第166話 人間の精度の限界

 たとえば、精密に機械を作るにおいて、機械に入力するよりも、人間の手で加工した方が正確な場合がある。

 なぜならば例えば金属を削る場合などは、削るにつれてそのドリルの方なども磨耗していく。

 熟練の職人であれば、その磨耗分さえも、自分の感覚で分かるのだという。


 直史がボールを投げるというのも、似たような感覚である。

 ピッチングのコントロールに関して、大切なのは全身の筋肉を連動させることと、肘から先の運動である。

 だがプレートの位置なども考えて、温度や湿度も考えなければ、変化は一定にならない。

 現在でも直史と同じぐらい正確な精度のピッチングマシーンは、作れないこともない。

 ただし数億円はかかるし、使うたびに調整をしていかなければいけないので、やはり人間の方が機械よりも優れている一例である。

 機械的というのは、実はある程度大雑把でもあるのだ。




「空間に全く目に見えないレールがあって、そこをボールが通っていくようだった」

 直史のピッチングを見た者が、評した言葉である。

 全く同じコースを、全く同じスピードで、全く同じ変化で。

 実のところどれかを変えると、全体的に変える必要があるのだ。


 直史の投げ込みというのは、スピードを求めるものではない。

 工作機械というのは実は、稼動させる前に、全てのチェックが必要になる。

 そして微調整してようやく、図面どおりの製品を作ることが出来るのである。


 毎日チェックしないと、そのズレが大きくなってしまう。

 そんな直史が高校時代、前日の試合のズレをチェックしなかった例などは、甲子園決勝の再試合ぐらいしかない。

 なのであれは、試合中に投げながら微調整をしていった例である。

 

 こういったコントロールを持つピッチャーは、世界中を探せばあと一人ぐらいはいるかもしれない。

 だが150kmのストレートも投げられる出力の持ち主は、果たしているだろうか。

 全く同じフォームから、変化球の種類によってはピッチトンネルを通って、何種類もの変化球を投げる。

 その中にチェンジアップが含まれていれば、それだけでもうバッターは打てない。




 兄の凄さは認めるが、どうにか近付きたいと思う弟は、翌日の日曜日に先発した。

 四回に一本のヒットを打たれて、エラーで一人の出塁を許したが、22奪三振の完封勝利。

 普通なら慢心してもおかしくない成績であるのだが、目の前にもっと巨大な数字を残している人間がいる。


 自分自身も勘違いしているが、武史も充分すぎる化け物なのである。

 リーグ戦に限っても、14勝1敗。

 なおこの黒星一つは、打線の援護が一点もなかった試合である。

 143イニングを投げて、被安打21 四死球7 自責点4 防御率0.25

 そして奪三振が316個。奪三振率は19.88と、これだけは完全に直史を上回る、異次元の数字である。

 またピッチャーの指標の一つであるWHIPは0.22と、これも異次元の数字だ。


 直史の場合は175イニングを投げて、被安打10 四死球19 自責点0 防御率0

 奪三振は271個で、奪三振率は13.93となる。

 WHIPは0.21となってあまり武史と変わらないように思えるが、あの一試合に16個の四死球を出してしまった試合を別にすると0.13まで下がる。


 WHIPは比較的最近に出来た指標であり、平均して一イニングにどれだけのランナーを出すかというものである。

 ただしこれだけのランナーを出しても、実際の直史は自責点を0としている。

 どちらも共に、異常に四死球が少ないことが分かる。

 直史の16四死球は、ピッチャーにはそういう日もあるとしか言いようがない記録だ。

 被打率で言えば特に直史の場合、おおよそ二試合に一本しかヒットを打たれていない計算になる。

 それはもう、ノーヒットノーランの嵐にもなるはずだ。




 バッターをダメにするピッチャー。

 直史はいずれ、そう言われるようになるのかもしれない。

 二試合連続でパーフェクトピッチングなどしてもらっては、つまりチームとしては一点でも取ればどうにか直史が完封はしてくれるということ。

 昔から好投手ほど援護が少ないなどと言われることはあるが、直史の数字をテレビで解説などしていれば、なるほどな、とも思うものだ。


 一点あれば大丈夫。

 直史は大学入学以来、自責点が0なので、あとはエラーがなければその通りになってしまう。

 秋のリーグ戦も第五週が終わる。この週には早稲谷は対戦はない。

 第六週は帝都大との対戦で、そして最終週は慶応との早慶戦。

 

