第159話 もったいぶったりしないで

 東京六大学リーグ秋の初戦は、東大との対決である。

 土曜日の第一戦は、現在チーム内で、第三のピッチャー扱いの三年村上。

 期待されていたサウスポーは、ちゃんとそれなりに成長し、実績も悪くはない。

 だがこの世代の早稲谷のピッチャーは気の毒である。

 比べられるのが直史や武史、それより下でも淳であるのだ。

 完封して当たり前のピッチャーと比べられるなど、あまりにも不運だとしか言いようがない。

 この試合も五回を三安打一失点と、充分すぎる投球内容なのである。

 そこからは淳にチェンジして、そのまま四回を二安打無失点。

 上の兄二人を使わずに、余裕の勝利である。


 そして日曜日の先発は武史。

 一回と二回にヒットを打たれたが、この日もやっぱり立ち上がりが悪く見えた。

 三回以降は10連続三振を含む無安打の内容で、あっさりと勝ち点一を得た。

 直史は出なかったが、160kmを投げて三振を奪いまくれば、それだけで観客は騒ぐものだ。

 プロのスカウトなどの玄人界隈にしても、プロ入りしない直史のピッチングを見ても、仕事には関係ない。

 ただ一人の野球人としては、もちろん見たいわけである。


 武史が今日はご機嫌だったのは、当然恵美理が来ているからである。

 直史から見ても、明らかにこの夏で二人の距離感は縮まっているが、果たしてどういう仲になったのかまでは分からない。

 そもそもそういうことをわざわざ考えるのは、下衆の勘繰りである。

 ただその変化は、武史に良い影響を与えている。


 今日もヒットは打たれたものの、20奪三振。

 新聞に載るレベルのピッチングをしているが、涼しい顔だ。

 相手が東大であったので、それほどの難易度ではないとも言えるが……いや、それは意識が麻痺しているか。

 実際のところ東大は確かに弱いのであるが、今年の春も全敗ではなかった。

 ツインズと明日美ガ残したものが、まだいまの東大野球部には残っている。

 そのわずか一シーズンの影響が、確かに東大を強くしているのだ。

 そこから20個も三振を奪うのは、武史が化物なだけである。




 試合で投げなかった直史は、当然のようにブルペンで投げる。

 休む時はだらだらと休むが、基本的には効率よく時間を使うのが好きな、貧乏性の直史である。

 バッターボックスに一年などを入れて、より実戦に近いピッチングを行う。

 なお試合でキャッチャーをしていた樋口であるが、直史の新しいコンビネーションを、ちゃんと捕球する。

 恋人が近くにいるわけでもない樋口だが、最近女漁りをあまりしていない。


 その樋口も直史のボールを受けながら、こいつはいったい何がしたいんだと思うことしきりである。

 これまで何度の完全試合を達成してきたことか。

 大学野球のレベルでは、もうこれ以上のテクニックは必要ない。

「そういや遠征では面白いことがあったな」

「ほうほう」

 小休止の間に、樋口がそんなことを言ってくる。

 韓国では練習試合を組んでいたのだが、なんで直史が来ていないのかと、向こうの監督がキレたらしい。

 まあ実際のところは最初は、文句を言っている程度であったらしいが。

 しかし辺見もあれで、言いがかりに対しては反撃するものなのだ。


 直史がいないことを、向こうは一軍戦力を連れて来なかったとして、侮辱だと捉えたのだとか。

 別にそんなことはないのだが、わざわざ夏休みを潰してまで、遠征に行く気にならなかったのは、日米野球でも同じである。

 そもそも直史が投げたとして、打てるものなのか。

 その通りで、滞在中の試合では、淳と村上の他に、星までもが投げて全勝していたのだという。

「ホッシーもか」

 なかなか打ちづらいアンダースローではあるのだが、それでも淳に比べれば打ちやすいはずだ。

 成長してきている。最終学年には、もう少し出番が増えるだろう。


 直史と武史がいなくても、いざとなればまた近藤が投げたりも出来るわけで、何より得点力は減っていない。

 ボロカスに点を取って勝ったので、もうこれ以上直史と対決したいなどとは思わないであろう。

 それにしても海外でまで、直史と勝負したがっているチームはあるというわけか。

 ただ今回の場合は、そういうものとも少し違う気がするが。


 続いて直史のピッチング練習に戻ると、打席に立っているバッターは、それだけでもいい勉強になる。

 同じストレートにしても、プレートのどこを蹴るかで、角度を調整するのだ。

 このストレートの角度と、プレートの位置を変えた変化球の角度を、わざと合わせたりもする。

(なんでこんなピッチングが出来るんだ?)

