第171話 最後の栄光
早稲谷大学が全勝優勝を果たした。
プロ野球よりも長い大学野球のリーグであるが、過去にこれだけ一つのチームが、圧倒的な強さを誇ったことはない。
理由としては、大学野球史上最強のピッチャーが入ったこと。
そしておそらく史上二番目のピッチャーまでもが続いて入ったこと。
さらには打線に四割以上を打つ選手が、何人もいたことである。
そういった四割打者をどうにか封じたあとでも、クラッチヒッターの樋口が打ったりもした。
そして秋のリーグ戦優勝を果たした早稲谷は、神宮大会へも出場することとなる。
神宮大会を制すれば、早稲谷は今年春と秋のリーグ戦を全勝し、さらに全日本と神宮の二大大会も制覇することになり、年間無敗というとんでもない記録を刻むことになる。
だが思ったより、それは難しい。
平日には直史が投げられないからだ。
授業なんて休んでも、ノートを取ってもらったらなんとかなるだろうというのが、野球部の一般的な認識である。
だが直史ほどではないが授業以外でも学ぶことが多い樋口は、直史の優先順位がちゃんと分かっている。
直史の思考や信念の中核には「家」というものが存在する。
自分の血統のルーツをはるか古代まで遡れるという、珍しい家だ。
上杉の家も名家ではあったが、そこまで古くはない。
実際のところはそんな家系など、どこかで途切れたりもしているのだろうが、直史が家を、家族を大切にすることは確かだ。
そしてそのために、今は将来を安定したものにしようとしている。
野球を楽しむというのは、あくまでも自分一人のため。
自分がより安定した未来を辿るために、野球を利用している。
だがただ利用するだけではなく、必要以上に力を入れてはいる。
来年から大学院に編入するためには、単位の十分な取得と、その内容も良くなければいけない。
だからこそ直史は、学業を優先する。
来年になればさらにその注力の割合は増えるため、さすがに今ほどのパフォーマンスは発揮しえないであろう。
普通ならば馬力のなくなってきたベテランピッチャーは、技巧を極めていくこととなる。
だが直史は既に今の時点で、技量は誰にも真似できないところまで極めてしまっている。
フィジカルのパワーが落ちて、ピッチングの精度が落ちれば、どんどんと成績は悪化するだろう。
大学二年、あるいは三年が、直史の人生における最盛期になるのかもしれない。
シードの早稲谷は、三回勝てば優勝である。
だが直史が投げられる週末は、初戦だけなのだ。
残りの二試合を、直史以外で勝つことを考えなければいけない。
もっとも普通のピッチャー事情からすれば、それでも十分すぎるほど恵まれた戦力だろう。
なんだかんだ言って武史も、完投した後に一度ぐらいは連投できる。
他に村上や、短いイニングでは星なども使えるだろう。
本当にいざとなれば、近藤にピッチャーをやらせてもいい。
そして一年生であるが、淳もいるのだ。
甲子園優勝投手と、準優勝投手。
他に甲子園のマウンドを踏んだピッチャーが複数いる。
このチームで負けるとしたら、それは監督の采配がよほどおかしいか、全員が一気にインフルエンザや食中毒で、出場不可能になるぐらいしかありえない。
いや冗談ではなく、食中毒にでもなれば、さすがにかなりの戦力が減ってしまう。
それでも直史が投げれば、勝ててしまうだろうが。
極端な話、早稲谷は二軍どころか三軍レベルの選手を出しても、一点取りさえすれば、そしてよほどエラーが重ならなければ、直史と樋口だけで勝てる成績を残している。
(いや、それも違うか)
樋口が考えるに、直史は小梁川がキャッチャーでも、自分で考えて完封できるだろう。
ただ樋口がいる方が、絶対に楽なだけで。
一試合だけの決戦を行うなら、直史は一人で勝てると樋口は思う。
ピッチャーというのは、自分一人でどうにか出来る、と考える者もいないではない。
上杉にしても最初は、あまりキャッチャーを重視していなかった感がある。
だが直史は、中学時代の経験から、キャッチャーが上手ければ、それだけピッチャーは楽を出来るのを知っている。
また同時に、樋口個人に対しては、バッターとしてもかなりの信頼を置いているのだ。
直史は、我儘なのではない。
単に優先順位がはっきりとしているだけなのだ。
直史のこの先の人生を、全て保証してくれるものがあるなら、あるいは決心を変えるかもしれない。
だが直史は、自分だけではなく配偶者、そして子供の未来までも考える。
育児と教育には、積極的にかかわっていくつもりの直史である。
