第169話 0の神話
佐藤直史は消極的な無神論者である。
どこが消極的かと言うと、一般的な伝統である墓参りや法事、初詣などは普通に行うし、クリスマスは普通に祝うからだ。
旧家とはいえ、敵性言語だから英語は禁止だとか、クリスマスなんて都会のものだとか、そんな価値観は持っていない。
ただハロウィンは別にパーティーなどはしない。
あとは普通に灌仏会にお茶を飲んだり、祝日には玄関に国旗を飾るので、古い習慣は持っていると言っていい。
田舎だからとかどうとかは、あまり関係ない。
佐藤家という家がそうであり、直史という人間がそうであるからだ。
直史自身の宗教観は、おそらく精霊信仰に近いであろう。
そしてもう一つは、普通に仏教の考えの中で生きている。
とりあえずキリスト教的な神は信じていないし、実は仏教も小乗仏教の方が納得できるな、というめんどくさい男である。
そんなめんどくさい男であるが、最近は神ってると言われることが多い。
いや、それは神ってるというのとは違うのではないかとも思うが、東京近郊の野球少年たちが、縁起物として直史を拝みにくるのはやめてほしいものである。
佐藤直史は人間です。大魔王でも野球の神様の息子でも、そして野球の精霊でもありません。
現人神扱いに周囲は笑っているが、駅前のお安い店に散髪に行ったとき、直史の切った髪の毛を手に入れられないかと、割とマジで頼んでくる人間がいるのだという。
「……これで金儲けが出来るな」
遠い目で呟く直史であるが、失点したと思えば天が嘆きの涙を流すあたり、強運と言うだけは済まない、不気味なものさえ感じる。
なお、帝都大との第二戦は、武史が先発して普通に勝った。
ヒットが一本出てノーヒットノーランは逃したものの、18奪三振で完封。
勝ち点一を手に入れた早稲谷は、またも全勝優勝が出来そうな雰囲気である。
七週目には早稲谷の試合はない。
ただ珍しくと言うべきか、直史は長めに練習に出て、樋口や小梁川にボールを受けてもらっている。
普段なら下級生にも投げることはあるのだが、微調整をするには下手なキャッチャーには投げたくないのだ。
ブルペンでしっかりと投げこんだ後、バッターに対しても実戦感覚で投げていく。
下手に投げるとバッターがスランプに陥る可能性もあるが、西郷は進んで打席に立つ。
あとはキャッチャーを小梁川に代わってもらうと、樋口も打席に立つ。
変化球の微妙なコントロールもズレていたが、それよりも重要なのはストレートである。
変化球の中でも一番よく使うストレートが、その球質が悪化している。
ボールを強く握りすぎた弊害だろう。
そっと持って、最後に弾く。
その握る力に意識が向いていて、スピンをかけるための力が指先に伝わってない。
コンビネーションの中ならともかく、このストレートとチェンジアップだけでは、好打者は打ち取れないだろう。
たとえば西郷は長打力ばかりに目が向けられるが、実は出塁率も高いのである。
せっかく身に着けたばかりの高回転チェンジアップが、指先の微妙な感覚の違いと、筋肉の疲労で投げられなくなっている。
三歩進んで、三歩下がってしまったしまったような感覚だ。
肩や肘ではなく、指先の感覚でボールが投げられなくなるというのが直史らしい。
雨の影響は上半身だけではなく、下半身にも出てきた。
踏ん張りに力を入れて、プレートを蹴るのを弱めたため、全体的に球速が落ちている。
精密機械はやはり、荒れた環境で使うようなものではないということだろう。
直史はとりあえず上半身の状態をそこそこ戻すと、下半身の修正に取り掛かる。
ストレッチと柔軟。
そしてバランスボールなどを使って、全身のバランスを整えていく。
直史の見せる極めて常識的な調整方法に、なんだか奇妙なものを見ているような気分になる周囲の人間であるが、直史としてはこれもまた調整だ。
あんな雨の中で投球をしたために、体全体のバランスが崩れてしまった。
ただ雨天で試合を行うということは、今後もありうることである。
さすがにあんな、コールドになるかどうかというほどの雨は、珍しいものだろう。
だがまたあんな試合がある可能性も、ないではないのだ。
しかし直史としては、今後もあんな雨の中で、勝たなければいけない試合がいくつあるのだろうか。
今は三年の秋、残るは慶応とのリーグ戦と、神宮大会のみ。
四年生になれば、リーグ戦でさえも、休みがちになるだろう。
平日に行われる全日本や神宮大会は、参加することは難しくなる。