 コントロールがいいという程度の問題ではない。

 マシーンよりも正確だ。そもそも今のマシーンでは、こんなに変化球を投げ分けることが出来ない。


 


 武史は現在、遅い球の習得に励んでいる。

 もちろん単に遅いだけではなく、通用する変化量があり、速球との区別がつかないものだ。

 カーブ、チェンジアップと試してみたものの、カーブは上手くいかないし、チェンジアップもなかなか球速がこれ以上は落ちない。

 重要なのは、ストレートと同じ手の振りで、球速を大きく落とすこと。

 そして低めに落ちていくこと。


 握りを深くすれば、今投げている小スプリットになる。

 ボールの縫い目を調整しても、もうそれほど球速は落ちない。

 直史とはまた違う種類だが、お前もう、それ以上強くなってどうすんのという武史であるが、直史と違ってもっともっと支配的なピッチングが出来る可能性は残っている。


 一つ使えそうだと思ったのはカーブだ。

 武史は直史ほどに指先の感覚が精密ではないが、手首は柔らかいため、上手くカーブを抜くことは出来る。

 ただしカーブであれば、ナックルカーブが既にある。

 悪くはないのだが、違うタイプの変化球が欲しいとのこと。


 チェンジアップは上手くいかず、パームボールなども上手くいかない。

 そもそもフォークの握りそこねの、今のチェンジアップで充分ではないかとも思われる。

「一応球速が落とせて、変化もある球種はあるけどな」

 ただ、直史もそれは使っていない。

「どんな球?」

「ナックル」

 一緒に聞いていた樋口がげんなりとした顔をした。


 ナックルは、実はこの世で唯一の、変化球ではない変化球である。

 意味が分からないかもしれないが、理論的にはそう言えるのだ。

 

 変化球というのは変化させるために回転をかけている。

 その意味ではストレートは、重力に従って自然に落ちるボールを、ぎりぎりまで落とさないように見せる変化球だ。

 かかっているスピンの量は、それなりに多い。

 スプリットやフォークというのは、そのスピンがないので、ボールの伸びやキレがなくて落ちる。

 そしてナックルというのは、無回転のボールだ。


 無回転のボールがどうして、変化するのか。

 それはそもそもボールに、縫い目があることによる。

 無回転の状態で、風を受けたり大気中の湿度の影響を受けて、ブレるように変化する。

 だがそんな無回転のボールを投げるとなると、どうしても腕の振りが変わってしまう。

「近藤のストレートが参考になる」

 直史がそう言って、ああ、と樋口も頷いた。


 早大付属にて白富東と対決した近藤は、今は内野手となっている。

 もともと中学までは内野で、高校時代にエース候補がいなくなったため、そこそこ急造でピッチャーになったのだ。

 子供の頃からの投手経験がなかったせいか、あまり伸びのあるストレートは投げられなかった。

 だがやたらめったら打ち損じの多いストレートを投げていた。


 ムービングの一種かと思っていたら、実はスピンの少ない球で、そのため反発力がないので飛ばしにくく、微細な変化があったというものである。

 回転が少ないなら普通にスプリットになるのではと直史などは思ったものだが、握りやフォームを見せてもらっても、あれは再現できなかった。

 樋口などはいまだに、近藤はプロでも通用するピッチャーだと思っているが、本人は打つ方が好きなのである。

 同学年に直史と村上がいたため、ピッチャーとして必要とされなかったということも大きい。




 武史を近藤のところへ修行に出し、直史はナックルのことを考え始める。

 ナックルはほぼ唯一の直史が会得していない変化球であり、他の変化球で代用も出来ないものだ。

 日本ではあまり聞かないが、MLBではナックル専門の投手という者がいて、平気で200勝以上していたりする。

 直史としては、自分でもどう変化するか分からない球など、身につけてもあまり意味はないと思っていた。

 だが変化球を投げることが趣味の人間は、機会があれば挑戦してしまうのだ。


 ナックルの握りと、理論自体は分かっている。

 試しに投げてはみたが、普通に少ない回転の棒球になるだけである。

 樋口も最初の何球かは受けてみたが、すぐに飽きてきたらしい。

「そもそもナックルなんか身につけて、どういう状況で使うんだ?」

「それこそ他の球種のコンビネーションが通用しない時とか」

「そんなもんないだろ」

 呆れる樋口である。


 どこにそんなバッターがいるのだ?

