第168話 幻の記録
雨脚が強くなってきた。
直史はストレートを完全に見せ球にして、カーブやシンカー、スプリットをコンビネーションで投げていく。
微細なコントロールは出来ないが、おおよそ四分割し、決めるところでは集中して一点に投げ込む。
ボール半個ほどのズレは出るが、これでも普通なら精密機械だ。
問題はやはり変化球の変化が、上手く調整できない。
当たり前のことだが、精密なコントロールのためには、一番平均的な環境で、ピッチングの精度を高めなければいけない。
そしてその日の体調、また温度や湿度によって、ボールを投げるのは必要な要因が変わってくる。
これだけの雨となると、さすがに平均から逸脱しすぎて、直史のピッチングは本来の半分の力も発揮出来ない。
それでもホームランだけには注意して、ゴロを打たせることを意識する。
ゴロだけを打たせることを考えると、逆にそれを掬い上げてくるので、時々ストレートを高めに投げたりもする。
はっきり言ってこのボール球のストレートを打たれるのが、一番怖い。
そしてグラウンドの状態が悪くなると、ボールが跳ねずに内野安打になったりする。
一試合に一本もヒットを打たれないピッチャーが、ポロポロとランナーを出す状態。
だが早稲谷側の攻撃でも同じようなことは起き、直史と樋口が必死で考えるコンビネーションと違って、力任せに投げてきてすっぽ抜けたりする。
それを打つ早稲谷の打線は、比較的まだマシと言えるだろうか。
とにかく抜けた球を、守備の届かないスタンドまで運ばれるのが一番怖い。
早稲谷側は徐々に得点していくが、帝都のエース鴨井も、ドラフト候補として注目されている選手だ。
大量失点は許さず、天候により集中力の低下しそうになるのも我慢して、最小失点で切り抜けていく。
四回が終わった時点で、2-0と早稲谷はリードしている。
直史は二本のヒットを打たれ、フォアボールも一つ出している。
だが点は取られない。
失点しなければいいという、その一番原初の欲求に従ったピッチングをしている。
これは五回が終わった時点雨天コールドかと思っていたら、今度は小降りになってきている。
なんとか出来なくもない、と言えるだろうか。
降るなら降る、降らないなら降らないで、どうせやるなら万全の状態で挑みたいところだ。
審判団としても、なんとか五回まではやって試合を成立させたいところだろう。
五回の表、直史はすぽんと抜けたようなカーブを使ってきた。
帝都のバッターはその遅い球を振ってしまうが、これはゾーンを通っていても、角度的にボール判定されるだろう。
だが打てそうなボールは振ってしまうのが、バッターの本能なのだ。
打たれたボールは内野フライに終わり、また淡々とアウトを積み重ねていく。
普段なら三振を奪わずにアウトを増やしていくのは大助かりなのだが、今日の場合はどうしてもボール球で、相手の意識を誘導する必要がある。
一イニングあたり、平均して15球ほど。
普通のピッチャーなら理想的な球数だろうが、直史にとっては明らかに多い。
これが最後まで続いた場合、握力はもつだろうか。
そしてそれ以上に集中力が大変だ。
徐々に微調整が出来るようになってきた。
しかし精神的な疲労と、普段よりも強めに握ることで、握力にも影響が出てくるかもしれない。
単純にボールのパワーだけで戦っても、負けることはないと思うのだが。
五回の表も甘いシンカーを捉えられた。
普段ならランナーを無視する樋口が、牽制のサインを出してきたりもする。
ランナーにとっても走りにくい、このグラウンドコンディション。
直史は慎重に足場を固めていって、ボール球から入る。
カウントを整えるのは、基本的には変化球。
シンカーもその一つなのだが、直史の場合は抜くタイプのシンカーは、球速はないがその分変化は大きいのだ。
ただ慣れてしまえば、打てる球種であることも確かだ。
高速タイプのシンカーは直史の場合ツーシームとなるが、こちらはコントロールと変化量の微調整がきかない。
右打者の内角に投げたらデッドボールにもなりそうであるし、左打者に逃げる球として使うしかないだろう。
これ以外にも多くのボールが、内角に投げにくくなっている。
一番の問題はスルーがほぼ完全に使えなくなっている。
握力と指先の微妙な感覚で投げるあのボールは、回転軸が変わってスライダー系のボールになってしまうのだ。
そのスライダーも、やはりコントロールが微妙である。
球数が増えていく。
