第179話 ラストイヤー
直史の最後の一年が始まる。
しかし彼は同時に、自分が身に着けてきた技術が、劣化していくのも感じている。
一度学んだことを、人間の肉体は忘れないように出来ている。たとえば自転車の運転などがそうだ。
だがそれにも限界があって、たとえばバレリーナなどは、一日休めば取り戻すのに三日はかかる、などとも言われたりする。
磨き続けなければいけない能力と、身に着ければ劣化しない能力。
ピッチングには両方の要素があるだろう。
直史はある程度、自分の健康を保つために、ストレッチや運動などはしている。
だが体質的には、筋肉は落ちやすいのだ。
ただでさえ無理に筋肉をつけることなく、全身の連動でピッチングを行っていた直史であるが、彼は器用である。
衰える筋肉に無理をさせず、ボールを投げることは出来る。
今のところはまだ、さほどの影響は出ていない。
だが直史は司法試験合格の確率を上げるために、金銭的な余裕が出来たことから、司法試験予備校なども利用している。
大学のサークルなどにも入っているため、さすがに時間がなくなってくる。
法学部で必要単位を得た直史と瑞希は、法科大学院の二年コースで単位を取り、司法試験の受験資格を得る。
そしてさらに、実際に司法試験に合格する必要がある。
このためにひつような勉強時間を、どうにか絞りだしているのが直史の現状である。
金があれば、良い教育が受けられる。
間違いなくこれは、世界の真実の一つである。
直史の東京六大学リーグにおける成績は、22勝0敗である。
敗北した試合は、全てリリーフが打たれたものだ。
つまり監督の采配の失敗である。
なお自身がリリーフした試合では、一度も敗北したことがない。
過去を見れば四年間のリーグにおいて、もっと多くの勝ち星を得た者もいる。
だが先発でこれだけの試合に登板しながら、無敗で通したものは一人もいない。
大学四年間で、防御率0というピッチャーは、おそらく今後も現れないだろう。
直史としても、さすがに運が良かったな、とは思っているのだが。
春のリーグ戦、最初の相手はまたも東大である。
前のリーグ戦の成績を参考にしているので、当たり前のことではあるのだが。
土曜日の先発に、辺見は星を持ってきた。
チーム内の驚きはさほどでもない。星の練習への真摯さは、多くの人間が認めている。
合理的な練習を好むが、それでもやりすぎるなと止められる。
それが星という選手に、人望が集まる所以である。
アンダースローとしての安定感は、かなりのものである。
同じアンダースローでも淳は、かなり球威でも押していくタイプだ。
星のアンダースローは、タイミングを外していくタイプ。
速いボールと遅いボールの組み合わせではなく、遅いボールと超遅いボールの組み合わせである。
70kmほどしか出ない、超スローのカーブを使う。
そして普通のストレートは、アンダースローだけにリリースの位置から、妙な軌道を描いてミットに収まる。
バッターとしても見極めは難しいだろう。
最初は遅いくせに、浮かび上がるようなボール。
だがそこから曲線を描いて、やっぱり沈んでいく。
ただ全く打てないというほどではなく、特にゴロを打つのは難しくない。
しかし鍛えられた早稲谷の内野相手では、そうそう外野までに抜かれることもない。
ヒットを打たれて進塁打でランナーを進めて、あと一歩得点に届かない。
そんな東大のもどかしさとは別に、早稲谷は得点を重ねていく。
今年の早稲谷の四年生には、プロから注目されている選手が何人もいる。
もちろん実際に指名されるかどうかは別だが、プロ注の選手が多くいるというだけで、そのチームの強さは分かるであろう。
近藤、土方、沖田、山口の早大付属カルテット。
そしてキャッチャーの樋口に、ピッチャーでは村上。
五番を打っている理智弁和歌山の畠山も、かなりの注目を浴びている。
おそらく選手層が、数十年なかったほどに分厚い。
ドラフト下位の隠し玉として指名されそうな選手もいて、また社会人野球へ進もうと考えている者もいる。
だがその全員が、プロに進むとは限らない。
社会人が基本的には受け皿になるが、野球から離れる者もいるだろう。
本来ならばスタメンには選ばれる程度の力はあった選手が、強力すぎるスタメンのために、リーグ戦ではなかなか出番がないのだ。
そもそも近藤と土方は、高卒の時点でプロ志望届さえ出していれば、どこかで指名されるであろうことは間違いなかったのだ。
それは沖田にも同じことが言える。
樋口や村上もそうだ。だが樋口は元はプロに行く気はなく、村上もまだそこまでの自信がなかった。
