第163話 極致
同じチームであったり、対戦するチームであったり、年上であったり、年下であったり。
樋口はおそらく、この年代のキャッチャーでは一番、様々な一流ピッチャーのボールを受けている。
上杉のような剛速球投手もいれば、淳のような世界的にも少ない異形の技巧派もいた。
バッターとして対決した中にも、様々なピッチャーがいた。
だがその中で、ボールを最も自在に操るピッチャーは、間違いなく直史である。
そして今日はその直史が、特に調整してきている。
複雑すぎるサインを使って、普段は必要のない精度でボールを投げる。
そして迎えたのが、本日二打席目の谷。
樋口の目から見ても、かなりの才能は感じる。
高校で一気に身長が伸び、やっと感覚が肉体と連動したということなら、まだまだこの先も伸びていくのだろう。
(同じ年か)
プロのトップレベルとも対戦した樋口は、単純に実力だけなら、確かにこの谷は通用するだろうな、と思う。
だが本物の化け物の前には無力だろう。それと自分がリードすれば。
直史であれば、今はまだ問題なく勝てる。
だが数ヵ月後には、もっと上手くなっているだろう。
樋口も聞かされているが、直史は四年生になれば大学院の一年に編入し、かなり野球にかける時間は減るだろう。
その時でもおそらく、まだ谷は直史の相手にはならない。
久しぶりの対決を直史は楽しみにしていたのかもしれないが、直史自身が己の実力を理解していない。
そしてこのまま、本当の本気を使わずに、野球からは離れていくのだろう。
社会人になれば、クラブチームに入って楽しむなどと言っていたが、おそらくそれはかなわない。
もしも周囲が釣り合うようになったとしても、それは直史の実力が落ちてからであろう。
樋口は弁護士の仕事には詳しくないが、見習いのようなことをやりながら実務をするらしい、というふんわりした知識は持っている。
直史の持つ技術は、努力と言うよりは、鍛錬とでも言うべき過程によって得たものだ。
数週間も怠けていても、なんだかんだ言って直史は、その日常で体をしっかりと動かしている。
だがさすがに日曜日に少し参加するだけとなったらどうだろうか。
加えて直史は、さっさと結婚して、子供も欲しいとまで言っていた。
子育ての大変さというのは、別に子供を育てたことなどない樋口でも、おおよそ予想がつく。
このピッチャーが、ここで終わるのか。
だがそれもまた、直史らしいとは思えるのだ。
もう伝説を作りまくって、もしも佐藤直史がプロ入りしていたら、などという仮想シミュレーションでも誰かの妄想の産物にしてしまえばいい。
おそらくは史上最も、惜しまれたピッチャーとなる。
こいつがどれだけすごいピッチャーかは自分が知っているし、おそらく生涯忘れることはないだろう。
だから今も、その伝説の礎の一つとなっていけ。
樋口は完全に、谷を封殺するつもりである。
そしてそれは、別に難しいことではない。
谷に不足しているのは、まず絶対的なピッチャーとの経験だ。
昨日の試合も武史がギアを換えてからは、ヒットも打てなかった。
それでもスピードボールには、マシンなどの球を打って対応出来たのだろう。
だが直史が投げるのは、変化球だ。
初球は大きなカーブから入る。
速度は遅く、変化は大きく、落差も大きい。
これをちゃんとストライクに取ってもらえるのが、直史のピッチングである。
二球目はストレートで、武史よりはずっと遅いのに空振りした。
おそらく谷は予想以上の伸びに驚いているだろう。
直史は遊び球を使わないので、この三球目が勝負だ。
投げるのは低めへのスルー。
コントロールに意識を向けると、さすがに変化量も調整しづらいボールなのだが、低めのこれを谷はバットを止めて見送った。
ボールになった。
(入ってるぞ)
審判に苛立ちながらも、今日初めて、一打席で四球目の球を投げさせる。
球種はストレート。
スライダーか何かと、リリースの瞬間には判断していた谷である。
だが軌道はストレートに近く、バットを合わせていく。
球速からして変化するかとも思っていた谷は、自然とバットを下げたコースを振っていた。
そのまま空振りして、四球目での奪三振。
直史はまだまだ、一つのアウトを取るために必要な球数を、三以下に抑えている。
これはひどい、と誰もが思った。
六回が終わって、直史はいまだにヒットの一本も許しておらず、フォアボールも一つもない。
エラーもないので当然パーフェクトなのだが、その内容があまりにもひどい。