日曜日に法律サークルの集まりがあるので土曜日の登板となったのだが、これは武史のようなパワーピッチャーの方が、やはり向いている試合だろうか。
もっとも武史は武史で、やはり雨が嫌いであったりする。
そもそも武史は全般的に屋内球技の方が好きなのだ。
コールドの要件を満たす五回が終わった。
ここで雨天コールドであっても、問題にはならなかっただろう。
だがよりにもよってここで、雨が小降りになってきた。
両チームと共に審判団まで翻弄される今日の試合、グラウンド整備に時間をかけて、そこから試合再開である。
早稲谷としてはリードしているこの状況、雨天コールドの方がありがたかった。
直史が普通にヒットを打たれているこの状況、エラーが重なれば逆転されても不思議ではない。
レアな状況を見たいのか、この雨天にもかかわらず、観客は帰っていない。
なお観戦している瑞樹は普通に、合羽持参である。
ちんまりとしていて可愛らしい。だが筆記具が使えなくなるのは困ったものだが。
六回の表。
止みかけている雨に、直史は投球練習で試してから、変化球を解禁する。
ただしここまで、滑らないように握力の配分を多くしていたため、投げられる変化球の種類が減ってきている。
精密機械というものは、一度それが狂ってしまえば、元に戻すのにメンテナンスが必要になる。
普段以上の力を使っていたため、指先の微妙な感覚と、込める力のバランスがおかしくなっている。
やはりスルーは使えない。
ストレートの回転を上げることは出来るようになったが、その微妙な調整もきかない。
普段は15段変速が、三段変速ぐらいになったような違和感。
ただ、実は樋口としては、ボール球を使ってもいい分、リードは楽なのだ。
足元を固めて、ロージンだけではなくしっかりと指の水分を調整し、ボールは汚れてきたら変えてもらう。
普段に比べると神経質に見えるかもしれない動作であるが、時間をかけてでもしっかりと自分のピッチングをする。
相手の帝都打線としては、また普段通りのピッチングが戻ってきたのかと、暗澹たる思いになる。
だがじっと観察しているジンには、いつもよりもずっと疲労しているのが分かる。
打席に立つまでもなく、相変わらずボール球で見せ球にしている数が多い。
投げる間隔も長く、集中するのに時間をかけているのが分かる。
あの初めてのセンバツ、大阪光陰に負けた時には、もっと分かりやすかった。
今日は点を取られていないので、そのあたりがあの時とは違う気分的な余裕になっているのだろう。
この回は三者凡退で三振を二つ奪った。
グラウンドコンディションには、やはり不安があるのだろう。
野手のエラーもついているので、ここからは三振を奪っていくスタイルのようだ。
そのために少し多くの球数を使っても、許容するということだろう。
「もうちょっと疲労させたら、失投も出てくるんでしょうけど」
ここまでやや甘い球はあっても、失投を言えるほどの極端な棒球はない。
だが握力に問題がありそうなのは、球種を見ていれば分かるのだ。
勝てるかもしれない。
いや、それは無理だとしても、自責点ゼロの神話を今日こそ破ることが出来るか。
「というわけで少しでも球数を投げさせてくださいね。それとこちもこれ以上の失点は防いで」
スコアは3-0なので、ここからの逆転は十分にあり得る。
そして逆転される危険性の中で、直史を交代させる覚悟は辺見にはないだろう。
六回の裏、帝都大も必死の守備で、追加点を許さない。
直史から点を取るということは、単純にその一点だけではなく、相手チームに大きな衝撃を与えるだろう。
いい加減に簡単に勝ちすぎる直史の、負けるところを見たい人間も多いはずだ。
七回の表。
また少し、雨が強くなってきたか。
投げたストレートに、上手く指がかからなかった。
救い上げるように打たれたボールは、ライトの頭を越えた。
なんだかんだ言って打たれても単打に抑えていた直史にとって、初めての長打である。
帝都大はここで、送りバントを選択する。
ワンナウト三塁にしてしまえば、このグラウンドの状況では、何かがあって一点入っても全く不思議ではない。
ただ三点差を逆転するなら、ランナーをためたかったのではなかろうか。
(とか思ってるかもしれないけど、まずは一点とらないと、どうしようもないよな)
送りバントは、ファースト方向へ。
だがボールは転がらず、水分を含んでいたためかキャッチャー前に止まる。
敏捷な樋口がそれを握り、ファーストではなくサードに投げようとしたところで、グリップが滑った。
