第172話 冬ごもり
佐藤直史が本格的に、野球の世界から遠ざかり始めた。
これは以前から言われていたことではあるが、本当にそうなってくると、色々な反応を呼び起こす。
上から目線でコメントをする、野球村の人間がいる。
佐藤直史は野球を甘く見ているだとか、アマチュアでいくら成績を残してもプロとは世界が違うとか、別に直史が聞いても「そうだね」としか言いようがない妄言である。
野球選手になりたいなら、なればいい。
別になりたいわけではないから、むしろなりたくはないのだから、ただならない。
野球で成功した者は、野球を素晴らしいものだと思いたいのだろう。
直史はそうは思わない。
ただ趣味として没頭し、趣味を活かして進路を決めただけである。
直史にインタビューをしたいマスコミは大勢いるが、ほとんどは拒絶される。
唯一の例外は瑞希の筋から申し込んできたものであるが、その対応も素っ気なかった。
「私もたくさんのアマチュアの選手を見てきたけど、どうしても貴方ほどの実力があって、プロを志望しないという理由がわからないのよ」
女性記者にそんなことを言われるが、そもそも前提が間違っている。
「趣味を仕事にするつもりはないんですよ」
そしてまた、直史は持論を展開するのである。
プロ野球選手というのは、まず成功するのに強烈な競争が存在する。
ピッチャーはまだしも何人も必要になるポジションではあるが、他のポジションなどチーム内での争いが激しすぎる。
怪我をすればそれでアウトであり、大介の父もジンの父も、また国立もそれでプロを諦めている。
そしてそれらの競争に勝ち、故障にも見舞われずに済んだとしても、30代の半ばには引退。
そこからの人生の方が、おそらくは長いのである。
監督やコーチ、あるいは解説者などというポジションはあるし、球団内でポストが用意されることもあるだろう。
だがそもそも直史は、本質的に野球というものの価値観が合わないのである。
中学時代は弱小ではあったが、理不尽はなかった。
高校時代は理不尽からは最も遠いところに、白富東はあった。
大学は自分でその理不尽を変えさせた。
だがプロではそれは通用しない。
それで金を得るための虚業。
直史としてはそれは、随分と危ういものに思える。
田舎の長男の閉鎖的な、保守的な価値観からして、そういったものに憧れることはない。
プロの生活を知れば知るほど、別になりたい職業ではないな、と思うのだ。
直史は樋口にしても、女を取るなら社会人に行った方がいいのではないかと思ったぐらいだ。
社会人野球は世間的にも知られた会社に所属しており、給料をもらって野球をするという点では、プロと同じことだと思う。
それに怪我をしても年齢で衰えても、仕事があるのが強い。
ただ樋口は、自分の実力に自信があるので、それに賭けたということだろうか。
樋口は冷徹ではあるが頭脳は優れているので、確かに官僚を目指すというのは、しっくりときていたものだった。
だがそれを捨てても女を選ぶ。
なんでも初恋のお姉さんらしいから、人生設計を変えてでも、手に入れる価値があったのだろう。
直史のあまりにもドライな考えに、この人はどうしてこんなにも野球に対して距離を置いているのに、ここまでの選手になったのかと考える。
直史としては消去法の選択であった。
小学校の学童野球から、ごく自然に中学も野球部に入った。
新しく色々な道具をそろえるのはもったいないと思ったからだ。
だが実際は中学時代、身長が急激に伸びる成長期があったため、結局は買い替えることになったのだが。
なお親の負担を考えていない武史は、あっさりとバスケットボールを選んだ。
そして直史はピッチャーとして一度も勝てなかったため、一度ぐらいは勝ちたいと思い、高校でも野球を続けたわけである。
勝つのが楽しくなってくると、より技術を研鑽するようになった。
直史のピッチングは、つまるところ趣味だったのだ。
趣味だからこそ高みを目指して、純粋に技術の向上を楽しむことが出来た。
楽しむことこそが、最も練習の効率を上げるのだ。
あと一つ、直史には我慢できないことがある。
プロ野球はどれだけ優れたピッチャーであっても、おおよそ勝率が七割あればすごいと見なされる。
