第178話 練習の対価
直史が練習にやってこない。
冬の一番寒い時期が過ぎて、もう三月になるのに。
正確には時々はやってくるのだが、ほとんどやってこない。
それはある意味、野球部においては平穏を意味した。
いまだに直史の進路をプロだと思いたがっているマスコミもいるが、辺見はそういった者には冷淡である。
直史がプロ志望ではないと、辺見も本人も、何度も言っている。
だが、見たい者しか見ない人間というのは、確実にいるのだ。
それが一般人ならまだいいのだが、マスコミでもそういった者はいる。
自分が書いたことが、事実になる。
ペンの力を勘違いしている愚か者は、今日も直史の姿を探す。
一般の見物客は、随分と減ったものだ。
それでも直史の入部以前に比べれば、まだまだ多いのだが。
西郷が引退し、直史が練習に顔を出すことが減り、明らかに注目度は下がった。
だがそれ以外にも、まだまだプロのスカウトの注目株は多い。
この冬の間のトレーニングで、村上は安定して150kmが投げられるようになった。サウスポーの150kmは、充分にドラフトの候補になりうる。
ただこれまで直史と武史がいたため、大学生活全体では、それほど突出した数字にはならなかったが。
そしてまた一人、練習試合で投げている星は、ヒットを打たれても点を取られない、連打を浴びないピッチングをしている。もちろんこれは樋口のリードもいいのだが。
そして佐藤兄弟の次男と三男がいる。
甲子園優勝投手と、準優勝投手である。
肩書などに意味はないが、二人にはそれに伴う実力がある。
武史の球速のMAXは166kmで、もちろんこれだけでも充分にすごい。
国内ではプロを含めても、上杉に次ぐ二番目の球速。しかもそれがサウスポーなのである。欲しい球団はいくらでもあるだろう。
だが、ここしばらくその球速の、上限は上がっていない。
もちろん意図的に、球速以外の部分を鍛えている。
特に必要なのは、変化球なのだ。
まだ四月でも三年生の武史には、成長の余地がいくらでも残っている。
球速というのは、分かりやすいすごさである。
だが武史のストレートというのは、単に速度があるわけではない。
しなるような左腕は、大きく後ろに回すことが出来る。
そしてその距離で加速して、キャッチャーのミットに投げこむのだ。
直史も質のいいストレートを投げられるが、ストレートだけを見れば武史には及ばない。
だが実戦においてはコンビネーションの中で、ストレートを使うのだ。
だから体感としては、むしろ武史のストレートよりも速く感じたりする。
90kmのスローカーブの後に投げれば、150kmのストレートが160kmにも170kmにも感じるだろう。
そんな直史のピッチングに、武史は近づこうとしている。
ムービング系の変化球の他に、チェンジアップとナックルカーブ。
これが武史の持っている手札である。
そしてここから、さらに一つの球種を加えるというのは、ずっとしてきたことだ。
ナックルカーブに意外とスピードがあるため、遅くても大きな変化するボールを求めてきた。
ただ武史の肩や肘は、基本的にストレート以外を投げるのには向いていない。
下手に試させると、故障の危険性すらある。
このシーズンオフは試行錯誤の期間であったと言っていい。
本当ならば純粋に、ストレートの強度をもっと高めてもよかったのだ。
球種としてはムービングに、チェンジアップとナックルカーブが使えれば充分。
それでもコンビネーションの幅を考えると、やはり変化球の種類を増やしたい。
そして結局、武史が使える程度にまで磨いたのは、スライダーであった。
考えてみれば武史の変化球は、横の変化が少ない。
ナックルカーブも斜めに入るが、それとはまた違った軌道がほしかった。
シュートかスライダーか、選択肢はどちらに曲げるかということである。
そして結果的には、横への変化量の多い、スライダーを選んだというわけだ。
シュートを投げようとしても、ツーシーム程度にしか変化しないと分かったので。
もう一方の淳である。
時々フォームをサイドスローに変えたり、オーバースローで投げたりと、小細工も使うようにはしている。
だがやはり、基本的にアンダースローから何を投げるかが問題なのだ。
柔らかい体からは、流れるようなフォームでボールが投じられる。
それはまさに、アンダースローというフォームの見本であるとさえ言えるだろう。
アンダースローから、スライダーを意識したような変化で投げる球。
ライズボールをストレート的に使っている。
ただ淳の場合は球速や球種ではなく、フォームの改造でリリースを見えにくくしたり、タイミングを取りにくくしている。
