍師ってこんな感じで考えてたのかな)

 まさに軍師役のジンは、大学生活最後の一年をまだ野球にささげ続けるのだ。

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