直史はそれが嫌なのだ。
あの上杉でさえも、プロ入りして五年、無敗の年は二年しかない。
もちろん年間無敗を二度も達成する時点で、空前絶後の化け物なのだが。
しかしプロは、大学や社会人、そしてもちろん高校生の上澄みの中から選ばれた存在とはいえ、無敵の大投手でもポコポコ打たれて負けている。
直史は負けることに対して、トラウマがある。
だからこそ負けないために、高校から大学まで、常人には不可能な練習をしたのだが。
価値観が傲慢すぎる。
八割勝てたらだいたい最高勝率のタイトルは取れる。上杉の登場以降、少しそれはバグった数字となっているが。
だが直史は五回のうち一回の頻度で負けるような試合は、したくないのである。
求めるところが高いというよりは、どうせやるならそこまで調整してやりたい。
しかし年間を通して戦うプロは、どうしても調子の悪い時はあるだろう。
調整すれば直史は、プロの日本代表相手にも完封できる。
だが万全の状態で一年を通して戦うには、自分の基礎的な身体能力では、無理があると思うのだ。
自信がない。
よく言われる批評の一つは、間違っていないなと考えている直史である。
チャレンジしないのかとしたり顔で言われることもあるが、法曹資格に挑戦するのはチャレンジではないのか。
漠然と一般企業に就職してサラリーマンになるより、よほど大変なことである。
なぜチャレンジというと、そういう変な道ばかりを人は思いつくのか。
プロ野球選手というのは、別にそんなに立派な職業ではない。
もちろんスタープレーヤーは、多くの人に興奮と感動を与えるのだろう。
だが別に、直史がそんなことをしなければいけない義務などはない。
分の悪い勝負でも、しなければならない時はある。
だが確実に、プロを目指すというのはそんな勝負ではない。
直史へのインタビューを終えた女性記者は、帰り際に瑞希と話す機会があった。
あの直史の言葉は本当なのだろうかと。
「誰にとって本当なのかは分かりません」
瑞希が見る限り、直史が野球を好きなことは間違いない。
だがその人格の根本的な部分に、リスクを避ける本能があるのだ。
趣味で終わる時代は、そのリスクを徹底的な練習とトレーニングで潰してきた。
だがプロではそうはいかないだろうと、自分でも思っているのだろう。
そしてそんな満足なピッチングが出来ない自分を、直史は認められない。
確かになんとも、傲慢なことではある。
瑞希は、直史の選択を尊重する。
そもそも直史は本質的には、頑固なところがあるのだ。
自分の中のルールには従う。
プロを目指すというのは、そのルールには反することであるらしい。
直史は高校の頃から、将来はどういう職業に就くかはちゃんと考えていた。
最初は公務員になって、地元でずっと暮らすつもりだったのだ。
それが瑞希と出会って、法曹の道を選ぶことにした。
ちなみに弁護士として働く、とはその時にはまだ確実には決めていなかった。
ただ法曹の資格を取れば、行政書士や司法書士の仕事も出来る。
公務員として働くうえで、そういった資格は絶対に役に立つと思ったのだ。
やがて瑞希と付き合い始めると、その父親の事務所を継ぐことが具体的になってくる。
直史の家からは少し距離があるが、車を使えば普通に30分程度。
結婚してしばらくの間は、二人きりで暮らすのもいいだろう。
そういった未来の設計図が、既に頭の中に出来上がっている。
プロに進めというのは、その考えを否定することである。
直史はだから、そういった声には耳を貸す価値などないと思っている。
「もしも貴方がいなければ、彼がプロに進んでいた可能性は?」
「ありません」
瑞希がいなくても、直史がプロ野球の世界に入ることはなかっただろう。
元々頭脳は明晰であるのだから、そちらの道へ進んだはずだ。
直史に言葉をかけて、翻意させることが出来る者が、この世にいるのか。
両親や祖父母の期待の元に、直史は実家を離れる道は選ばない。
瑞希の存在は確かに人生を転換させることになったかもしれないが、その瑞希が言ったとしても、今さら志望を変えることはないだろう。
他に影響力がある物は誰か?