より低い位置からリリースする。
そのためには、下半身の強化が必須である。
腕をしならせるように投げて、球速は140kmにも届かないぐらい。
だがそれでも、打たれないこと、点を取られないことが、いいピッチャーの条件である。
それにアンダースローで140km弱というのは、かなり速い。
私立には長い、入試機関がある。
だがその間には授業こそなくても、野球部の練習はある。
そして合格した中から、早々に練習に参加してくる者がいる。
四月に入ればすぐに、春のリーグ戦である。
直史は最初の土日には、出られないと連絡がきている。
辺見は考えるのだ。
どうしてプロの、いやプロという括りで考えなくても、その技術の研鑽を必要とする場所に行かない人間に、あれだけの才能が与えられてしまったのか。
直史のやっている練習とトレーニングは、確かに常人の出来るものではない。
だがそういったことまで出来ることをも含めて、才能と言うのではないだろうか。
直史のやっていることが、努力だとする。
同じように努力をしても、おそらくそのピッチャーは途中で壊れる。
だからあれは、間違いなく才能なのだ。
そう思っている辺見は知らない。
直史は食事の内容、睡眠時間、ストレッチに柔軟と、グラウンドの外でこそ、体調を整える行為を行っている。
それを見ればあるいは、認識も変わるのかもしれない。
この日の練習試合には、星が先発している。
同じアンダースローでも、明らかに淳とは資質の違いを感じる。
球速も変化球も、比べ物にならない。
甲子園で決勝まで残ったピッチャーとは、やはり違うのだ。
野球をプレイヤーとして行うのは大学まで。
教員免許を取る準備をしており、卒業後は母校の野球部の監督なり、あるいはどこかの学校の監督なり部長なり、ずっと野球と関わり続けていきたいとは考えている。
星は体が柔らかく、咄嗟の判断力などは高い。
だが身体能力の限界というものがはっきりとしている。
身長も結局、男性の平均までしか伸びなかった。
筋肉はつけたがアンダースローは、筋肉で投げるピッチングではない。
実力は、リーグ戦でもかなり通用する程度のことはある。
だが体格などから考えても、年齢から考えても、おそらく伸びしろはない。
辺見としてはプレイヤーとしてもう少し続けるつもりがあるなら、どこかの社会人野球に話をしてみるぐらいのつもりはあった。
星は白富東閥だが、もくもくと練習するその姿は、辺見の好みでもあったのだ。
だが星自身が、それは望んでいない。
才能がないからこそ、指導者になれる。
天才が案外、人に教えることが苦手なのと対称である。
星はそれに、元は内野が専門なので、フィールディングが抜群に上手い。
純粋に捕球も上手いし、送球の選択も優れているのだ。
それが結果的には、ダブルプレイなどで失点を少なくし、防御率を見れば優秀なピッチャーとなっている。
もしかして、とこれを見ていた誰かが思った。
本来の目的は、別の選手であったのだが。
星のピッチングは、淡々としたものだ。
ピンチになっても全く変わらず、おそらくはキャッチャーのリード通りに投げている。
そう考えると樋口の非凡さも分かる。
直史や武史のような傑出したピッチャーを、充分に活かすことは出来ている。
だがそこまでの能力はないピッチャーでも、使い方次第で相手打線を封じられる。
戦局が見えているのだ。
味方がリードしているか、敵がリードしているか。
敵の保有する戦力と、味方の保有する戦力。
投手の運用、特に継投が可能かどうか。
味方のリードが多ければ、失点を覚悟の上でもリードしていく。
たとえ点を取られても、最終的に試合に勝つために、その失点を撒き餌にしておく。
間違いなく、六大学の中では最高のキャッチャーだ。
おそらくは日本全国の大学野球で見ても、一人か二人しかいないレベルの。
それに変化球投手も速球投手も、そのキャリアの中で充分に慣れている。
今のうちのチームに、一番必要なピースだ。
能力、経験、実績。
そしてキャッチャーにはさほど必要とされないと言われているが、バッティングの能力。
キャッチャーのリードはピッチャーを活かすためには、絶対に必要なものだと思っている。
だが首脳陣は目先の得点に目がくらんで、キャッチャーのバッティング力を重視している。
つまり、バッティングにも優れているという、贅沢な能力を持っているキャッチャーが必要なのだ。
樋口の野球歴を見る中で、まず最初に出てくるのが、上杉自身がスカウトして、同じ学校に入れたということ。