バッターは一球目か二球目を打たされて、運が悪ければ内野ゴロか内野フライでアウト。
そしてツーストライクまで追い詰めれたら、三振を奪うボールを投げてくる。
空振りを奪うのは、ストレートかチェンジアップ。
見逃しを奪うのはカーブである。
この試合の二チームだけではなく、偵察に来ている他の大学や、あるいはプロのスカウトすらも、この惨状には目を背けたくなる。
七回、三打席目の谷が三振に倒れても、スカウトからの評価が下がることはない。
今日の直史のピッチングが良すぎるのだ。
これまでの直史の非常識な記録としては、84球の完全試合、24奪三振の完全試合、80球完封などといった、どれか一つを達成するだけでも伝説となるような、そんな数字が残っていた。
だが、七回に谷を三振で終わらせたところ、パーフェクトピッチングを続けながら、奪った三振は八つ。
比較的少ない三振奪取率であるが、その代わりと言うべきか、球数が57球である。
もし七回までを、全員三球三振でしとめていたとしても、63球は必要になる。
完全に計算して、打たせて取るピッチング。
そしてツーストライクになって初めて、三振を取るためのボールを投げる。
外野に球が飛んでこない。
味方でありながらどんよりとした顔をして、外野の三人はマウンドの支配者を眺めている。
こういうのを公開処刑と言うのだろう。
傲慢とも思えるが、早く終わらせてやるべきだろう。
野球は確率のスポーツだ。
内野ゴロを打たせて取ろうとしても、打球が内野の間を抜けていくことはある。
フライを打たせようと思っても、それがポテンヒットになったり、思ったよりも伸びてヒットになることはある。
それを調整して打たせて取るなどというのは、あくまでもマンガ的な表現であって、実際にはそんな微妙な調整は出来ないのだ。
出来ないはずだったのだ。
だが目の前の現実は、そんな神技が可能であることを、事実として見せてくれている。
そう、これは神技だ。
上杉のストレートや大介のホームランも、それは凄まじいパフォーマンスではある。
プロの世界で年間を通じて、偉大な記録を打ち立てていく。
だが一試合に出来るパフォーマンスとしては、この直史のピッチング以上のことはないだろう。
「えげつなさすぎる……」
今年のドラフトまで既に一ヶ月を切り、既にリストは絞ってあり、あとは優先順位をどうつけるかだけ、と球団の編成もなっている。
早稲谷の試合を見に来た者は、改めて西郷のバッティングを見ることが目的だったろう。
だが目の前でなされているこれは、佐藤直史のピッチング練習なのだろうか。
外野がいらない。
前にも似たようなことをしていたが、あれはそれなりに球数を使っていた。
だが今日のこれは、球数を必要とせず、三振は必要な時に奪い、そしてランナーは一人も出さない。
ここまで無茶なことをしていれば、内野守備などに逆にエラーが出そうであるが、早稲谷の守備陣は直史が完全試合をすることに慣れさせてしまった。
単なるコントロールだけでは、こんな事態にはならない。
バッターがどんなスイングをするか、それすらも予知しているというのか。
こんなピッチング内容は、ほとんどオカルトである。
おそらく映像が残っても、100年後には捏造か、特撮の一部だとでも思われるだろう。
いや、特撮と思われるならまだマシか。
現実に生きている人間に、これはあまりにも残酷である。
才能は間違いないのに、これでプロには進まないという。
この試合の映像もまた、永遠に残しておくべきものであろう。
人間にはこれだけのことが出来るのだという、現実の限界を示す例として。
この試合に、直史はいったい何を求めていたのか。
樋口は直史のボールを受けているため、途中からその興味の対象が変わったのに気付いた。
谷は直史を引きずり出し、それに挑戦する資格は得た。
だが既に直史は、興味をなくしてしまっている。
武史のストレートに当てられたのだから、自分のストレートにも対応出来ることを期待した。
だが完全に抑えられてしまっている。
わざとランナーを出してまで、もう一打席勝負する必要性を、直史は感じない。
期待した自分が悪かったのだ。
この獲物はまだ、成長しきっていない。
おそらく全盛期は、プロに入ってもさらに数年後。
今でもプロで通用するが、プロの一軍で主戦力になるほどではなかった。
ストレートだけは打てるかとも思ったのに、ストレートもまた三振。
期待を裏切られた直史であるが、それはもう期待をしすぎた方が悪い。