彼の場合は同じ学年に、直史がいたことが不幸であるのか、幸福であるのか。
とりあえず150kmが出るサウスポーは、絶対にどこからかは指名されるであろう。
九回を投げぬいた星は、失点を一点にとどめた。
とにかく彼のピッチングに言えるのは、粘り強さである。
カウントが悪くなっても、安易にストライクを取りにいかない樋口のリードに、しっかりと応えてくれる。
それにコントロールがいいのが、樋口としてはリードしやすい。
樋口はこのリーグ戦が始まる前、辺見に問われたことがある。
今の四年生の中から、プロで通用すると思えるピッチャーは誰か。
樋口は日本代表で、NPBの名だたるピッチャーの球を受けている。
その樋口の目から見て、プロの基準に達するであろうピッチャーだ。
「プロで通用となれば、村上ぐらいでしょう」
樋口の言葉ははっきりとしている。
「それも一試合なら、ということでシーズン通して戦えるかどうかは分かりませんね」
味方であるにもかかわらず、かなり評価は厳しい。
村上だけか、という辺見の視線を受けて、樋口はなんとなく言いたいことが分かる。
「星は通用しても一年か二年ですよ」
これはプロの分析力を、最大限低く見たものである。
今日の試合で星は、そこそこ打たれはしたものの、コントロールを乱すフォアボールは投げなかった。
それに実際、通用する可能性もあるにはある。
「いいキャッチャーがいたら、活かせるかもしれませんけどね。けれど球団の編成がそんなことを許さないと思いますよ」
スカウトというのは、単純にそのスカウトの提出した選手が、そのまま指名されるわけではない。
まずはだいたいが上に編成部があり、そこで来季の獲得戦力について話がされる。
こちらにはドラフトだけではなく、FAやトレード、外国人選手の動向についても話される。
そしておおまかな指針を得た後、スカウトの優先順位を決める。
中にはその計算をぶっ壊す、上杉や大介のような選手もいるのだが。
西郷レベルの強打者であっても、ピッチャーを優先して獲得していった球団はいたのだ。
今年のドラフトには、そこまでバランスブレーカーの選手はいない。
もしも直史がプロを志望していたら、その可能性は非常に高かっただろうが。
村上などの場合は、サウスポーでそこまで球速が出るのだから、この最後の一年の中でも、春のリーグ戦などの結果によっては、一位指名もありうる。
樋口としては、確かに実力は認める。
だが実力の中でも、必要な要素が抜けていたら続かないのがプロである。
日曜日の東大との第二戦、投げるのは武史である。
プロのスカウトの目を意識するなら、村上に投げさせても良かった。
ただ問題なのは、武史にはリリーフ適性があまりないということである。
村上が投げて炎上した場合、それを止められるのは直史ぐらいか。
淳も奪三振がそこまで多くはないタイプなので、流れを強制的に変える力はない。
先発でもリリーフでも安定して投げられる直史は、やはり貴重なピッチャーなのである。
同じ左で、そしてだいたい同じ本格派。
村上の大学野球での野球生活は、コンプレックスとの戦いだったと言ってもいい。
同学年に直史がいたが、直史は変化球投手。
左ではなく右利きということもあって、どうにか己のポジションを失わずにいた。
しかし一つ下に入ってきたのが、直史の弟の武史。
高校時代から既に160kmを出してきたその怪物は、先発で投げて軽く完投し、ノーヒットノーランまで達成する。
まさに村上の上位互換だったのだ。
ただし今年のドラフトは、本命不在とも言われる。
村上の進路についても、関心を持っているプロ球団は複数あるという。
例年であれば確かに、上位指名は間違いない。
だが今年は突出した選手としては、高校で一人いるぐらいであろうか。
来年の目玉になりそうなのは、やはり武史である。
ただ本人はもう明白に、レックス以外はお断り、と宣言してしまっている。
辺見にはスカウトだけではなくマスコミからもガンガンと問い合わせが来ているのであるが、志望球団もそれに外れた場合のことも、全く辺見には相談していない。
辺見は千葉のOBであり、その筋から色々とスカウトも働きかけてくるのだが、監督の言うことなど全く聞かないのは、白富東系列の仕様であるのか。
もっともその中でも、佐藤兄弟の上の二人に、その傾向は強いだけである。
武史はチーム意識がないわけではないのだが、どこか独立している。
孤立はしないし、孤高でもないが、あまり野球人っぽくはないのだ。
ただそれは白富東や、辺見の最近のお気に入りである星も、同じ傾向がある。
