十三章 大学四年 投げないピッチャー
第173話 授与
時はやや巻き戻る。
11月のその日、さすがに直史も緊張していた。
緊張している割には、大変に目立っていたが。
「お前って普段から周りに合わせないけど、今日はことさら空気読んでないな」
そう樋口に評される直史である。
11月3日文化の日。
言うまでもなくWBCにて世界一になった侍ジャパンが、紫綬褒章を受け取る日である。
「結婚してたら一緒に連れていけたんだけどな」
と直史などは瑞希に言ったものだが、さすがに瑞希もそんな緊張する場所に行きたいとは思わない。
名誉なことではあるが、調べてみたら準備が凄まじく大変なことが分かった。
もし将来直史がまた褒章や勲章などをもらった場合、瑞希も配偶者として出席するわけである。
その時は着物の着付けや髪のセットなど、男性よりもすさまじく手間も時間もかかる。
直史はなんだかんだプロの道に進んだ場合、失敗するであろう未来をしきりに語るが、瑞希は正直そんなことはないだろうと思っている。
だがプロスポーツの選手として活躍し、様々なパーティーに出ることがあれば、基本は夫人同伴である。
そういうことに出席するのは嫌だな、と考える瑞希が、直史にプロへの道を積極的に進めない理由は、実はこんなところにあったりする。
他の選手はほぼプロ出身なので、ダークスーツである。
樋口もわざわざ拵えたわけであるが、直史一人が紋付羽織袴である。
だがこれは完全な正装である。
そもそも直史は、基本的には礼装は和服の人間なのである。
一応TPOに合わせてスーツも持っているし、大学の入学式などはスーツであったが、親戚の結婚式などは和服なのである。
当然ここも和服で、棋士の若い人が一人、やはり和服であったものの、あとはやはりスーツが多い。
嘆かわしいことである。
まあ最近の若い者は着物の着付けも自分で出来ないのだから、それは仕方がないことなのだ。
なんといっても東京で浴衣を着る場合などは、瑞希の着付けも直史がやってしまうわけで。
もちろんそのあと、剥いてご馳走になるまでが一つながりである。
着物っていいよね!
直史は基本的にはゴリゴリの合理主義者であるのだが、このあたりの伝統的な装いをすることには積極的である。
また伝統行事にも積極的で、実家では祝日には日の丸を飾る。
このようなめでたい日に、芸のないスーツ姿という方が、直史には理解しがたいらしい。
上杉でさえスーツで統一しているのだから、直史のゴーイングマイウェイっぷりは野球界では最高と言えよう。
「陛下に拝謁できるわけだから、これで当分の間は、親戚の中でも大きな顔をしていられるぞ」
ここまで上機嫌な直史は珍しい。
そこでふと樋口は思った。
「あのさあ、お前が陛下に声かけられて、ぜひまたプロの世界でも活躍してほしいとか言われたら、どうすんの?」
あくまでも冗談であったのだが、直史の動きが止まった。
え、あれだけプロには行かないと言っていたやつが、陛下のお言葉には従うの? と他の選手だけではなく列席者さえ、視線を向ける。
「……! 陛下はそんなこと言わない!」
直史の声はいかにも苦しいものである。
そうか、そうなのか。
陛下のお言葉って、こいつをも動かすんだな。
天皇ってすげえ、と改めて思った樋口である。
天皇は日本における最高権威者である。
そして実は、世界においてもローマ法王と並んで、最高権威者なのである。
象徴としての天皇と憲法には記載されているが、逆に言えば天皇こそが日本なのである。
直史の場合も祖母などは、歴代の天皇の名前を全部言えたりする。
つまり直史は、そういう育て方をされたのだ。
めんどくさい男であるが、その精神的な背景には、自分以外の力も宿っている。
郷土愛に、親戚づきあい。
そういった、武史などは心底めんどくさいと思っているものが、実のところは直史の強さなのである。
「つまり天皇ならナオのやつを説得できると」
「まあ可能性は高いだろうな」
大介と樋口という、珍しい組み合わせで、授与式の後に話をしていた。
授与式というが、さすがに紫綬褒章は、まだ天皇から直接もらえるレベルではない。
「ナオの投げているところが見たいです、って言わせる方法ないかな?」
「天皇ってのはそういうものじゃない」
大介はともかく樋口には、権威の重さというものが分かっている。
天皇というのは、積極的に何かをしたいとは言えない存在なのだ。
言葉一つに、とてつもない重みがある。
ただ、感想をいうぐらいのことは出来る。
それにしても直史のピッチングをまた見たい、などとは言えない。
素晴らしい試合をしてくれましたとか、そういうことは言えるのだが。
一言言うだけなら、なんとでもなるような気がする。
だが自らの意思を発してしまった時点で、それは強い権威を失ってしまう。
世界で最も恵まれた孤高の存在。
それが日本における天皇というものだ。
