第158話 ピッチャーの道
早稲谷の野球部には、セイバーの会社ほどのものではないが、トラックマンなどの分析により球質を判断することが出来る。
もちろんここでやってもらうまでもなく、直史はセイバーの会社でこれをしている。
辺見はここにおいて、先日の直史の試合の、各種データをクラブハウスの監督室で見ていた。
一球ごとのデータが、全てそろっている。
だが順番に見ていくより、表にしてみればはっきりとするのだ。
「気持ち悪いぐらいフォームが変わらないな」
正直に言ってしまう辺見だが、わざわざ紙に出力したデータを見ていると、嫌な汗が出てきそうになる。
直史のMAXは152kmと言われている。
ただし試合においては、150kmを平均的に投げている。
コースごとに変わることなく、インハイもアウトローも150kmだ。
そして時々投げる高めは、152kmが多い。
また球速とスピン量は、ほぼ比例しているのだが、スピン量はわずかな低下にもかかわらず、球速はだいぶ落ちるチェンジアップがある。
このチェンジアップをバッターは全て空振りしていた。
「完成されたフォームですね」
「それは入学してきた時から思っていた。だがまだどんどんと良くなっている」
辺見としては元ピッチャーだったので、その異常さがはっきり分かるのだ。
入学した時のフォームを見てみれば、今に比べてまだ全ての動作が大きい。だが驚くほどスムーズで、力の全てがボールに集まっているのが分かる。
それがコンパクトになっているのに、球威も球速も上がっているのだ。
体全体を大きく使った、見栄えのいいフォームであったが、今は構えてから投げるまでが早い、タイミングの取りにくいフォームになっている。
全ての球をクイックで投げているようなものだ。
直史が樋口からボールを返されて、次の球を投げるまでの時間は、最短で五秒。
返球と同時にサインを出して、キャッチしたと同時に頷いてそのまま構える。
審判のコールがあればほぼ一秒以内に、投球動作に入っている。
そこからボールを投げるのだが、タメがほとんどないように思う。
実際はあれだけの球威があるのだから、ちゃんとタメはあるのだろう。
だがそれは見ている方には分からないほどのものだ。
だいたい日本人の投手というのは、1・2・3でボールを投げる。
直史の場合は明らかに1から3までが一つの動作に見える。
こんなの打てと言われても、普通はかなり慣れないと打てない。
いつ出てくるか分からないバッティングマシーンを打つのと同じような器用さが必要になる。
そしてそんなフォームに合わせたスイングをしていると、自分のスイングを見失う。
球速以外の部分に、ありとあらゆる技術を取り込んでいる。
それでいて球速が遅いわけでもなく、球威は恐ろしく高い。そしてなにより球質がえげつない。
バッターに思い通りの打球を打たせるような、訳の分からない技術である。
マンガなどにはあったような、野手の正面に打たせるようなピッチング。
実際はあんなことは不可能であり、凡庸なゴロを打たせるのが精一杯。それも打者によれば内野安打にもなる。
しかし直史ならば、本当にそんな夢のようなことをしているのではないか。
大介や上杉が、野球のパワーの面では、記録を更新している。
それらはあるいは、数十年の人類の肉体の強化の果てに、さらなる成績が残せるのかもしれない。
だが直史のこの技術は、おそらく再現不可能だ。
「なんなんだろうなあ、こいつは……」
辺見は答えを待つでもなく、そんなことを呟く。
投げたボールの球速やスピン量を見ていると、明らかに人の手の微調整が入っている。
同じコースに投げたはずのストレートが、最初はファールにされていても、追い込んでからは空振りになっている。
明らかに球質を、意図して変えているのだ。
バッティングマシーンの構造上、縫い目の調整などがあるため、ここまで正確に球速やスピンの調整は出来ない。
だが人間の体が、これをやっているのだ。
球速だの、フィジカルだの、そういった点で明らかに常人から逸脱しているなら、それも才能と諦めがつく。
だが直史の場合はむしろ、筋力などは他のピッチャーよりも少ないのだ。
179cmで75kgというのは、野球選手としては細い。
まして150kmを投げられるのだから、平均的にはもっと筋力がある方が自然だ。
全身の筋力を上手く連動させてボールに伝える。
その効率がとんでもなくいいのだろう。
天才というよりは、人間の体をどこまで、ピッチングという行為に特化させられるか。
そんな実験を見ているような気分になる。
辺見にとって直史は、チームの中の選手の一人ではない。
たった一人で、あまりにも支配的なピッチングを行えるのだ。
チーム内では孤独なわけではないが、それでも孤高の存在だ。