せめてもう一冬を越えて、次の春のリーグだったら違っただろうに。
だがその時には、もう直史は全盛期を過ぎている。
肉体的なものではなく、肉体の状態をそこまで維持できないというものだ。
このピッチングが失われるのか。
この秋の神宮が、最後の大舞台となるのか。
最後の一年は、もう直史は本当に、野球にかけている時間がなくなる。
樋口は直史の価値観を理解しているし、共感さえしているが、それでももったいないとは思う。
人類の肉体がまだ限界を迎えていない以上、大介や上杉のようなプレイヤーは、100年後ぐらいには出てきているかもしれない。
だがおそらく、直史は全ての野球史において、唯一無二の存在だ。
技術の極み。
至高の頂点を、直史は体現している。
「よし、あと六人か」
試合前に期待していたのとは、違った結果になった。
もちろん直史の責任ではなく、全く打てないあちらの打線が悪い。
八回が終わる。
当然のようにパーフェクトを続ける直史に、スタンドはともかくベンチは静まり返る。
敵も味方も、形容しがたい怪物の近くには、存在したくないと思うのは当然だろう。
身内を除けば西郷と樋口以外は、直史から少し距離を取っている。
「けっこう疲れるな」
球数はさほどでもない直史であるが、頭を使って投げているので、糖分が不足している。
「俺も色々考えてるけどな」
樋口のリードに従って投げる直史であるが、微妙に変化に差をつけている。
ほんのわずかの変化の違いで、打球はもっと鋭くなったり、あるいは内野の頭の上を抜いてしまうものだ。
直史のそのわずかな変化の対応は、やはり才能はあるのだろう。
だが直史はこれまで、数々の強打者や巧打者と対戦してきた、
その経験の蓄積が、今は活かされている。
九回が終わった。
79球、奪三振10個、そして無安打無四球無失策。
これで直史は法教相手には、三度目の完全試合である。
あの悪夢のような16四死球も経験した法教は、まさに直史のおもちゃである。
「完成したな」
試合終了後、直史は呟く。
それを聞いた樋口は、細かいニュアンスまではともかく、その意味は理解する。
全打者を三球三振に取れば、それは81球での完全試合となる。
だが直史はそれより少ない、79球で試合を終わらせた。
全力投球よりは、コントロールを意識したピッチング。
脳はともかく肉体はさほど疲労もせず、明日に試合があっても投げられそうな状態だ。
試合後のインタビューでは、マスコミの方からでさえ、質問がなかなか浮かばない。
それでも何か質問しなければいけないし、質問することは色々とあるはずなのだ。
「今日のピッチングは会心の出来でしたか?」
「それは試合が終わってから、結果として出ているだけです。確かにいつもよりも精度を高い調整をしましたが」
佐藤直史は完璧主義者である、と言われる。
だが実際のところは、ベターをさらに求めていくだけ。
79球の次は、もっと球数少なくする努力をするべきだろう。
あるいは試合時間の短縮を狙っていくか。
効率を考えるのだ。
最も少ない労力で、最も大きな成果。
だが直史の頭脳にかかる労力は、肉体にかかるものよりも、かなり大変になっているようでもある。
法教大学の選手は、悲惨であった。
期待された谷にしても、三三振と全く振るわず。
あれが、究極の極致に至った人間か、と呆然とするしかない。
過去の二年間も、法教は直史によって、完全試合二回にノーヒットノーラン一回。
リーグ戦では四回対戦し、打ったヒットはわずかに一本。
別に法教だけに限らず、この圧倒的なピッチングは続いている。
大学入学以降、直史は自責点が0なのだ。
そしてそれはリーグ戦に限った話ではない。
パワーとパワーの激突が予想されるNPBのクライマックスシリーズ。
だがその前に直史は、ピッチャーにおける一つの到達点を作ってしまった。
(もう一度対戦したい……)
谷はもう、感動しているだけではない。
何度も何度も挑戦して、そして一度ぐらいはまともな勝負になるのか。
だがプロに行かない直史とは、あと一年しか対決する機会はない。
あるいはその一年、リーグ戦で投げてこない可能性すらある。
谷もまた、十把ひとからげながらも、伝説の目撃者、当事者となった。
自分が打てる選手になったというあの確信は、もう消え去ってしまっている。
(もっと練習しないと)
そして彼は、さらなる成長を求めていく。
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