第167話 慈雨

 秋が深まりつつある。

 プロ野球は日本シリーズを残し、高校野球は各地区の大会へ、それぞれ最後の盛り上がりとなる。

 大学野球は秋のリーグ戦真っ只中。

 第六週に早稲谷と対決するのは、帝都大学である。

 ここまで勝ち点三を得ていて、そこは早稲谷と同じである。

 内容は全く違うが。


 大学の分析班のみならず、あちこちから情報を得ているジンは、まともな手段では直史には勝てないな、ということが分かってきた。

 本当に手段を選ばなければ、もちろん勝てる。

 そこまでの悪辣な手段が思いつく自分に、いささかならず苦い思いもする。

 勝ちたいだけならば、本当にいくらでも手段はある。

 だがルールの中で、スポーツとして楽しむためには、そういった選択を思いつきたくさえない。

(サイン盗みなんて可愛いもんだよなあ)

 もちろんそんなことをするつもりはない。

 だが直史を攻略するには、とにかくあの集中力を乱さなければいけない。


 盤外戦術は問答無用でアウトである。

 それは分かっているのだが、悟られない盤外戦術を簡単に思いつく自分が、いつかやってしまうのではないかと思うと怖い。

 野球というのはどこまでが野球なのか。

 精神論全盛の昭和の頃には、精神力で勝つなどということのために、様々な悪習が残っていた。

 それは現在でも完全には払拭されておらず、さらに選手側にさえそれを望むような人間さえいるのだ。


 正面からどうやったら直史を打つことが出来るというのか。

 もちろん早稲谷の打線を抑えることも難しいが、そちらはジンの担当ではない。

 高校生活で、ずっとバッテリーを組んできた。

 それを根拠に直史攻略を担当することになったのだが、はっきり言ってマトモな手段が思いつかない。


 一つだけは、運任せであるが攻略法がないわけではない。

 それは天候の問題だ。

 直史の敗北した原因を過去から見ると、審判の誤審、スタミナ切れ、天候による不運の三つが上げられる。

 このうちスタミナ切れは解消されているが、他の二つは直史がどうしようと、どうにもならない問題である。

 だが審判の方は、試合の序盤でそのクセを見極めるということをするようになった。

 つまり唯一残っているのは、天候である。


 雨に弱いのかというと、実はそれほどでもない。

 小雨であればむしろ、ボールにかかる指がしっかりとしてくるのだ。

 そしてあまりに降りすぎれば、そもそも試合自体が中止になる。

「ほんとに降ったな」

 土曜日は昼過ぎから雨になったが、試合は出来そうなぐらいであった。

 ただし降水確率を考えれば、雨脚が強くなる可能性もある。




 自分はどうして野球というスポーツなどを選んでしまったのだろう。

 直史はこの雨の中の先発マウンドに立ち、深く溜め息をつく。

 中学に入った時、人数が少ないからというので、学童野球からそのまま野球部に入った。

 小学校時代のグラブなどがそのまま使えると思ったからだ。

 だが実際には成長期もあって買い換えることが必要になったし、それを思えば武史のようにバスケに行ってもおかしくなかったのではないか。


 日本の場合はサッカーも芝のグラウンドではないし、野球を選ぶのとそれほど変わらない。

 入学当初はピッチャーでもなかったから、野球における絶対的な力を発揮することもなかった。 

 結局のところ続けていた最大の理由は、惰性である。


 雨の中でもある程度やれてしまうスポーツは、直史は嫌いになった。

 特にこれぐらいの雨の中でやる野球は最悪だ。

 大介だって雨の中では、エラーをすることだってあった。

 こういった天候によるグラウンドコンディションの悪化は、本来のパフォーマンスを引き出すことを難しくする。

 特にピッチングに関しては、指が滑りやすくなる。

 本当に湿る程度の雨ならば、むしろ望むところなのだが。

 正直なところ一番いいのは登板の順番を日曜日と入れ替えることなのだ。

 だが日曜日は法律サークルの集まりがあるため、そちらを優先しないといけない。

 他の選手であればありえないが、直史の場合は学問が優先される。


 