これがまだMLBのように、息子の授業参観などに、休みをもらって出席するような風土が、日本にあったなら違ったかもしれない。
だがここは日本である。
集団への帰属意識は、むしろ直史は強い。
その集団というのが、野球の集団でないというだけだ。
高校時代はむしろ、郷土の代表として、ある程度他のことを後回しにしていた。
だが大学野球においては、単なる趣味と実益である。
神宮大会に向けて、野球部の中では調整が行われる。
直史の調整は短時間であり、あとは樋口と一緒に、対戦するかもしれないチームの情報を確認する。
リーグ戦はどんどん情報が集まるのに対し、全日本や神宮は一発勝負。
高校野球のトーナメントに似ているが、今ではそれでも代表になるほどの大学であれば、データで丸裸にされてしまうのだ。
逆に相手チームは、直史の分析をしても絶望するばかりである。
いったいいくつのコンビネーションを持っているのか。
あるいは将棋や囲碁などの、読みに優れた選手であれば、少しは可能性がある。
だが直史の多すぎる選択肢を、全て潰せるバッターや分析班はいないだろう。
一つ一つの変化球が、全て一流のエースの決め球以上の精度を持つ。
そして魔球があり、分かっていても打てない組み立てをしてくる。
それこそ大介でも持ってこなければ、その場の対応で打つことは難しいだろう。もっと率直に言ってしまえば不可能だ。
失投を期待するのか。
だが雨の中でのピッチングでさえ、致命的なピッチングはしなかったのだ。
高校時代、坂本にホームランを打たれて以来、直史は油断も慢心もしない。
そして下手に、最善解に飛びついたりもしない。
ベストの配球など野球では存在しない。
それを読むような打者であれば、たった一度の分かっている球を、狙ってスタンドに放り込むことが出来るのだ。
樋口や坂本のように。
直史としては最後の大きな大会。
神宮大会が始まる。
強いて直史の弱点を挙げるなら、それは天候。
雨ばかりではなく春や秋の寒さも、そのピッチングの精度をわずかに落とす。
だがそれでも、基準が違いすぎた。
極端に言ってしまうと、コースではなく球種の変化だけでも、充分に相手を打ち取れるのだ。
それに11月はまだ、それほど寒さを感じない。
この日が特に、寒くなかったということもある。
リーグ戦を勝ち抜いて、東京まで神宮大会にやってきて、一回戦で負ける。
それも心底、容赦なく負ける。
これが不幸とも言えないのが、現在の大学野球と言うべきか。
過去にも実力はありながら、プロに進まなかった選手は大勢いる。
だが甲子園や全日本、ワールドカップやWBCにまで出て、別格の称賛を得たほどの選手が、プロに行かなかった例はない。
アメリカであると意外と、ここまで極端ではないが、才能を嘱望されながらもホワイトカラーの職業に従事する者はいたりする。
理由としてはまさに直史が言うように、プロスポーツの世界で成功することは難しいからだ。
アメリカのMLBの試合などを見れば分かるが、一日も休みなしに10連戦などということもある。
MLBにおいて全試合出場は、NPBよりも少ない。
なんといっても移動のために、専用のジェットを用意するようなリーグである。
最強のピッチャーと戦える。
たとえ圧倒されても、ただ対戦したというだけで、ずっと語っていくことが出来る。
高校時代に上杉が、様々な強豪チームとの対戦が出来たのは、純粋にただ見てみたいというだけであったろう。
大学の場合は練習試合には、基本的に直史は出ない。
なので公式戦で当たることが必要であり、それもトーナメント戦となれば、運がなければ当たらないわけである。
伝説の中の記録として、対戦チームの中の一人として、自分の名前が記載される。
情報化時代の現代、直史のピッチングはずっと残されていくだろう。
それと対戦したというだけで、おまけのように残される。
それでいいのだ。
普通の人間が公式の記録に名前を残すというのは、そうそう見られるものではないのだから。
野球選手であった自分の、ほんのわずかなプレイを、直史と対決することによって残しておける。
それは歪ながら、憧憬と言うべきものであろう。
一回戦をまた、例のごとくノーノ―で突破した早稲谷は、準決勝は村上が先発し、星と淳が継投して、相手打線のチャンスを潰し、その間に打線が援護して勝利した。
そして決勝では武史に投げさせて、そこそこ球数は使わせたものの、それでもスタミナが切れるほどに粘ることは出来なかった。
神宮大会を早稲谷は優勝。
直史は普通に授業に出ていたため、結果は後から知ったものである。