「くっ」
そこから無理に投げようとせず、しっかりと握りなおす。
だがもうファーストも間に合わない。
ノーアウト一三塁。
クリーンヒットでなくても、まず一点が入る状況。
普段の直史であれば、ここからでも充分に抑えきるだろうが、今日はそこまでの信頼は置けない。
「アウト優先! ゲッツ―あるぞ!」
樋口が内野に声をかける。タイムを取って集まったりすることはない。
この場面を無失点で抑えることも、普段なら出来る。
だが野球は野外でやるスポーツなのだ。
天候の不利は向こうにも平等だ。
帝都の打者はこの場面、ゴロを転がせばいい。
早稲谷がバックホーム体勢を取らないので、ゴロで一点が取れる。
エラー絡みではあるが、一点が取れるのだ。
これは歴史的な快挙ではないか。
……一点取られただけで、歴史的な快挙扱いされる直史も、たいしたものと言えばたいしたものなのだが。
この場面は、一点はいい。
残りの二点を詰められなければ勝てる。
直史はゴロを打たせるために、カーブを投げた。
ショート横へのゴロで、これは理想的なダブルプレイの打球。
沖田が取ってセカンドの山口へ、そこからファーストの西郷へ。
ダブルプレイが成立したが、早稲谷は一点を失った。
伝説の終焉。
ついに直史が失点したのである。
その後を全く動揺せずに抑えたのは、さすがというべきところだろうが。
ベンチに戻った樋口は、直史が無表情なのに対して、苦々しい表情を隠さない。
「悪い。あそこで三塁でアウトに出来てたら良かったけど」
「期待値的には、どのみち一点は入ってただろ」
また雨が強くなってきて、直史はタオルで顔を拭く。
(アンダー替えるか)
体温を奪っていく気化熱は、体力も奪っていく。
この雨の調子であると、まだランナーは出てもおかしくない。
至高の記録は途絶えた。
帝都大もかなり頑張って球数を投げさせていたので、雨の中のピッチングは疲労がある。
アンダーシャツを替えた直史であるが、ベンチの奥から戻ってみれば、まだ裏の攻撃が始まっていない。
審判たちが集まって、バックネット裏と何やら相談している。
「また中断か?」
直史はそう言ったが、どうやら違うらしい。
審判がベンチに向かってきて、状況を伝える。
どうやらこの先雨が強くなるので、ここでコールドということになるようだ。
つまり、六回コールドか。
そう判断した直史である。七回の裏の早稲谷の攻撃は終わっていないのだから、前のイニングまでの得点で決着する。
だがそれはつまり、七回の表の直史の失点が消えるということ。
「持ってるなあ」
樋口は呆れたように言ったが、直史としてもなんだかなあという気分である。
かつては雨によって負けた試合があり、今度は雨で失点がなくなる。
釣り合っていないような気もするが、記録としてはこちらの方が面白いだろう。
直史の無失点神話が、まだ続くということだ。
(これも運なのか?)
まあおかげでさらに失点するかもしれない、残りの二イニングは投げなくてもいいわけだが。
帝都のベンチとしては、納得しがたいものがあるだろう。
だが現実として、雨は確かに強くなってきた。
五回コールドでもおかしくなかった試合なのだ。
ただどうしても、直史から一点を取ったという記録を、残したいのだろう。
だがルールとして雨天コールドがあるのだから、それはもうどうしようもないことである。
(運がいいのか悪いのか)
運はいいだろうと言われるなら、それこそ本当に運がいいなら、ピッチングに影響が出ない程度の雨で済んだだろうに。
運は運でも悪運といったところか。
ともあれ六大学リーグの第六週、早稲谷と帝都の第一戦は、早稲谷の勝利に終わった。
七回の記録がなくなるので、直史は六回を投げて、95球、2被安打、1四死球、1失策という成績となる。
失点が消えたというのが、一番大きい。
無失点神話は、これからも続く。
自責点ではないとはいえ、一点は失っているので、直史としてはそこまでこだわってはいないのだが。
天運は結局、最後には直史の味方をした。
だがこの天候の中で投げた直史は再調整するのに、一週間以上の時間がかかった。
第三戦までもつれこんだり、第七週にも試合があったなら、その時こそ本当に失点していたかもしれない。
樋口の言うように直史は、持っている人間なのだろう。
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