第160話 折る
大学入学以来、実は武史は、一試合に二点以上の点を取られたことはなかった。
これまでは。
だが法教の四番の谷のホームランで、二点を失点。
特に油断はしていなかったが、序盤は打たれてもいいかという、甘さがあった。
一振りで二点を取った、法教の谷。
武史よりは一歳上の三年生で、出身は栃木県。
「知らないな」
直史は首を傾げる。なにせ刷新学園の出身だ。
同じ年であるからには、あの名門校出身なら、高校時代から少しは名前が聞こえてきてもいいものだろう。
一応は野球部からの推薦で入学したらしいが、これまでのリーグ戦には出ていない。
おそらくはベンチ入りもしていなかったのだろう。
それがこの三年の夏にいきなり覚醒して、160km近くは出ていた武史のストレートを打ったということか。
詳しく調べれば分かるのだろうが、とりあえず今はまだその時ではない。
武史が、いきなりギアを上げた。
立ち上がりが悪いのでは、という話があったはずなのに、続く五番を160kmオーバーを投げて三球三振。
一回の表から165kmを計測したのは初めてである。
「なんかあいつ……すごく怒ってない?」
村上の問いに対して、簡潔に答える直史である。
「今日は彼女が試合見に来てるはずだから」
「ああ、そういう」
彼女の前で恥を晒した、とでも思っているのか。
普段は全然気にしていないのに。
いきなりの失点に落ち込んでいたりはしないかな、と考えていた辺見だが、どうやら杞憂のようである。
ただアイドリングの状態から一気にギアを上げたので、怪我の心配だけはある。
「打たれたなあ」
そんな気軽に声をかけられるのは、兄である直史ぐらいである。
「油断したわけじゃない」
「ああ、単純に事前の情報が足りてなかった」
樋口としても、打たれるリードをしてしまったので、反省しきりである。
手元にあるデータには、先週の法教と慶応の試合のデータもある。
谷は三打数一安打で、その一安打がスリーランホームラン。
五番を打っていたのが、今日は四番になっているということか。
「夏休みとかも相当結果が出てたんだろうな」
「でも俺関東だけど、刷新の谷なんて聞いたこともないぞ」
「甲子園のメンバーにも入っていたわけじゃないです」
名門出身の無名の選手。
だが間違いなくスラッガー。
「これは……監督に嫌われたパターンか?」
「いや、それなら推薦で入っている理由が分からん」
「それなら怪我か?」
「それはあるかもな。監督も将来性が分かっていたから、大学にまで推薦した」
「そのあたりか」
直史と樋口の会話であるが、この考察は実は完璧に当たっている。
シニア時代はアベレージヒッターで、高校入学後は筋力がついたのだが、体の成長が追いつかずに故障離脱。
結局高校生の頃は公式戦で結果を出せず、プロのスカウトなども目をつけなかった。
つけたとしてもそんな実績では、とても指名は出来なかっただろう。
大学入学からの二年も、まだ体の成長と出力のバランスが取れず。
三年になってようやくそれが合致し、本来のポテンシャルを発揮できるようになった。
そして夏休み中の練習試合で、その成果を見せることが出来るようになったわけか。
「それで、交代の必要はあると思うか?」
辺見が尋ねてくるのは、珍しく武史が怒っているからだ。
冷静になっていないのは分かるし、こんな早い回から全力を出していけば、故障の危険性が大きくなる。
「大丈夫だよな?」
「なんとかします」
樋口が請け負った。
ここから直史が投げてもいいが、どうせ既に二点負けている。
早稲谷の今の打線であれば、二点などワンチャンスだ。
そう思っていたらいきなり、西郷のツーランホームランで追いついたりするわけだが。
「せごどん、これで24本目か。どこまで伸ばせるんだろうな」
「この試合含めて、八試合はあるわけだからな」
木製バットの大学野球だが、西郷は神宮では場外も打っている。
間違いなく今年のドラフトの一位候補だ。
四番打者の即戦力を欲しているチームは多いので、かなりの争奪戦になるだろう。
西郷ほどのスラッガーを必要ないと言えるチームはないだろうが、優先順位がピッチャーの球団はあるだろう。
一回の表裏に動いた試合だが、そこからは一方的になった。
武史のやる気を、樋口が上手く誘導している。
150km台で手元で動く球を投げれば、普通は連打はありえない。
対して早稲谷は強力打線で、着実にチャンスをものにしていく。
ホームランを打たれてから、七者連続三振で、四回の表。
三番打者も三振に取り、ワンナウトから四番の谷。
既にフルパワーになっている武史相手に、どういったバッティングをしてくるのか。
連続三振と言っても、樋口は追い込むまでは、ファールを打たせて確実にカウントを稼いでいる。
だがこの谷に対しては、武史が首を振る。
気持ちは分からないでもない樋口は、深く吐息してマウンドに向かう。
「ストレートだけで勝ちたいのか?」
「リードしてるし、ダメですかね?」
正直なところ、ダメ出しをしたい樋口である。
ただここで強打者と対戦しておくことは、後々のためにはなる。
プロの世界に進めば、大介はもちろんのこと、他にも注意すべきバッターはいくらでもいる。
武史の素質は確かに現時点でも、プロトップレベルだ。
だがおそらく素質だけでは、プロで勝ち残って行くことは難しい。
自分と同じ球団になれば、導いてやれることも出来るかもしれない。
だがプロの世界では樋口でも、まず自分がポジションを掴み取ることが難しいだろう。
ここで果たして、武史から打つことが出来るか。
正直武史のストレートが全力のフルパワーとなったら、樋口でもほとんど打つことは出来ない。
谷がこれを打つことが出来るなら、それはもう最終兵器を投入するしかない。
だが、樋口はストレートだけの配球を考える。
武史はのんびり屋ではあるが、時々吹っ切れてリミットを超えてくる。
最初は高一の夏、甲子園で152kmを記録した。
そこから怒りのパワー……ではないが感情的になると、リミッターが解除される。
直史はそれで肘を痛めてから、氷のような冷静さを、常に頭のどこかに持つ。
だが武史は違う。
ストレート。
それを谷は待っているのか。
「勝負してくれるの?」
戻ってきた樋口に軽い声をかける。
樋口は答えはしなかったが、不敵な笑みを浮かべる。
勝負である。
単純な肉体スペックを言うなら、武史が兄を上回るのは、樋口も認めるところだ。
その武史が、珍しく本気になっている。
この先の野球人生において、果たしてどれだけ武史が、ムキになることがあるか。
谷は確かに爆発的に成長しているのかもしれない。
だが武史もまた、成長の余地を残している。
谷も、おそらくこの夏に覚醒して、武史からすでに一本を打った。
打てるという確信を持っているのだろう。それは傲慢とも言えない。
だが、武史はへらへらしていながらも、潜ってきた修羅場が違う。
ストレートを、ゆっくりとしたフォームから繰り出す。
それをスイングしようとして、谷はその始動の前に、ボールがキャッチャーミットの中に収まるのを見た。
(は?)
思わずミットを見るが、いったい何が起こったのか。
座ったまま樋口は、武史の胸元にボールを返球する。
バッターボックスの中で谷は、唇を舐めて二球目を待つ。
今度はみるつもりだったが、白い軌道はミットの中に瞬間移動する。
(な……)
どういうことなのか、これは。
三球目。
スイングを合わせていこうして、そのまま空振り。
完全にバットとボールが離れていた。
ガッツポーズをする武史は珍しいものであった。
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