第174話 遠ざかるもの

 直史は自分のことを、天才ではないと思っている。

 ただそれでも、物覚えはいいなという程度のことは認めている。

 それは頭脳的なものだけではなく、身体的なものも含めるらしい。

 考えてみれば頭脳も肉体も、司る大元は脳なのである。

 大介だって勉強だけに専念していた時は、それなりの成績を取れていた。

 もちろん脳の部位のどこかが、特に発達しているということはあるだろう。

 だがとりあえず直史は「忘れにくい」という特徴を持っているらしい。


 神宮大会を終えた直史は、もう週に二回程度しか、練習には出てこない。

 だが実際に出てきて、そのピッチングやフィールディングの練習をしてみれば、ちゃんと体が動く。

(なかなか落ちないな)

 直史のボールを受ける樋口は、その輝きが失われないことを喜ぶが、同時に惜しいとも思う。

 辺見などや他の選手からは、羨望の眼差しが大きい。


 冬場は野球においては、基本はシーズンオフである。

 寒い中にやったら、故障しやすいスポーツであるのだ。

 もちろん練習においては、ピッチャーは投げこむし、バッターは打ち込む。

 だが基礎的な身体能力を鍛えるのには、ここが一番の時期である。

 特に高校時代は、対外試合が禁止の期間であったため、基礎能力の向上に使った。

 この時期の地味なトレーニングこそが、春から夏への成長につながると言っていい。


 直史のトレーニングは、現状の技量や肉体を維持している。

 だが野球を今までと同じ程度の時間をかけてやれば、さらなる領域に到達するのではないかとも思うのだ。

 身長の伸びは止まったが、ほぼ180cmはある。

 筋肉の量はもう少し、増やした方がいいぐらいだろう。

 野球選手はだいたい、身長から100を引いたほどの体重は必要だと言われる。

 実際はもう少し重くてもいいぐらいだ。

 直史は下手に筋肉をつけることを嫌がるが、おそらくその筋肉をつけたとしたら、もう少し球速は上がる。

 そして直史であれば球速の上限を上げても、コントロールが乱れることはないだろう。


 高校時代にセイバーが、直史はあまり筋肉をつけすぎない方がいいかもしれないタイプではないかと測定してくれた。

 直史はその言葉を忠実に守っている。

 身長でも体重でも、もう武史の方が体格では優っている。

 そもそも高校時代、直史は武史と違って、バッターとしてはホームランを打ったことがなかった。

 大学野球においても武史は、いまだに下手な上位打線より優れた打撃力を持っているが、ホームランを飛ばす筋肉がない。

 意識的にバッティング用の筋肉はつけてこなかったのだ。


 野球の世界においては、本格的に肉体を追い込んでいくトレーニングは、20歳から25歳ぐらいまでが、一番成長すると言われている。

 これはそれより早いと、まだ骨の成長が終わっておらず、変な負荷がかかってしまうためである。

 もちろん個人差はあるが、直史も身長の伸びの終わりを考えれば、これからこそが本格的に鍛えてもいい年代なのだ。

 その最も成長する時期に、既に維持のためのトレーニングだけに徹する。

 現時点でも当然ながら化け物であるが、もしも野球に専念すればどうなるか。

 それを考えると誰だって、まだこの進化の先が見たいと思うだろう。




 佐藤直史は合理主義者である。

 そしてリスクの少ない選択を好む。

 野球のピッチングにおいては、大胆に投げてくることもある。

 だが基本的にその実生活は、全てに無理がこないように計算されているように見える。

 ピッチングのコンビネーションにおいて大胆であるということは、相手の意表を突くことだ。

 それはむしろ、繊細なピッチングという面も持つ。


 野球を別とするなら、たとえば女だ。

 樋口の外見の好みとは全く違うが、直史の女性観は明らかに、少し古いというか、本来ならスタンダードのものである。

 フェミニズムを正確な意味で体現しているのか、知り合いの女性には親切だが、知らない女性には冷淡である。

 たとえば弟の彼女には、気の利かない弟に代わって、フォローを入れたりもする。

 またイリヤのような人間とは、普通に友人のように話す。

 相手に応じて、ちゃんと態度を変えている。女性だから、の一括りでは済まない。

 特に年上の妙齢の女性には、冷淡さが目立つと樋口は見ている。


 その直史が選んだ瑞希は、頭脳は明晰だし、性格もおとなしい。ただ芯の通った強さも持っている。

 信念と言うのだろうか。法の道に進むといった、心根の強さを樋口も感じる。

 だからといって男勝りとかそういうのではなく、基本的には男を立てていくタイプだ。樋口は知らないが、おそらくああいうのを昭和の女性とでも言うのだろう。

 おっぱいが大きかったら、樋口の守備範囲に入っていた。

 ああいった女性を選び、ずっとそれを尊重している。

 さすがに妹と、弟の彼女にはそれぞれ別の意味で特別扱いしているようだが、他の女性には全く目を向けない。