「野球選手一人のために、その言葉の重さを失うわけにはいかないんだな」
樋口はそう言ったが、一つ可能性を見出す。
今からやって間に合うか、という問題はあるが。
しかしここに、確かに出来そうなやつが一人いるのだ。
「白石、お前、国民栄誉賞取れよ」
野球選手で国民栄誉賞を取る。
それを見た直史が、どういう反応を示すだろうか。
自分も欲しいと、家門の名誉のために思うのではないだろうか。
大介に国民栄誉賞というのは、冗談の段階でいいのなら、高校の頃から話は出ていた。
しかしプロ一年目から、その可能性は何度も取り沙汰されている。
一年目に、新人で三冠王を取り、打率と打点のシーズン記録を更新した。
二年目は日本プロ野球史上初の、四割打者となった。
そして今年、三年連続の三冠王で、ホームラン記録を一気に更新した。
「来年も取れば、四回の三冠王は史上初だろ。打者三冠の最高記録は全部お前が持ってる。WBCでも本当ならMVPレベルの活躍をした。あと何か一押しすれば、国民栄誉賞取れないか?」
実はそういう話は、もう水面下で来ているのだ
大介の前に、打診されたプロ野球選手はいた。
だがその人物は、そんな偉いものをもらってしまったら、立小便も出来なくなる、と言ったのだ。
大介の抱えている問題は、そんな軽犯罪とは比べ物にならないスキャンダルだ。
それが大介が、絶対に国民栄誉賞などもらえないと思う理由である。
だが直史をプロの世界に引きずり込めるなら……。
しかし来年、直史のパフォーマンスは下がるはずである。
普通なら大学四年目の直史であるが、法科大学院に編入する。
そこでは当然ながら、難関試験の司法試験への勉強をするのだ。
野球部になど、気分転換で少し来るぐらいのことしか出来ない。
WBCで金銭的な余裕を持ってしまったのが悪かったと言えるのか。
率直に言うと直史はもう、野球部を退部して特待生扱いをやめ、そして奨学金を打ち切られても、二年間を勉強に集中するだけの貯金は持っている。
直史のピッチングは、ほぼ毎日、九回完投したのちも行っている、微調整で成り立っている。
週に一二回程度の練習となれば、さすがにその精度を保つのは難しいだろう。
直史をプロ野球の世界に引きずり込む。
それが可能になるのは、樋口の話を聞いても二年後以降。
また確実な話でもない。
だが金銭や権力、人間関係のしがらみではなく、権威や名誉ならば、直史は動かせる可能性がある。
双子の姉妹と関係を持ってしまっている自分が、国民栄誉賞などをもらっていいものだろうか。
さすがにバッシングを受けるであろう大介は、そういうものとは無縁でいたいのだ。
褒章や勲章は、成し遂げた功績に対して与えられるもの。
だが国民栄誉賞は、そういったこととは種類が違うものである。
国民の中で、まさにそれに相応しいと認められた者に与えられるのだ。
現代で奥さんを二人持つような男は、それに相応しくないだろう。
それでも、やってみる価値はあるか。
だが具体的には、何をやればいい?
史上初の、四年連続四回目の三冠王か。
それはおそらくよほど調子を崩さないか、怪我でもしない限りは可能である。
「お前さ、ホームランの世界記録って抜けないか?」
「……本気で言ってるのか?」
ホームランのシーズン最多記録は、MLBの73本である。
ただ問題は、それが153試合にて達成されたということなのだ。
MLBとNPBでは、年間の試合数が20試合ほども違う。
「いや、不可能でもないのかな?」
去年大介は、九試合を欠場して、67本を打った。
シーズン全てに出ていれば、あと七本打てなくはなかったのではないか。
それに去年は、一時期はかなりのスランプでもあった。
他の打撃タイトルも取らなければいけない。
だが打率と打点は、もっと低くしてしまっても、充分に三冠は可能である。
ホームランを、74本以上打つ。
それは二試合に一本は必ず打つというペースになるのだが。
「お前なら出来ないないか?」
樋口がそう煽る。
野球の名声や権威には影響されないが、世間一般の権威や名誉には弱い男。
直史の褒章は、実家の祖父母の家の方に飾られる。
なぜなら先祖代々のそういった勲章だのトロフィーだのは、全部そちらに飾られているからだ。
直史が甲子園で得たメダルや、ワールドカップやWBCのメダルも全て、そちらに飾られている。
それをによによと、珍しくも気持ち悪い笑みを浮かべながら、眺めている直史である。
これで一つ、佐藤家の歴史にまた箔がついた。
実は紫綬褒章ではないが、佐藤家は褒章を先祖が得ている。
明治時代に周囲の山林や田畑をある程度売却し、政府に献金をした功績によるものである。
金で買ったものだ、と言えばそうなのかもしれないが、立派な国家への貢献である。
それにこれは、後の世から見れば、素晴らしいファインプレイであった。
戦後の農地改革で、少し離れた農地などは、全て実際の生産者に分割された。