連日の練習試合の中、辺見は一軍に帯同し、韓国へ遠征に向かう。
その間も早稲谷のグラウンドでは、他のチームを招いて練習試合を行う。
一軍主力でありながら、こちらに残っているのは直史と武史の佐藤兄弟。
だが樋口や淳などは、一軍に帯同している。
直史は軽めに流しているが、この秋のリーグ戦が、本格的に野球が出来る最後の機会かもしれない。
そのために東京に残っても、かなりの頻度で投げていく。
球速や奪三振は、直史にとって重要なものではない。
重要なことは球数と、失点しないこと。
より少ない労力で、相手打線を封じる。
そのために直史は、キャッチャーも育成する。
日本に残された下級生のキャッチャー相手に、直史は変化球を投げていく。
サインで球種は分かっているのに、それでも捕れない者は多い。
だが樋口や、小柳川は捕れるのだ。正確には小柳川は、捕れるようになったのだが。
キャッチャーとして当たり前に備えておかなければいけない技術は、何よりもまずキャッチングである。
バッティングだとか肩だとか、リードだとかはその後だ。
一年や二年のキャッチャー志望者を相手に、淡々と投げていく直史。
そのままだとあまりにコントロールが良すぎるので、たまに逆球を投げていく。
(仕方のないことかな)
キャッチャーというポジションの特殊性を、直史は最も理解しているピッチャーではなかろうか。
上杉や武史のようなパワーピッチャーは、ある程度コントロールが甘かったとしても、その球威で相手を抑えてしまえる。
直史もコンビネーションさえ使えば、それほど精密なコントロールはなくても大丈夫なのだ。
だが本当のコントロールだけで勝負すする選手や、変化球頼みのピッチャーというのもいるのだ。
「どうやったら佐藤さんみたいなピッチャーになれるんですか?」
直史は偉ぶらない人間なので、こんなことを尋ねてくる後輩もいたりする。
そんな質問をされても困るのだが、直史としては真摯に答える。
「まず大事なのは、目的も見失わないことだ」
どういったピッチャーになりたいかではなく、自分のなれる範囲で、最も試合に勝てるピッチャーをイメージする。
「才能とか素質とかはそこそこでいいんだ。大切なのは環境と、適切なトレーニングと、あとは運だな」
直史は上杉にはなれない。
だが上杉よりも、チームを勝たせるピッチャーにはなれる。
サウスポーであれば、それだけでピッチャーは有利である。
直史も左で、中学生ぐらいならば完封するピッチングは出来るが、大学野球で通用するようなレベルではない。
環境と適切なトレーニングと運。
直史は本気でそう思っている。
もしも中学時代にジンのようなキャッチャーがいれば、直史は普通に県大会ぐらいにまでは進むか、それでなくても一度も勝てないピッチャーにはならなかっただろう。
中学時代に全く勝てなかった環境が、直史の精神性を育てた。
適切なトレーニングと言ったが、スピードボールが捕れないキャッチャーのためには、コントロールを鍛えるしかなかった。
そして変化球を曲げすぎても捕れないキャッチャーなら、その変化量を調整する必要があった。
そこまでやって打ち取る当たりにしても、守備のエラーで点は入る。
一点も取ってくれない打線では、ピッチャーは絶対に勝てない。
上杉が甲子園で優勝出来なかったのと、似たようなコンプレックスを直史は抱いている。
ただ上杉の場合はその舞台が巨大であったために、その飢えを満たすための舞台を、プロのような場所に求めた。
直史は甲子園で満たされた。
あるいはあの日、勇名館に勝った時点で、ほとんどは満たされていたのかもしれない。
直史は言及しなかったが、ピッチャーに限らず野球選手に限らず、何かの道で一流となるのに必要なのは、モチベーションだろう。
モチベーションがあってこそ、正しい選択を調べることにつながる。
長い時間の練習をさせてもらえる環境、あるいは負荷の高いトレーニングが出来る環境。それらは必要なことだ。
あとはモチベーションが維持できれば、いくらでも練習やトレーニングをすればいい。
キャッチャーも出来る直史は、ボールを受けてそのピッチャーの特色を判断する。
「どういうピッチャーを目指してるんだ?」
「やっぱりコントロールと変化球で、バッターを打たせて取るみたいな。佐藤さんの高校時代のピッチング、あれでも打たれないわけですから」
ナチュラルに失礼なことをいうものであるが、別に失礼とも思わないのが直史である。
「球速を増すトレーニングを考えずに、そのままコントロールや投球術を考えるのか?」
ピッチャーの評価で一番分かりやすいのが、やはり球速であろう。
直史はもう、さすがに球速の上限には限界を感じている。
だがそのストレートの球質などは、いくらでも変化させていくことが出来る。