 さてどうするか、と樋口は考える。

 雨の中で直史のコントロールが乱れるかというと、そうでもない。

 ただしどこぞのモノマネ主人公のように、雨の中でも試合をすることを想定して練習などをしているわけではない。

 純粋に雨が降れば、それだけグラウンドボールピッチャーである直史には不利になる。

 また単純にちゃんとボールを拭いてから投げる必要があるので、リズムがいつもとは変わる。

 テンポ良く投げられないと、さすがの直史も集中力が落ちたりすることはあるだろう。


 高校時代は血マメを作って投げられなくなったことがあったが、さすがに大学野球ではその心配はないだろう。

 明日の試合は武史なり、他にも投げられるピッチャーがたくさんいる。

 最終戦は二週間後なので、血マメ以外でも小さな怪我ならば治る。

 だがそれ以前の問題として、純粋に雨の中のピッチングは、色々と不安要素があるのだ。


 基本的にボールを投げるということは、ボールにスピンをかけることである。

 ナックルという例外はあるが、ストレートにも必ず回転はかかっているのだ。

 雨でボールが滑るということは、そこが問題になる。

 スピンをかけることは出来ても、滑らないように握ることによって、握力を代表とする筋力が、そちらに回ってしまう。


 球速だけなら、それなりに出すことは可能だ。

 だが直史は意図的に、スピンをかけることによって球質を向上させている。

 つまり今の直史は、ストレートの質が悪くなっているのだ。

「まあWBCの時のボールを思えば、なんとなく分からないことはないか」

 本日の直史は、普段とはかなり違ったピッチングスタイルになる予定である。




 普段ほどのストレートの質、また変化球の微妙な調整は、きかないと考えたジンである。

 ボールを保持するのに、普段よりも握力が多めにかかるか。

 スタミナはともかく、握力がどれだけもつか。

 待球策を取るというのが、分かりやすい攻略法だ。


 そして序盤は、直史がどんな球種を使ってくるか、見極めていかないといけない。

 おそらくはスピンをかけるよりは、抜くタイプの球種を使ってくるだろう。

 ボールが湿っていても使えるタイプの球種だと、直史の場合はシンカーやスプリットを使っていた。

 身体的な筋力はおおよそ武史に負けている直史だが、握力だけは圧倒的に優っている。


 一回の表の帝都との対戦は、予想通りにコントロール重視のストレートと、シンカーにスプリットを使ってきた。

 足元がまだ緩くないので、コントロールが乱れる段階ではない。

 だが普段の、ミリ単位ではないかと思えるほどのコントロールは、さすがにない。

 

 コントロールよりはコンビネーション。

 とりあえず一回は見ていったものの、ストレートの相変わらずのコントロールは健在だ。

 だが球速は150kmを超えるものはなく、やはり制球の方にいつもよりも、力を取られているのだろう。

 そして確認したところ、ツーシームやカット系の、手元でわずかに曲がってくるタイプの変化球はない。


 それでもスライダーを逃げる方向に投げられたあと、シンカーを懐に投げられたりしたら、やはり難しいとしか言いようがない。

 ストレートの球速は落ちているが、内角や外角を一杯に使われれば、手が出ない場合がある。

「う~ん……」

 ジンとしてはもっとデータが欲しいところだが、打撃陣の要求も分かる。

 普段の神がかったピッチングではないが、それでも十分にややこしいピッチャーではある。

 とりあえずジンとしては、待球策を続けようということになる。


 かつての相棒ではあるが、どうしても攻略しなければいけない敵。

 ただし高校時代から、毎年そのスペックは上がっている。

 球速の上限こそ、そろそろ見えてきたのかもしれないが、ここからは頭脳によってバッターを封じていくのだ。




 ここで重要な役割を果たすのが、樋口である。

 大学に入る以前から、日本代表として組んでいたバッテリー。

 ただ直史は基本的に、雨の中ではピッチング練習をしない。

 ブルペンにも屋根がある以上、当たり前のことではある。


 一回の裏は早稲谷も、情報を散々に分析されたのか、ヒットが出ることはなかった。

 キャッチャーの石川のリードに、帝都のピッチャーはきちんと応えたと言えよう。

 条件としてはどちらのピッチャーも、雨の影響下にはある。

 だが精密な動きが持ち味のピッチャーほど、こういった事態には弱いとも言える。


 二回の表も、直史の投球は乱れない。

 ただあの変化球を活かす伸びのあるストレートを投げてこないというだけで、ある程度打てるような気がするのも確かだ。

 グラウンドの状態はまだ極端に悪いというほどでもないが、いずれはボールが跳ねない状態にもなるかもしれない。

 かといって今日の持ち球では、積極的に三振を奪っていくことも現実的ではない。


 やはりこうなると、球速がものをいうようになる。

 直史としてもこういうコンディションなら、武史の方が向いているとは思った。

 だが辺見は直史でいくと判断したのである。

 まあ明日の天気も悪そうではあるし、間違いと現時点で断ずるのは難しい。


 ため息をつきたくなるような曇天の下、直史は二回の表もパーフェクトピッチング。

 だが使える球種とコンビネーションは、やはり限定されたものになる。

(打線の援護がないと、さすがに難しいぞ)

 それは樋口だけではなく、直史の内心の声でもあった。

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