あとどれだけ、本気で投げる機会があるのか。
今から雨天用にも対応できるようになるのは、リソースを無駄にすることになるだろう。
凝り性の直史であるが、同時に優先順位も分かっている。
それに雨の中の試合は、完全に無駄というわけではなかった。
シンカーやスプリットの抜く球を中心に、投球を組み立てることを考えるようになった。
あとは下半身に頼らない、そして上半身だけでも投げない、新しい感覚が宿ってきている。
球速というのは、あればいいものではあるが、なくてもどうにかなるところはある。
140kmが投げられれば、それで相手打線を封じることは出来るのだ。
それが高校二年生の頃、既に技巧派としては頂点に立っていた直史である。
魔球を武器に、強打者、強打線を封じていった。
組み立てさえしっかり出来れば、球速などというものは、相対的なものになるのだ。
ただ、実はスルーの感覚を取り戻すのには、一週間近くかかった。
指先の繊細なタッチというのは、それだけピッチングでは重要なことである。
日々の練習で技術をさび付かせないことも大切だが、そのためにはかなりの時間が必要となる。
試合で無理をして、その後の数試合にまで影響が出るのは、プロであれば避けたいところだろう。
直史のいる大学のリーグ戦は、間隔があるので問題はないが。
秋のリーグ戦の第八週の前に、野球界にとっては重要な出来事がある。
言うまでもなくドラフト会議である。
今年の早稲谷から指名されるであろう選手は、西郷一人。
他に数人、社会人野球に進む者も出るが、あとは育成での話が来ているだけである。
早稲谷大学はかつては、上位指名以外はお断りという時代があった。
特にキャプテンの選手は一位指名を要求するような、図々しいところがあったりしたのである。
現在はそんなことまではないが、それでも育成にはあまりいい顔をしないのが、辺見達である。
直史としても完全に他人事ではあるが、支配下登録ではなく育成枠なら、可能であれば社会人に進んだ方がいいのではないか、と思っている。
クラブチームもあまりお勧めしない。ただし直史自身は、身の回りがある程度片付いたら、クラブチームで野球を楽しむつもりではあるが。
社会人野球というのは、近年では企業の業績悪化などにより、どんどんチームが減っていっている。
プロから指名されなかった者の腰掛などではなく、完全にアマチュアエリートの最終コースなのである。
大学生が社会人野球に進めば、次の年は指名することが出来ない。
ドラフトで意中の球団が引き当ててくれなかった場合、一位指名競合の注目選手は、一年間どこにも所属せずに野球浪人することなどがある。
さすがにそこまでやれば、次の年はもう意中の球団以外は指名しないのが仁義となっているが、かつてはそれでも指名された選手などもいた。
一位指名を三度も受けた選手。江川卓である。
高校、大学、浪人と三度も一位指名を貫いた結果、色々と大変な出来事が起こってしまったが、それでプロ野球界のバランスが変わったという見方さえある。
クラブチームもまた、社会人と同じ扱いである。
他には独立リーグというのもあり、こちらはドラフトは問題ないのだが、クラブチームと共に待遇があまり良くない。
良くないと言えば誤解を招くのかもしれないが、給料をもらって働きながらプレイする社会人よりは、やはり良くないとしか言いようがない。
浪人してしまえば練習はともかく試合にも出られず、それだけ勘が鈍るであろうからだ。
育成は最低限の年俸はあるが、いまだにここから支配下登録され、球団の主力となった選手は少ない。
完全に三軍制度を持ち、練習も質の高いものを与えられる福岡あたりが、育成から主戦力を生み出すという点ではトップレベルである。
だがそれでも、何十人と指名して、何人が支配下登録まで進めるか。
はっきり言ってこれもまた、直史などは武史には勧めない。
西郷の場合は、一位指名を宣言している球団は複数ある。
宣言をしていなくても、球団の戦力を見れば、ピッチャーよりもバッター、特に長打を打てる選手を期待している球団は多い。
セであれば神奈川、大京、中京。パであれば埼玉、北海道、神戸あたりであろうか。
ただその年一番の大物を取りに行く巨神や、千葉や広島でも中軸を打てる即戦力は欲しいのだ。
むしろ必要としていない球団を探した方がいいかもしれない。
西郷とある程度競合するようなバッターは、高卒の水上悟ぐらいである、