 直史はこの間に、大学以外の場所でも練習をしている。

 セーブボディセンター、SBCにおいて直史は、大学にあるよりもよほど立派な機材で、そのあらゆる数値を計測していく。

 ここでの研究成果は、アメリカにも渡っている。

 あちらは日本よりも早く、こういったトレーニングの効率化を行っていた。

 それがあちらを追い越すような研究成果を出せるようになってきたのは、直史のおかげである。


 球速をほぼ1km単位で調整出来るピッチャーというのは、実はそこそこいる。

 またコースを指定して投げられるピッチャーというのも、そこそこはいるのだ。

 だが直史のようにスピン量を調整出来る者はいない。

 球速とコースとスピン量。

 これが全てコントロール出来るなら、変化球を好き放題に操ることが出来る。


 距離的には一番近い埼玉のセンターで、この測定は行われる。

 そしてこっそりとここに通っているのは、直史だけではない。

「よし、来い!」

 バッターボックスの織田のかけ声に従って、直史はボールを投げる。

 ストレートとチェンジアップ。

 大学野球ならばそれだけでもきりきり舞いにさせる直史のピッチングでるが、織田には通用しない。

 ミスショットはあるものの、これだけ球種が限定されていれば、かなりの確率でヒット性の打球が打てる。


 こうやって直史はバッティングピッチャーもするのだが、同時に織田でさえ打てないコンビネーションを考える。

「これ以上スピードを遅くして、回転を上げるのは無理なのか?」

「どうしても前に押し出す力が入りますからね。遅いくせにホップするように感じるかもしれませんけど、実際は遅い割には落ちないだけですから」

 直史の新型チェンジアップは、バッターの脳を騙す。

 そういった球種があり、それをけっこうな頻度で使うとするなら、それなりに打つことが出来る。

 だがパの首位打者である織田でさえ、条件を絞りまくってこうなのである。




 そう、織田は首位打者になった。

 盗塁数もトップ5であり、出塁率もトップ。

 ただし千葉はまだまだ打線が薄いため、打点などがなかなかつかない。

 安打数や盗塁でもトップレベルの成績を残して、もうパ・リーグを代表するバッターの一人と言っていいだろう。


 織田は高校時代、最後の夏に直史に完敗している。

 その後のワールドカップでは、共に日本代表として戦った。

 そしてWBCでも共に戦った仲であり、千葉の住居から近いため、大学のリーグ戦も暇があったら見に行っている。

 まだ千葉は秋のキャンプを行う日程なのだが、織田は自分での調整のためにここにやって来ることが多い。


 壮行試合の時も思ったことだが、直史はストレートのMAXが上がったため、前よりもさらに手の付けられないピッチャーになっている。

 コースや球種を絞れば打てなくはないのだが、実戦では現実的ではない。

 何十種類ものコースや変化を考えれば、一試合で一本程度しかヒットが出ないのも納得出来る。


 自由に投げさせると、まともにミートさえ出来ない。

 バットにはそこそこ当たるのだが、クリーンヒットになるような打球ではない。

 こうやって自分のバッティングがまだまだだと体に教えてから、織田は同行者に代わる。

 甲府尚武出身で、織田とは同期のキャッチャーである武田。

 千葉も正捕手の樋渡が来年は39歳のシーズンになるので、さすがにもう次の正捕手争いが激化している。

 武田はまだリードなどでは抜け出していないが、その打撃力には期待されている。

 代打での出場はそれなりにあり、コンバートも考えられたのだが、武田は走れないタイプのキャッチャーだ。

 そのあたりがネックになって、やはりキャッチャーか代打としての出場しか考えられない。


 武田もまた高校時代には、関東大会で白富東に負けたものである。

 だがあの年の白富東は、関東大会を優勝するほどの戦力だったのだ。

 今から思えば、という話になるのだが、勝てなくても不思議ではない。


 そんな武田に対して、直史は主にストレートを投げている。

 武田はキャッチャーらしく、読みで打っていくタイプなので、直史のコンビネーションタイプのピッチングとは完全に相性が悪い。

 なので球種を指定した上で、それをちゃんと打っていくのだ。

 ピッチャーの投げるボールには、必ずクセがあるものだが、直史の場合はその変化量の違いで、クセの代わりにすることが出来る。


 武田にしても思うのは、この異常な汎用性。

 そしてピッチングのコンビネーションのパターンだ。

 こうやってバッティングピッチャーをしてもらえば、逆にホームラン級の当たりが出るコースに確実に投げてもらうことも出来る。