 強いて言うなら権藤明日美には一目置いているような感じはする。


 女性の好みも保守的なのだ。

 おそらく処女好きでもあるのだろう。

 女性に貞淑さを求める、まさに昭和の男。

 計算高く、そんな貴重な女性を、己のものにしている。

 もっともその執着の強さは、合理主義とは少し離れたところにあると思うが。




 直史にプロの世界に来てほしいという者は、何人もいる。

 むしろ一般的な野球ファンは、プロには行かないと言っている直史のそれはポーズで、狙いの球団に行くための作戦だと考えている者も多い。

 だが事情を知っていて、それでもなお直史をプロの世界に引きずり込みたいという人間は、直史の先日の言動で、わずかながら希望を持った。

 その一番手は高校時代の相棒であるジンである。

「天皇の言葉なら聞くかもって、無茶苦茶すぎて話にならんぞ」

 大京レックスのスカウトにしてジンの父、鉄也はそう呆れる。

 話を持ってきた息子の言葉に、まあそりゃあ出来ればどこの球団でも欲しいわな、とは思うが。


 天皇が動くのは国事行為である。

 自らの好みなども、それが許される時にしか発言することはない。

 天皇は日本の祖父であり、父であり、兄である。

 政府でさえそれを動かすことは、かなり限られているのだ。


 日本国内にそれを、自由動かせる人間はいない。

 天皇もまた、自らの権威に縛られている。

 対等に話せる者など、それこそイギリスの王、ローマ法王、アメリカ大統領といったところだ。アラブ系の王族も含めていいだろうか。

 セイバーがいくら金の力を使っても、言葉を引き出すことは出来ない。

 そもそも彼女は確かに金持ちで、必要なロビー活動をすることなどもあるが、さすがにそこまでの関係は持たない。


 だがジンの知る限りでは、一人だけいる。

 世俗の地位とか財産とか権力を超越した立場にいる者。

 その一人の人間としての価値が、圧倒的に世界で認められているもの。

 アメリカの音楽シーンを動かし、権力者や他の芸術家にも影響力を与える、イリヤがいるのだ。


 イリヤを動かして、アメリカの野球ファンのアーティストを動かして、野球好きの大統領を動かす。

 幸いといっていいかどうかはともかく、今の大統領は学生時代、アメフトと野球をやっていたはずだ。

 そしてアメリカの大統領というのは、ある意味経済団体の代弁者でもある。

 アメリカのミュージシャンや芸能界は、政治的な運動を巻き起こすことも可能だ。

 そこからどうにか、大統領を動かせないか。

 動かした後に、天皇との会見をセッティングして、直史を話題にする。

 ……いや無理だろ。

「無理を通せば道理が引っ込むとか言うが、まず金が確実に必要になるし、コネクションはイリヤを使うしかないだろ」

「無理かな?」

「0.0000000001%の可能性っていうのは、つまり不可能の同義語だぞ」

「でも0じゃない」

 息子の言葉に、ため息をつくしかない鉄也であった。




 不可能を可能にする。

 この件に関しては、多くの人間が協力してくれる。

 だが意外なところから、反対の意見も出る。それも身近なところから。

「あいつはプロの世界なんて興味ないだろ」

 大学で直史と、黄金バッテリーを組んでいる樋口である。


 野球に大きな価値を認めていない、という点で樋口は直史と共通している。

 ただ樋口の方が少しだけ自信家だったのと、卒業後にすぐ結婚するつもりがあっただけである。

 それがプロに進むか、他の道を選ぶかを分けた。

 直史の説得や、他の者の説得に、彼の力を借りられない。

 そしてセイバーもまた、反対であった。

 彼女の場合は単に、成功率が低すぎるという理由で。

 0.1%以下の成功のために、資産をぶち込むというのは、彼女にとってギャンブルですらない。

 それに彼女は、アメリカの社会の現実を知っている。


 直史はアジア人である。

 その時点で、この作戦は不可能になっていると言っていい。人種問題というのは、確実に存在するのだと、セイバーは体験している。

 直史が白人であれば、あるいは黒人であれば、どうにかなった可能性は少しある。

 だが彼は日本人で、しかもも若者においては珍しい、夢とか希望という言葉の大嫌いなリアリストだ。


 直史は弟である武史の進路については、特に口を出さなかった。

 可能性だけを言うならば、セイバーが破産してクラブチームの運営なども、不可能になる可能性はあるのだ。

 不意の事故や病気で、彼女がいなくなる可能性はある。そしてそういった不慮のことは、武史自身にも降りかかるかもしれない。

 ただその時は、自分が兄としてフォローすればいいとも考えていた。


 ならばイリヤはどうなのかというと、彼女はかなりノリノリであった。

 だが実現できるかどうかと尋ねれば首を振る。

「出来ないと思うことをやるから、面白いんじゃない」

 そんな天才肌のようなことを言うが、セイバーの戦略性を持たなければ、ロビー活動は失敗するだろう。

 