指導者という点ではセイバーや秦野かもしれないが、二人とも直史の選択を尊重する。
他には誰がいる?
辺見が声をかけても、全く意味はない。
球界のレジェンドが電話をかけてきても、そんなものはどうでもいい。
かつての仲間やライバルたち、特に大介などから声をかけられたら?
大介はそんなことはしない。
直史は金でも動かない。
正確に言うと、とんでもない金でしか動かない。
契約金の一億など、どうでもいいと考えるだろう。
裏金を10億積まれたところで、頷くことはないだろう。
100億積まれたら、おそらくは折れる。
だが全力でプレイすることはないだろう。
直史は大学での対価として、野球部で成績を残していた。
そういったところで大金が動くのは、自分が恩恵を受けながらも、システムとしては軽蔑していた直史である。
プロに進んでも他人の指示などは聞かないだろう。
さっさと戦力外になって、故郷へ戻るだけだ。
数年ぐらいなら大学と同じく、実家を離れることも許容する。
そのあたりの価値観を聞いて、記者は頭を抱えた。
これはあくまでも瑞希の意見であり、記事には出来ない。
何よりこんな内容が出回ったら、どうなるのか。
既に直史はWBCの壮行試合やWBCの本戦で、誰にも達成できなかった記録を達成している。
天才だの怪物だの、色々と評価はされている。
だが瑞希は、直史が実際には、ちゃんと準備して試合に臨んでいるだけだと知っている。
プロ野球はシーズンが長すぎる。
高校野球とも大学野球とも、蓄積する疲労が比較にならないのだと、瑞希も思う。
直史の成績を、過去の大投手と比べてみたが、やはり上杉などは別格として、高校最後の一年と、大学に入ってからは傑出している。
ただし高校時代は岩崎や武史、そして淳といった層の厚い投手陣がいた。
直史は万全の状態で、試合に臨むことが出来たのだ。
プロに入って直史が成功しないとしたら、その原因はただ一つ、耐久力であろう。
肉体もそうであるが、精神的にも消耗する。
大学と比べても圧倒的に上回るプロ球団の打線を相手に、どれだけの体力や精神力を消耗するか。
直史はいい意味での、鈍感な人間ではない。
そのピッチングには繊細な、心身のコントロールが必要になっているのだ。
瑞希は直史に抱かれながら、プロの舞台に立つ直史を夢想する。
これまでの直史の対戦相手は、WBC関連を除けば、全て近い世代が相手であった。
しかしプロに進めば、上杉をも打ったバッターとの対戦となる。
そして誰より、大介との。
野球を調べていくうちに、一端の通になった瑞希である。
強打者や好打者と、戦う直史は見たい。
単なる一野球ファンとしては、全ての人間が思っていることだろう。
だが瑞希は、直史に近すぎる。
直史の投げる姿を見ていたいが、同時に傍にもいてほしい。
それに直史が、たとえ瑞希の言うことでも、この件に関しては聞かないだろうことを分かっている。
瑞希ではなく誰であっても、直史の意思を覆すことは出来ないだろう。
それは確信している瑞樹である。
間もなく冬がやってくる。
既に金を稼ぐ体験をしている瑞希は、このあたりの感覚は普通の学生とは違う。
もちろんアルバイトをしている学生などはたくさんいるだろうが、瑞希の働き方は、社会人としてのそれだった。
あぶく銭を稼いでしまったが、これから二年間を本格的な学びの時間に費やし、一人の社会人として働いていくことになるのだ。
その傍には、直史がいてくれる。
おそらく自分は幸せなのだろう。
だがこれ以上の幸せがあるだろうことも、なんとなく悟ってしまっている。
直史は迷わないが、瑞希は迷う。
いや迷いではなく、これがこの世界において、本当に正しい出来事なのか、そういう感じだ。
瑞希は何も言わない。
だが直史に問われれば答えるだろう。
どう答えるかは、まだ自分の中でもはっきりしていないが。
大学野球史上最高のピッチャー。
その最盛期の一年が終わった。
この先にある物語は、まだ誰も知らない。
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