高校野球は年齢で公式戦の出場が制限されるが、大学野球は学年で決まる。
正確に言うと、四年間しか出場は出来ない。
これは浪人して入った選手であっても、四年間出場できることは同じである。
極端に言えば30歳でも大学一年生から四年生までは、公式戦に出られるのである。
直史の場合は大学院編入であるが、これも残り一年は出場できる。
だが司法試験に向けて勉強を開始する大学院では、これまでのように野球に時間をかけるわけにはいかない。
一応直史は、司法試験の受験資格を得るために、法科大学院ではない、予備試験を受けてはみたのである。
これは主に、既に法律の世界で働いている人間が、知識などは充分であると考えて受ける試験で、これに合格したら法科大学院はおろか、大学さえ卒業していなくても司法試験は受けられる。
ただこのルートは難関であり、合格率は4%前後。
単純に難しいのもあるが、それだけの勉強をする時間を、そうそう取れる人間が少ないというのもある。
実は今年、直史はこれを受けてみたのである。
三回に分けて行われる試験であるが、直史は一つ目の短答式試験は通ったが、二つ目の論文式試験で落ちた。
なお瑞希も受けたのだが、短答式試験で落ちた。
試してみようという程度の受験であったのだが、瑞希の場合は執筆活動に時間を取られた。
直史の場合も野球に時間が取られたので、この結果は妥当と言えば妥当である。
だが身近には、この予備試験に合格して、司法試験の受験資格を手に入れた者もいる。
「天才でごめんなさい」
佐藤家のツインズの片割れである。
学生をやりながら大介の応援をし、さらに芸能活動までしている双子が、どうしてあっさりと合格出来るのか。
理由は単純に、頭脳の出来が違うからである。
白富東は県内有数の進学校で、毎年10人前後は東大に送り込む。
そんな学校の中で、ツインズは二人で、学年一位と二位を独占し続けたのだ。
そう、純粋に頭がいいから。
本人たちは、なぜ分からないのかが分からない、という状態であるのだが。
なおツインズの片割れは、法律ではなく経済の分野に足を突っ込んでいる。
将来的には大介のサポートをするために、資産運用の力を手に入れようとしているのだ。
法律と資産管理。
大介のサポートなら医療面や食事面ではないのか、と考えた者もいたが、二人の返答ははっきりとしている。
そういった者は、金で雇えばいいのである。
この世は金と法に通じた者が勝つ。
そういった点ではリアリストなツインズであった。
神宮大会が終われば、野球のシーズン的には冬である。
法科大学院への編入条件を満たした直史は、瑞希と共に法曹の道を歩むことになる。
もっともまずは二年をかけて、司法試験への受験資格を得なければいけない。
もちろん手ごたえがあれば、一年目でもう一度予備試験を受けてみてもいい。
ただ直史は頭脳の面でも、秀才ではあるが天才ではない。
瑞希も自分だけで食べていくほどの金を、ひょんなことで稼いでしまった。
直史の大学院二年目、つまり五年目は、もう特待生での優遇措置などはなくなる。
すると二人の間では、こういった話も出てくる。
「一緒に住もうか」
直史も無償奨学金などを貯めているため、瑞希のヒモのような立場にはならない。
これまでも週末は半同棲となることが多かった二人であるが、本格的に同棲開始、ということになる。
もちろんそうなると、双方の両親にも話を通さなければいけなくなるわけだが。
前向きに考える二人であるが、あくまでもそれは一年後の話。
あと一年はまだ、お互いの部屋を行き来することとなる。
ただ直史には、そうなった場合の懸念もある。
「回数も決めておいたほうがいいと思う」
「そう言っても暇があればしてない?」
瑞希に言われて、うむと頷くしかない直史である。
二人で住むことによって、お互いの部屋を移動する時間は短縮出来る。
だが若い二人が一緒にいて、性欲の虜とならないと断言出来るのか。
それはおそらく難しいであろう。
現在でもよほどの事情がない限り、週末は二日に二回ずつ。
そして平日でも暇を作ってどこで二回ほど。
正直この時間を勉強にあてていれば、予備試験にも合格したのではと思わないでもない。
だが性欲というのはある程度発散させなければ、勉強にも身が入らないのである。
一度快楽の頂点を知ってしまうと、それは呪いのように生活の隙間に入り込むのである。
頭を悩ませる二人はやはり、色ボケカップルではあるのであった。
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