佐藤家は比較的その影響を受けなかったのである。
ちなみにそういった勲章を真剣に狙うなら、法曹の中でも判事や検事を狙った方がいい。
最高の地位にまで昇りつめれば、勲章が得られるのだ。
ただしそういった職は公務員であるため、あちこちへの転勤を伴う。
直史がそちらを選ばなかった理由である。
さすが我が孫、さす孫であると、祖父母は喜んだし両親もおおいに喜んだ。
本家の跡継ぎはやはり違うぜ、と感心しきりの親戚一同である。
また地方の新聞も特別に取材に来たりもした。
直史は自己顕示欲や承認欲求とは少し違うが、家門の名声を高めることには喜びを感じる。
弁護士を目指すというのも、先生と呼ばれる職業だからだ。
先祖の中には地方の議員もいたために、あるいはそちらを目指してもよかったのではないかとも言われるが、佐藤家は名士であっても家財はそれほどのものでもない。
実は実家の蔵の中には、色々と貴重な品もあるのだが、そういった先祖代々の品を手放すわけにはいかない。
めでたいことは他にもあり、直史と瑞希は予定通り、四年生から法科大学院への編入が認められた。
これから二年間はしっかりと勉強をし、司法試験の受験資格を得るのだ。
ちなみに勉強をしながら、予備試験もまた受けてみるつもりである。
本来予備試験は、既に法律の世界で生きている者のための試験なのだが、別に大学院の学生が受けても悪いわけではない。
実際にツインズの片割れは、それに合格して司法試験の受験資格を得ているのだ。
さすがの直史も、医師資格以上とも言える資格を得るためには、野球にかけてるリソースを減らすしかない。
勉強の息抜きの合間に、野球をする。
真剣に打ち込んでいる者からすれば、ふざけるなと言いたいことであろう。
だが実力があるのだから仕方がない。
もっとも直史も、さすがに週にわずかな時間の練習とトレーニングでは、現在のパフォーマンスを保つことは出来ない。
それでも他のほとんどのピッチャーと比べれば、隔絶した実力を持つだろう。
パーフェクトを出来るピッチャーが、完封を出来るピッチャーにレベルダウンする。
対戦相手としたら、ほとんど変わらないようにさえ思えるだろう。
授業の課題の関係などで、丸二週間ほど全く練習の出来ない時期が訪れた。
どうにかレポートなども提出し、野球部のブルペンに顔を出した直史である。
四年生がいなくなる、引退試合。
それに直史は先発する。
公式戦での出番はなかったが、四年生にもそこそこ投げらるピッチャーはいる。
なんでも大学卒業後は、クラブチームで活動するそうだ。
また社会人に進めた者もいる。
だが全体的に、四年生は三年生よりも戦力には劣る。
早大付属の四天王とも言われた近藤、土方、沖田、山口。
そしてキャッチャーには樋口。
他にも特待生で入ってきた選手は多い。
その力も圧倒的なものである。
何より、ピッチャーから点が取れない。
鈍っているな、と直史は感じる。
だがそれでも、西郷を凡退させることが出来た。
求めるものが高ければ、それだけ自分にも厳しくなってしまう。
三回までをパーフェクトで抑えて、他のピッチャーに交代する。
村上や星が主に投げて、武史は投げない。
ある程度打って、四年生の威厳を保たせておこうというつもりである。
だが村上はともかく、星はヒットこそ打たれたが、点は取られなかった。
なんだかんだ言って、ピッチャーとしてアンダースローでとことん投げている間に、どうやらかなり成長していたらしい。
この試合もまた、プロのスカウトは見ていた。
もっともこの時期は、指名した選手とのやりとりで忙しい。
なので本当に、大学での最後の試合を見るだけのつもりだったのだが。
「あのアンダースローの子、いいですね。何年生ですか?」
「ああ、星か。今三年生だね」
「へえ、他の球団は?」
「いや、声はかかってないよ。うちは他にも、たくさんピッチャーはいたから」
「……へえ」
アンダースローの選手の評価は難しい。
だが普段から慣れているはずのそのボールで、凡退を積み重ねていく。
それはつまり、継続して通用するピッチャーであるということではないのか。
「三年生か……」
佐藤兄弟に加えて、村上などもいる早稲谷は、ピッチャーに与えらるチャンスが極端に少ない。
それにアンダースローというなら、今は一年生の淳がいる。
甲子園の準優勝投手だ。
だがここで確かに、星は目を付けられた。
「公式戦でもちょっと見たいですね」
「……そうかね」
辺見もまた、現役時代は技巧派で軟投派であった。
なのでまだまだ、星はそれほどのものとは思えない。
とてもプロで通用するとは、思えないのだが。
四年生を送る最後の試合。
そこで星は本格的に、そのピッチングの成果を出し始めた。
もちろん本人は、将来の選択にプロなどは考えていなかった。
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