彼らに共通しているのは、監督を指揮官としては認めているが、指導者としては重要視していないこと。
この傾向はメジャーや、あるいは日本においても、他のスポーツではあることなのだ。
監督と選手は立場と役割が違うだけで、そこに優先順位はあっても上下はない。
おそらく言葉にするとしたら、そんなところである。
辺見が適切な指示をすれば、それはちゃんと従う。
ただ監督という立場から高圧的に言っても、全く効果はないのだ。
星の場合は言うよりもさらにやってしまうので、命令してでも止めなければいけないのだが。
この日の武史のピッチングは、満点と言ってもいいものであったろう。
他のピッチャーでも勝てる東大を相手に、なぜ辺見は武史を使うのか。
それは大学野球に残る記録を持つ選手を、自分で作り上げたいという欲望があるのだ。
無失点、無安打、防御率などの記録は、直史を抜くことは出来ないだろう。
だが直史よりも明らかに優れている資質は、奪三振能力。
一試合に20個近い三振を平均的に奪っている武史は、このままでいくなら奪三振の記録を大幅に更新する。
今年まではともかく来年には、早稲谷のチーム力はかなり落ちる。
すると武史は土曜日に投げて、さすがに連投はさせないとしても、また月曜日には投げてもらうことになるだろう。
二年の春、119個の三振を奪って、武史はシーズンの奪三振記録を大幅に更新した。
あまり使わなかった一年の春を除けば、他のシーズンは80個以上の三振を奪っている。
この調子でいくならば、四年間の通算奪三振記録を、大幅に更新するだろう。
リリーフとしても働いていた直史は、そこまでの三振は奪えていない。
仕方のないことではあるが、武史はこれまで、ベスト9に選ばれたことがない。
ずっと直史がいたからだ。
だが成績を見れば、六大学野球史上では屈指。
正確に言えば直史を除けば、トップと言ってもいい成績である。
この試合も東大相手に無双。
エラーで一人のランナーが出た時は、さすがに少し天を仰いだ。
だがそれ以外は完璧に近い内容で、ノーヒットノーランに22奪三振。
残念だが直史の持っている、一試合24奪三振には、どうしても及ばない。
武史はもう、八分ぐらいの力で投げて、95%ほどの出力が出せるようになっている。
それぐらいの気持ちで投げていかないと、さすがに消耗するのだ。
樋口としても武史を、ここで消耗させるつもりはない。
幸いと言うべきか武史は、高校時代に白富東の、分厚すぎる投手陣の一角であった。
そのためにあまり、勤続疲労は溜まっていない。
大学に入ってからも、直史がいてくれた。
直史は武史以上に、省エネ投法に優れたピッチャーだ。
なのでピッチャーに多少の無理をさせるときは、まず直史が投げる。
そして完封してしまうので、武史の出番はないのである。
樋口が心配するのは、自分や直史がいなくなった後、武史が使いつぶされないかということ。
大学野球の監督は、高校野球にくらべればずっと、その成果を求められるものではない。
それなのに目の前の栄光に目がくらみ、選手を潰してしまう監督の多いこと。
幸いと言うべきか、辺見にその傾向はない。
選手を大切にするというよりは、壊れた時の非難を恐れていると言えよう。
だがそれで直史を温存して、負けた試合があったりしたのだが。
佐藤兄弟の長男も次男も、自分が壊れてまで投げようという気持ちは、さらさらない。
心配するとしたら、チームの投手陣が弱くなる、三男であろうか。
ただ淳も幸いにも、これまで投手陣が厚いため、酷使されるということはなかった。
佐藤三兄弟に共通しているのは、チームメイトに他にも強力なピッチャーがいたということ。
そのためこれまで、酷使による疲労の蓄積がないことだろう。
春のリーグ戦が始まり、まずは順当に勝ち点一を上げる。
このリーグ戦で樋口は、珍しくもバッティングの方も頑張るつもりである。
キャッチャーの一位指名というのは、なかなかあるものではない。
だが樋口の運動能力なら、他のポジションも出来なくはないのだ。
外れ一位指名あたりを目指して、最後のシーズンを戦う。
逆指名制度があったらな、とふと思う樋口である。
出来れば在京球団、特にタイタンズ、レックス、スターズあたりに決まってほしい。
既に捨ててしまったものはある。だからこそその対価に求めるのは、大きなものとなる。
いっそ球団縛りをして、それ以外なら社会人としてもいいのではないか。
そんな樋口の、ドラフトに影響を与える、最後のリーグ戦が始まったのである。
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