 大介もまた、懐疑的な人間であった。

 直史の日本人としてのこだわりは、今どきなんなんだというぐらいのものである。

 だが思い出せばいい。

 直史は本来、反権力、反権威、法治主義の人間であるのだ。

 たとえ天皇の言葉を引き出しても、それで本当に動くと思っているのか。




 最後に話したのは瑞希であった。

 現実的に見て、もっとも直史と関係が深く、その将来を共にする人間。

 その言葉は他の誰よりも、直史にとって影響が強いだろう。

 彼女は人間として直史を見た場合と、恋人として直史を見た場合、二つの話をした。

 人間としてみた場合、直史がどこまでのことをなしえるのか、見てみたいと思うのは確かだ。

 弁護士というのはなんだかんだ言って、替えのきくものである。

 だが直史というピッチャーは、この世界にただ一人しかいない。

 フィクションの物語を書いてきた瑞希にとって、直史はとてつもなく魅力的な存在だ。

 同じ時代に伝説的な人間が、目の前にいる。

 これを記録したいというのは、瑞希にとっては本能に近い。


 だが恋人として、一人の人間として直史を見ればどうか。

 直史が野球をどれだけ練習しているか、知っている人間はそこそこいる。

 しかし直史が弁護士になるために、どれだけの勉強をしているかまでを知っている者は、ほとんどいない。


 直史はただのファッションで法曹の道に進もうと思っているわけではない。

 最初の動機はどうであれ、今は自分が法律の使徒にならんことに全力を注いている。

 その道を邪魔するというなら、それは恋人としては失格であろう。


 このように直史のプロ入りについては、身近な人間は案外否定的であったりもした。

 もちろん直史自身が望むなら、自分はそれをバックアップする気持ちの瑞希である。

 だが明らかに直史は、プロ入りを現実的な生き方としては考えていない。

 プロの世界に進める者は、本当に選ばれた一握り。

 人生はチャレンジだと考えるなら、プロの世界に飛び込むべきだ。

 などという誘惑の言葉は、直史には通用しない。

 聞こえのいい言葉でリスクの高い世界に勧誘する人間を、直史は軽蔑する。

 本人がそれを強く望んでいるならともかく、言葉巧みに説得するのは、詐欺とさほど変わらないとまで思っている。




 結局のところ、直史のプロ入りというのは夢で終わるのか。

 敬愛する祖父母や、自分を認めてくれた相棒や指導者、そしてプロのスカウトの言葉であろうと、直史は動かない。

 皇室パワーを使っても無理だとするなら、もう人情、財産、名誉、権威、人間関係など、全てを使っても、結局直史は動かせないことになる。


 だが、そういう人間がいてもいいのだろう。

 野球人気が再燃している今、球団数を増やそうという構想がまた再燃している。

 現在のセイバーはむしろ、そちらの方に注力したいと考えている。

 自分の球団を持つことを、彼女は近い将来の目標としている。

 いずれは世界をも動かす財力を手に入れたい。

 だがそれには、単なる資産だけではたりないのである。


 どれだけの財を積み上げても、得られない領域がある。

 直史という人間は、野球にとっての聖域になればいい。

 ただ憧憬するだけで、手が届くものではない。

 そういうものがあってこそ、世界には無限の神秘性が備わる。


 どんな人間にも、触れてほしくないものはある。

 タブーとか、そういうものではない。

 直史という人間が、周囲に惑わされず、己の意思を貫くこと。

 むしろそちらの方が、球界全体にとってはいいのではないか。


 何年後も、何十年後も想像される。

 もし佐藤直史が、プロ野球の世界に進んでいたら。

 それは想像するだけで、本が一本書けそうなものだ。

 諦めるしかないのか、とジンは思う。


 もう二度と、一緒にプレイすることはないのか。

 だが自分が高校野球の監督になれば、いつか教え子に伝えてほしい。

 直史のピッチングのコンビネーション。

 何よりもそのメンタルを。

 もっとも天才過ぎて、他の人間には再現不可能かもしれないが。




 プロ球団でプレイすることもなく、ただ壮大な可能性と記録だけを残して、本格的な野球から離れる直史。

 それはそれで、一つの伝説の完成ではあるのだろう。

 彼の逸話は、白い軌跡において描かれ、多くの対戦者によって語り継がれる。

 そんな伝説だ。

 既に伝説に片足を突っ込んでいる大介が、ずっと保証していくだろう。

 佐藤直史というピッチャーが、偉大であったことを。


 だが多くの、ほとんどの人間が、あるいは全ての人間が、気づいていなかった。

 当人である直史でさえも。

 彼がまだ、野球の世界に戻ってくる、わずかな道。

 彼を動かすための可能性。


 それはある種の犠牲が必要であり、ある種の悲運が必要である。

 だがそうなれば直史であっても、動かざるをえない。

 ただそれが、どの時点で起こるのか。

 これから衰えていく直史が、まだ全盛期に力を戻すまでに間に合うのか。


 金でも、女でも、権威でも、名声でも。

 全てが直史にとっては、その選択のための条件にはなりえない。

 だが未来への扉は、まだ完全には閉ざされていないのだ。

 たとえその確率が0.0000000000001%以下であっても。


 未来はまだ、決まってしまってはいない。

 だがそのリミットは、どんどんと近づいてきているのであった。


×××


 本日より第四部Aの続編である第四部Eが始まっております。

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