緩急を活かすためには、やはりストレートの球速が必要なのだ。
あとはどんな変化球を持つかである。
出来ることなら、三方向に変化する球がほしい。
右ピッチャーであれば、ナチュラルシュートとも言えるツーシームに、スプリットか縦のカーブ。
そしてスライダーか横のカーブあたりか。
加えるならチェンジアップも欲しい。
ボールの違いを感じさせるために、バッターボックスに立たせたり、キャッチャーをやらせたり。
あとは同じボールを繰り返した後、ストレートでわずかに球速を変えてみたり。
そういったものを見せ付けると、師事してきた下級生も、魂が抜けたような諦め顔になる。
「なんだかんだ言って、中二の秋から本格的にピッチャーを初めて、高校三年間と大学の二年間で、かなり進歩したからな」
成長期であったとはいえ、これは進歩ではなく進化であろう。
だが直史の場合は、この長い成長の前に、ひたすら投げ続けた過去があるのだ。
まずは球速を上げて、球質も上げる。
それが直史の出した課題である。
下半身の筋力の増加に、股関節の柔軟性と可動域の伸長。
上半身は体幹と、体軸をしっかりと意識すること。
肩の駆動域を広げて、全体をその駆動域がせばまらないように、筋力をつけていく。
個人によって最適なトレーニングは違うが、最低限それぐらいはしないと話にならない。
直史はもう慣れてしまっているが、未熟な学生アマチュアからしたら、このトレーニングは過酷である。
だがその先には確実な成長がある。
結局はこれを続けられるだけのモチベーションがなければ、求める姿にはたどりつかないだろう。
ある意味、人格は才能である。
環境によって育成された直史の、頑固な人格がなかったならば、ピッチングという作業をずっと続けることは出来なかった。
ただボールを投げるだけ。
その一つのことに、どれだけの意味をこめられるか。
脳筋で早稲谷に入ってきた選手には、哲学的すぎて分からなかったようである。
なお、直史の思想を一番理解しているピッチャーは、武史ではなく淳である。
現在は130km台の半ばの球速で、凡打の山を築くアンダースローになっている。
淳はコントロールよりも、緩急とコンビネーションを重視する。
もちろんある程度のコントロールも持っているが、直史ほどには固執していない。
そこまで絶対的なコントロールを求めるよりも、他に伸ばせる余地があるのだ。
キャッチャーにとては武史が残ってくれたことも、ありがたいことだったろう。
160kmオーバーのストレートを捕れるキャッチャーなら、たいがいのストレートは捕れるようになる。
ただ武史の場合は、試合が進むに連れて球威が増していくので、なかなか難しいものはある。
武史は今、変化球を増やそうかと思っている。
現在の球種は、カット、ツーシーム、小スプリット、チェンジアップ、ナックルカーブの五つである。
数としては充分なのだが、球速がもっと遅くてよく曲がる変化球が欲しいのだ。
ナックルカーブはストレートと同じように投げると、変化は大きいがスピードが出てしまう。
チェンジアップもまた、チェンジアップの名前にはふさわしくなく、140km近くも出てしまったりする。
スローカーブか遅いシンカーを投げたいなどと言ってくるのだが、直史としては頑張れとしか言いようがない。
武史は出力が強力な分、変化球を投げると肩肘に負担がかかる。
確かに武史がここで一気にコンビネーションを増やすには、遅い変化球が必要だろう。
だがそれなら、チェンジアップの速度をもっと落とす方法を考えた方がいい。
握りを変えて、ストレートと全く変わらないリリースからの、遅いボール。
サークルチェンジやバルカンチェンジなどの、変化の大きなチェンジアップ。
だがそんなものを身につけるには、意外なほどに武史は不器用である。
「ストレートを活かすための、遅い球か……」
そんな課題をちゃんと一緒に考えるのが、直史の兄としての器と言うべきか。
「スプリットとストレートの組み合わせに……やっぱりカーブかな」
カーブは抜くように手を振って、スピンをかける。
直史もストレートとの緩急差には、カーブを使ったものだ。
武史のフォームからでは、シンカーやスクリューは肘にダメージがありそうでもある。
限界を超えて全身がバキバキになった以外は、武史は直史以上に、怪我をしにくい体質と言っていいだろう。
ピッチャーなんてやっていれば、ちょっとした怪我はして当たり前なのだが、武史にはそれがない。
水泳をやっていたことで、体が柔らかいのがそんなにいいのか。
今年の秋のリーグ戦は、またも早稲谷が制しそうである。
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