「お前は強くなりすぎてしまったんだよ」

 そんな少年マンガのカリスマ的ラスボスのように言われる直史である。

「白石を四打席連続で打ち取った、NPBの選抜選手相手に勝てるお前が、これ以上強くなってどうするんだ?」

「俺が面白い」

「相手がいないだろうに」

 それこそMLBにでも行かないと、もう現在の技術を活かす相手などいない。

 ピッチャーとしての制圧力が、周囲のレベルから隔絶しているのだ。


 同じように隔絶した選手が二人いる。

 大介と上杉である。

 ついでにそれよりは下だが、やはり武史も常識の範囲を外れたレベルだ。

 樋口が思うに直史は、別に趣味で野球をやるのはいい。ただそのレベルが趣味の範囲でとどまらないので、これ以上鍛えてどうするのかという話である。


 牙が巨大になりすぎたがゆえに、滅びたと言われる獣がいる。

 直史のそれとは全く違う話であるが、突出しすぎた存在としては同じか。

 いや、別に直史は死んだりはしないが。

 とりあえず今後の人生を考えれば、これ以上野球の技術を身に付けるよりは、他のことを頑張った方がいいだろう。勉強とか。

「勉強の息抜きで野球してるんだよ」

 その息抜きでポッキリと折られてしまった人間が、どれだけいるのだろうか。


 


 秋のリーグ戦の間、直史は確かに勉強も忙しくなってきていた。

 サークルでは一部の天才が、法科大学院からではなく、一足飛びで予備試験を受けるという話になっている。

 司法試験を受けるためには通常、二年間の法科大学院の過程を過ごさなければいけない。

 だがその中の例外として、予備試験という合格率3%の難関試験を突破すれば、そのまま司法試験に進める。


 なおこの予備試験の受験資格はないので、中学生などでも、受けられるだけは受けられる。

 司法試験の合格率は、この予備試験合格者であったりすると、90%にまで達したりする。

 法科大学院から司法試験に進んでも、合格率はそこまで高くない。

 だが大学生でも、自信があればいきなり予備試験をうけて、そこから司法試験に合格してしまう場合がある。


 高校時代はこの予備試験ルートを考えていた直史だが、さすがに野球との両立は難しく、法科大学院のルートで行く予定である。

 一応予備試験も受けてみるつもりではあるが。

 ちなみに瑞希は、去年試しに受けてみて、見事に落ちている。

 彼女の場合は去年、執筆活動に時間を取られてしまったのが痛かった。

 あとは作品の映画化により、脚本の監修もしていた。直史と一緒に。


 各種奨学金を手に入れて、直史は一番多いルートから、司法試験に向かうつもりだ。

 どのみち大学野球をやれるのは、在籍四年目まで。

 そして法科大学院に進めば、土日も普通に潰れる。

 それでも、全然練習などをしなくても、直史はある程度の成績を残せるだろう。野球では。


 野球の道に入った方が成功するんじゃないかと、樋口でも思うぐらいの圧倒的な才能であるが、ピッチャーはどこかを少し痛めただけで、それで選手生命が終わってしまうことはある。

 とにかくリスクを回避する直史であるのだから、人生においてそういう選択をするのは仕方がないだろう。

 そもそも40歳までにはほとんどの選手が引退するプロ野球など、その後に30年はある人生を、どうやって過ごせというのか。

 40歳となれば、普通の男であれば子供も思春期で、仕事は働き盛りである。

 それなのにプロ野球選手なら、そこで人生の最も輝く時期が終わるというのか。


 そう言う意味では直史は、高校野球の監督になりたがったジンは、完全に理解出来る。

 だがたとえば樋口などに関しては、女を選ぶと決めたなら、社会人野球から企業で働く方を選ぶ方が良いのではないのかとも思うのだ。

 樋口の実力なら確かに、一億円プレイヤーになるだろうと直史は思う。

 だがプロ野球という遠征が多く、土日も休めない職業に就くのは、どうも良く分からない感覚なのだ。




 そんな直史が、勉強の息抜きに野球をやっている、秋のリーグ戦。

 第二戦は法教が対戦相手となる。

 法教は甲子園でも対決した顔が何人かいるチームだが、特に印象が強いのは瑞雲の武市だろうか。

 この秋からはどうやら、完全に正捕手となっているらしい。

 高校時代は坂本と組んだ時、なかなか厄介な相手になったものだ。


 ここの土曜日の第一戦は、先発が武史である。

 大学でもなかなか花開くことがなかった才能が、この秋にかけて急速に成長してくることなどもある。

 事実この日の四番に入っているのは、春まではベンチにも入っていなかった選手だ。


 直史は樋口と一緒に、スコアやビデオから、新戦力についてはそれなりに調べている。

 もっとも一点や二点を取られたところで、今の早稲谷の打線であれば、それ以上の点は取れるだろう。

 そう思って、のんびりしていた直史であるが、一回の表に武史は、立ち上がりも悪くランナーを出す。

 まだアイドリング状態であるが、それでも150km台後半は出す武史から、よくも打ったものである。


 だが、四番の一振りが、ボールを神宮のスタンドに運んだ。

「へえ……」

 武史がホームランを打たれるなど、いつぶりのことだろうか。

 紅白戦ならば西郷相手に、そこそこ打たれることはあるのだが。

「四番レフトの谷ね」

 データではなく、実感としてバッターの力を感じる。

 久しぶりに面白い対決が出来そうだなと考える直史であった。

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