そして高二の夏には甲子園の決勝で、逆転サヨナラホームランを打っているということ。
大舞台の大事な打席では、いつも打っているようなイメージ。
得点圏打率ではなく、点が本当に欲しい時に打つ。
この試合でも序盤の得点を、バットで叩き出している。
おかげで星をリードする幅は広がったはずだ。
試合の終わった後、グラウンド内を自らの目で確認する。
そんな辺見に、鉄也は語りかけた。
「今年もまた、好調みたいですね」
「ええ、まあね。今の時期はキャンプに帯同しているのでは?」
「まあ本当ならそうなんですが、今年は担当の新人がいなくて。二軍を見てからもう、こっちに来たわけなんですよ」
スカウトの仕事というのは、もちろん選手の発掘と、それを獲得することである。
だがチーム事情によって、欲しい選手というのは違う。
また取りたい選手がいたとしても、ほんの少し前の順位で、取られてしまうことはある。
鉄也は今年、もちろんラインナップしていた選手はそれなりにいたが、全てがその先に指名される、という状態であまり縁がなかった。
新入団の選手のサポートも、かなりスカウトの仕事の一つではある。
特に練習メニューなどよりは、生活面において、色々と相談に乗ることも多い。
寮長などはいるが、その選手のことを一番よく分かっているのは、担当したスカウトである。
もちろんプロの世界に入れば、いつまでも紐付きでいるわけにもいかない。
だがキャンプが終わるごろぐらいまでは、やはりある程度目をかけていたい。
それでいて高校も大学も練習試合などは始まるため、あちこちを移動する必要がある。
暇などない鉄也であるのだが、それでも気になるので声はかけた。
「今日の先発の星君、進路は決まってるんですか?」
そう問われたことに対して、辺見は少し驚いたような顔をする。
プロのスカウトが話題にするというのは、そういうことだ。
「高校が千葉県だから、前から知っていたことは知っていたんですけどね」
高校時代は内野で、ピッチャーを兼任していた。
大学になると打力が低すぎるため、守備要員として使うぐらいしか出来ない。
だがアンダースローであると、なんだかんだそれなりに通用している。
辺見としては、星はやたらと練習をする、おとなしい選手である。
ただ樋口の評価はかなり高い。
単に球が速いだけのピッチャーよりは、よほど使い勝手がいいのだ。
「本人としてはプロなど、全く考えていないでしょうな。それに指名するとしても、育成になるのでは? おたくは育成は最近取ってないでしょう」
「まあそうなんですがね」
そう、レックスは育成枠で選手を取ることはあまりない。
「まあ忘れてください。ただ最終学年の成績によっては、もしもということはありますけどね」
そう言われても、辺見には星をリーグ戦などで、使うつもりはない。
タイプとしてもリリーフで投げるタイプではなく、先発で粘り強く投げていくタイプだ。
しかしそれを、プロのスカウトが目にかけるのか。
確かに今日の投球内容は、相手のレベルを考えても、かなりいいものであったが。
スカウトというのは少しでも気になった選手については、多くを知りたがるものだ。
それにレックスの大田鉄也と言えば、敏腕スカウトとして知られている。
だが、今の早稲谷の投手陣を見てみれば、星が公式戦で投げる機会は少ないだろうと思われる。
直史が投げられない試合が増えたと言っても、四年の村上はサウスポーとして一定の評価を得ている。
そして三年には武史、二年には淳がいて、ピッチャーは他にもいるのだ。
星の身体能力は高くない。
それにプロでやっていくほどの、体の強さというのもないだろう。
たとえ指名されて入団したとしても、おそらくは二軍でも通用しない。
だがわざわざ自分に声をかけるほど、見どころがあると思ったのか。
辺見はあくまでも大学の野球部の監督であって、教育者ではない。
だが大学の野球部において彼は、色々と学ぶことがあった。
それに星の、少し目を離したらオーバーワークになりそうなところまで練習する姿は、辺見の好みではあるのだ。
(春のリーグか秋のリーグ、使いどころはあるか?)
今の早稲田の打力は、西郷が抜けたといっても、それ以前からメンバーは三年が多かった。
おそらくリーグの中でも、一番の強打打線を誇っている。
(試してみる程度ならかまわないか)
他の適当な選手ならともかく、星ならば他の選手も納得するだろう。
辺見の頭の中で、選手の運用が色々と組み合わさり始めた。
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