 だが逆にそうでなければ、一本も打てないようなピッチングも出来るのだろう。




「鬼塚も来れればよかったのにな」

 織田がそういう鬼塚は、また怪我をして現在治療中である。

 一年目の鬼塚は、勝負強いバッティングで二年目に期待を持たせた。

 そして二年目は怪我での故障離脱はあったが、かなりの期間を一軍で過ごし、スタメンで出ることもあった。

 来年の目標は、規定打席到達であるという。


 一休みしている三人は、プロテインドリンクで水分と栄養素を補給している。

 武田は織田が打席に入っているとき、キャッチャーとしてボールを受けることもあったが、自分の考えるコンビネーションだけでは、とても直史を使いこなせないと思った。

 おそらく現在のプロの球団でも、直史のスペックをフルに使いこなせるキャッチャーは、五指にも満たないであろう。

 プロには来ないとはいうが、このピッチングのレベルは草野球で発散すべきレベルではない。


 プロの内情の話などをしていても、直史は普通に話を合わせてはくるが、一億円プレーヤーの話などをしても、別に羨ましそうな顔もしない。

 大学を卒業したらどうするのかと聞いたら、以前に聞いていた通り、弁護士の道へ進むという。

 次の四年生から大学院の一年に入ることが出来るので、そこで二年間勉強をして、司法試験を受ける。

 そこから一年間の司法修習を受けて、もう一度試験を受けた上で、ようやく弁護士になるのだ。


 織田や武田としては、好きなことを仕事にしてしまったのは、喜びでもあり苦しみでもある。

 だが直史の場合は、その選択が全く思い浮かばなかったのだ。

 自分の生き方は自分で決める。

 そのために必要な場所で、自分は働くのだ。




 千葉への帰り、織田の車に乗せてもらった武田は、直史のことを話題にする。

「あれは、どうしたらいいものなのかな」

「どうしたらって?」

「いや、もったいないとは思うが、かと言ってプロの世界ではあまり合わないことは確かだと思うし」

 武田は直史とバッテリーを組んでも、その能力を発揮させることは出来ないだろうな、と思う。

 あれはもう完全に、レベルが違うのだ。


 織田としてもあれは、アマチュアのレベルに留まるべきではないと考える。

 セ・リーグでは現在二人の超人が存在している。

 大介と上杉に対して、マトモに勝負できそうな選手は、WBCなどを見ても他にはいなかった。

 だが直史はプロの日本代表でさえも、ちゃんと準備をしておいたら、完全に抑えることが出来てしまうのだ。


 このほぼ同じ世代に、これだけの傑出した選手がどうして、集中して現れたのか。

 神を信じない織田であるが、野球の神様や甲子園のマモノは、少しは信じている。

 もし本当に野球の神様がいるのなら、直史をどうにかしてプロの世界へ、あるいはメジャーの世界へと連れて来てほしいものだ。

 もちろん敵として対決した場合は、そんな甘っちょろいことは言っていられないだろうが。


 ただ、一人の野球人としては、あのピッチングがプロの世界では、どのような成果を上げるのかは見てみたい。

 そしてそれは武田も同じである。

「なにかいい考えはないかな」

 キャッチャーとしての武田は、より強く直史の価値を感じている。

 だが織田としては対決する相手として、味方でないならせめてセのチームにいってほしいものだ。


 プロ野球はプレイオフも終了し、高校野球は神宮大会、大学野球も秋のリーグ戦から神宮大会というこの季節。

 もうすぐ織田や武田にとっては、将来のポジション争いを繰り広げるルーキーの入ってくる、ドラフト会議も行われる。

「草野球をやるぐらいなら、うちのマリスタに来て、バッピのアルバイトでもしてほしいよな」

 織田としてはWBCの壮行試合でも完全に抑えられたため、試合バージョンの直史の怖さを知っている。


 野球史上最も技巧派のピッチャーが、プロの世界には来ない。

 ただ直史のあれは、間違いなく単なる才能ではない。

 むしろ才能を言うのなら、弟の方が優れてさえいるだろう。

 努力による研鑽。しかしそれを続けられることもまた、一つの才能ではないのか。

 直史は明らかに、最もその才能を活かせる舞台からは去ろうとしている。

 だがそれを止められる者は誰もいない。


 あの輝きは、もう誰もが見られる舞台に上がることはない。

 どれだけ理由を付けても、それをもったいないと感じるのが野球人であった。

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