ただし悟は確かに長打力もあるバッターではあるが、それよりはショートの守備に走塁と、ある程度のユーティリティ性を持っている。
体格などを見てもどちらかというと、万能なタイプの選手としての評価が高い。
あとはその体格から、長打力の伸びしろはないと考える球団もあるだろう。
もっともバランス型の選手を欲している球団は、西郷よりも高い評価を与えるだろうが。
西郷としては、別にどの球団を指名するわけでもない。
ただどうせなら、一年目から出られそうな球団がいいな、とは思っている。
打線が足りていないチームというと、中京、大京、神奈川、埼玉、神戸あたりであろう。
他には巨神なども、その年の一番の有望株として取りにくるかとも思われた。
打撃は足りている福岡などが指名してもおかしくはない。
今年はピッチャーでは、競合必至と言われるほどの人材はいないので、投打のどちらも足りていない球団は、無難にピッチャーを取りにいくかもしれなかった。
そしてドラフトの当日、西郷は最多五球団から指名されることとなった。
交渉権を獲得したのは、大阪ライガースであった。
なんでやねん。
ライガースは現在、打撃力はかなり高いチームとなっている。
その第一の、そして唯一の理由は、大介がいるからだ。
また若手も成長してきて、今のライガースの弱点は、リリーフ陣にあるというのは多くの者が一致するところであったのだ。
ただし、少し先のことを考えると、これもありか、ともなる。
不動の四番の金剛寺は、もう40歳を過ぎている。
毎年何試合かは休んでいて、この後継者はどうにか見つけなければいけない。
育っている若手はいると言っても、金剛寺ほどのOPSを残している選手はいないのだ。
それに大介が、今までは全くと言っていいほど言及していないが、MLBに移籍する場合。
たった一人の離脱で、チームの得点力がどう変わるか。
それを考えれば主砲となる選手は、確かにほしいのであろう。
リリーフ陣を強化するピッチャーは、幸いと言うべきか今年はピッチャーの出物が突出した者はおらず、二位指名以降でもそれなりにいいピッチャーが残っていそうなのだ。
だから取れなかったらピッチャーを、という考えで指名してしまったわけであるが、まさか取れてしまうとは。
大介から真田、そして西郷と、ライガースのクジ運が良すぎて笑える。
ただ西郷は一塁か三塁しか守れないのに、そこをどうするのか。
フロントと首脳部の間で、ちゃんと話し合いがもたれているのか、かなり疑わしいものである。
ただ、西郷自身は全く文句はない。
ライガースに入るということは、上杉との対決があるということだ。
一学年上の上杉と西郷は、対戦がない。
練習中の事故による一年間の出場停止が、上杉との対決の機会を奪ってしまったのだ。
プロに進めば、いずれは必ず対決する相手。
西郷としては、燃えないはずはない。
直史は基本的には、誰がどの球団に進もうが関心はない。
ただ、大卒の選手としては、竹中がどこに行くのかは気になった。
直史の感覚としては、現在の大学生捕手で、一番総合力に優れているのは樋口か竹中である。
特にバッターとしての能力を抜いて考えると、竹中は樋口を上回る可能性もある。
日本代表などで組んだ中では、間違いなく樋口を除いては一番のキャッチャーであった。
打つ方もかなり期待できる捕手。
これを外れ一位で獲得したのは竹中が、どうせならあそこがいいな、と言っていた中京である。
中京は東という優れたキャッチャーがいるが、毎年100試合に届かないぐらいにしか試合に出ていない。
日本代表の時も、故障で樋口と入れ替わったのだ。
だが完全に打力が不足している中京は、もっとスラッガーを選ぶべきではなかったのではなかろうか。
まあ竹中も西郷を抜いてリーグの首位打者を取ったことがあるので、ある程度の打撃は確かに期待できるのだが。
そんなドラフト会議も終わって、いよいよ第八週。
その竹中がいる慶応との試合が始まる。
早稲谷はここまで全てのカードを2-0で勝ち点を得ている。
ここで二連勝したら、またもや全勝優勝。
西郷としても更新したリーグ記録を、どこまで伸ばせるかの挑戦となる。
おそらくは早稲谷史上最強とも言えるであろうチーム。
そのキャプテンを務めた西郷の、最後のカードが始まる。
土曜日の先発は、直史であった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます