第157話 進化を止めない機械

 夏の甲子園が終わり、直史が大学の野球部のグラウンドに戻ってきた。

 いくらなんでも休みすぎだと言いたくなる上級生もいるのだが、そうやって練習に出ていない間に、成長してくるのが直史である。

 それに母校の野球部を相手に、休み休みながらも試合前日は200球ほどは投げていたという。世界で一番豪勢なバッティングピッチャーとして。

 そして周囲をげんなりとさせる、新しいコンビネーションを生み出してきた。


 久しぶりの練習用ユニフォームに、身を包んだ直史。

 キャッチャー樋口にバッター西郷と、他の部員たちも集まって注目している。

 直史が身につけた新変化球は、原義的に言うならチェンジアップである。


 これまでも直史は、主に三種類のチェンジアップを使ってきた。

 普通のチェンジアップは、わずかに沈む。握りを変えてあまりパワーが伝わらないようにしたもの。緩急差で勝負する。

 そして落差の大きなチェンジアップ。サークルチェンジだ。これは沈みすぎてボールになることが多い。

 最後が減速が激しいチェンジアップ、スルーチェンジである。


 西郷を相手に、ストレートとスルーでカウントを整え、三球目。

(遅い!)

 チェンジアップだと知らされていた西郷は、ボールの軌道を予測してスイングする。

 そのバットの上を、ボールは通り過ぎて樋口のミットに収まった。


 魔法のような球である。

 球速は140km弱で、まあ普通の速球系変化球のスピード。

 だが、落ちないのだ。

 指を最後まで縫い目にかけて、こころもちバックスピンをかけるように投げる。

 するとボールが、球速の割には落ちない。

 さすがにホップするようにまでは見えないが、伸びているようには見える。

 球速は落ちているが、スピン量はほとんど落ちていないので、伸びているように見えるのだ。

 確かにチェンジアップの一種ではある。

「だがこれは、一種のストレートじゃないのか?」

 辺見の指摘は正しい。


 この球だけを投げるなら、球速の割には伸びのいいストレートで、少し慣れたら普通に打てる。

 だが他のチェンジアップやストレートと組み合わせると、確かに打てない球になる。

「試してみる必要があるな」

 辺見としては実戦でこれがどのように通用するか、想像するだけでワクテカものなのであった。

 諦めた元ピッチャーは、今は素直に野球を楽しんでいるらしい。




 社会人野球のチームとの練習試合に、直史は先発する。

 ちなみに夏休みの終盤には、韓国の大学に遠征する早稲谷なのだが、今年も当然のように直史は不参加である。

 なので夏休みの間は、二軍が大学で行う試合に出ることになる。

 だがこの試合はまだ、一軍の試合である。


 甲子園が終わればプロのスカウトは、いよいよリストの絞込みに入る。

 だがそれでも、ぎりぎりまで選手を見るのがスカウトである。

 特に東京近辺の在京球団だと、移動する範囲も狭ければ対象も多いので、本当にギリギリまで見ているスカウトもいる。

 これはもう仕事ではなく、単純に趣味ではあるのだが。

 対象の選手が怪我をしないかなどということは、ギリギリまで調べる。

 特に大学野球は、これから秋のリーグ戦なのだ。

 あとは来年のドラフトに向けて、表に出てくる選手たちも見たりする。


 早稲谷のグラウンドには、もちろん西郷を見る人間が多いのであるが、次の年もその次の年も、注目されている選手はいる。

 直史はプロ志望ではなく、どうにかそれを引っ張りたいと思っている人間もいるが、同学年には近藤や土方などといった選手もいるのだ。

 そして樋口である。


 ここまでの樋口のリーグ戦の打率は、三割に満たない程度である。

 そして練習試合などのオープン戦では、さらにその打率は低かった。

 だがプロ志望に変更した後の成績を見れば、一気にその打力が上がっているのが分かる。

 プロに行かなくてもいいと思っていた頃は、試合にさえ勝てば自分は打たなくてもいいと思っていたのだ。

 だが早稲谷の選手の中で、一番決勝打を打っている数が多いのは、西郷でも近藤でもなく樋口である。


 必要のないときには打たない。

 だが殺す時は一撃で殺す。高校時代はそれで通していた。

 六大学リーグでもそのやり方が通用しているのが、樋口の能力の高さを示している。

 今は自分の価値を高め、プロ入り後に与えられる機会を増やすために、積極的に振りにいっているのだ。


 


 対戦相手を迎えた試合なので、当然あちら側からの攻撃となる。

 社会人野球では歴史のある、生命保険会社の実業団チーム。

 ドラフトで指名されるであろうバッターも二人いる、かなり強力なチームである。

「確かアマチュアの大会では優勝してるんだったか?」

「そうだな。まあ今回はあえて、相手チームの情報を遮断してやってるわけだが」


 直史と樋口はこの試合、準備をせずに臨んでいる。

 だがそれでも勝つつもりでいる。

 相手を甘く見ているというわけではなく、単に練習試合なのだ。

 ならば負けてもいいやり方で、勝負が出来るというものだ。


 本日の課題は、ストレート系のボールだけで、どれだけのピッチングが出来るかということ。

 目指すのは積極的に三振を取っていくことで、変化量の大きな変化球は使わないこと。

 求めるのは至高のピッチングである。


 一回の表、先頭打者の初球から、糸を引くようなストレートが、アウトローに決まる。

 ガンで測ったスピードは148kmで、それほど突出したものではない。

(速い!)

 だが打席の中のバッターは、155km程度の球速に感じていた。


 二球目も全く同じコースに、同じストレートが決まる。

 タイミングを計ったつもりであったが、上手く振ることは出来なかった。

(なんだ? 確かに速いんだが)

 この速さは、球速ではない。

 タイミングを計ろうとすると、既にボールが来ている速さだ。

 つまり、速いのではなく早い。


 三球目はまたも同じコースで、振ろうと思った瞬間には、ボールがミットに収まっていた。

 まるで魔法を見せられたような気分であった。

「最後ぐらいは振らんといかんだろ」

 ベンチに戻って監督にそう言われても、不思議な体験をしたとしか思えない。

「いや、なんだかおかしいんです。たぶん次も」

 言葉に出来ないあれは、いったいなんなのか。

 完全にタイミングを外してくるストレート。

 二番打者も三球三振で帰ってくる。

「お前、ボールのすんごい下振ってたぞ」

「そうなんです。チェンジアップと思って振ったら、普通のストレートというか、むしろ伸びてきて」

 二人連続でこの感想だと、監督も注意せざるをえない。


 だが三番はドラフト指名確実と言われている、チームの最強打者。

 ヒットメーカーのその打棒に対して、どんなピッチングをしてくるのか。

 内角の球を二球ファールにしてしまったあと、ほぼど真ん中の球を振り遅れた。

 これで三者三球三振である。


 投げたのは全てストレート。

 ただチェンジアップ気味のストレートもあったのだ。

 しかしチェンジアップにしては、妙に伸びがあった。

「チェンジアップが沈むならともかく、浮くというのは意味が分からん」

 当たり前の話であるが、それに対しては空振りしたバッターが首を傾げる。

「昔、マンガでそんなピッチャーがいたんですけどね」

 とりあえずは守備に就かなければいけないので、後回しである。




 早稲谷側ベンチの辺見としては、もう呆れる他はない。

 ストレートだけで、本当に抑えてしまった。

 しかも三者三球三振で、無駄球が一つもない。

 化け物っぷりに拍車がかかることは、長期で休暇を取った後は、常に起こる直史の常識である。

 ここまで成長して、まださらに爆発的に成長をする。

 成長限界が見えない。

 球速の限界はあっても、ピッチングというのは球速だけではない。

 そんな技巧派のようなことを言いながらも、ストレートの球質が爆発的に上昇しているのだ。

(化け物か! ……化け物だよな)

 もう完全に諦めた顔で、直史を生温かく見つめる辺見である。


 社会人野球でもピッチャーをするような選手は、昨今150kmを出してきたりする。

 ただ早稲谷のレギュラーは、スピードボールには完全に慣れている。

 そして同じく、変化球にも慣れている。


 先頭の土方がクリーンヒットで塁に出るが、二番山口が強攻して珍しくダブルプレイ。

 三番の沖田がまたヒットを打って、ランナーがいる状況で西郷である。

 プロ入りはともかく、社会人として10年を過ごしてきたピッチャーは、ここで全力の勝負をする。

 そして全力のストレートを打たれる。


 力任せのピッチングでは、より大きな力の前には敗北するしかない。

 ネットに届いた大きなホームランで、まず二点先取である。

 五番の近藤もヒットを打ったものの、樋口は粘ったものの三振。

 意図的に球数を投げさせる打席であった。


 趣味が悪いなと思いつつ、直史は悪逆非道のピッチングを続ける。

 二回にはさすがにボールを前に飛ばされたが、サードフライでスリーアウト。

 さすがに普通のストレートは打たれるな、と考える。


 ストレートもまた、スピンをかけるという点では変化球。

 そしてストレートもまた、一人一人に特徴がある。

 現在のいいストレートというのは、回転軸が真っ直ぐであり、バックスピンのスピン量が多いストレートである。

 だが本当にいいストレートというのは、平均からどれだけ逸脱しているか。

 伸びのない垂れるストレートでも、それが相手の打ち損じを誘うなら、よいストレートであることは間違いない。

 また回転数は多いが軸がずれていれば、左右のどちらかにはわずかに変化する。

 ただそれを変化量ごと、パワーで打ってしまうことも出来る。


 直史が知る中で、あるいは世間が言う中で、最も究極に近いバッターである大介は、そのミートは極論してしまえば、当て勘であった。

 驚異的な動体視力で、リリースされた瞬間のボールの軌道を頭の中で描く。

 これまた驚異的な空間把握能力で、その空間の一点を、バットで叩くのだ。

 叩いた瞬間の切るという表現は、直史にもいまいち理解出来ない。

 ただあのスイングで、ボールにかかっているスピンを上書きしているのでは、という結論を解析の結果は出していた。




 圧倒的な投球内容。

 早稲谷はベンチメンバーにも経験を積ませるため、ほとんどのメンバーを交代している。

 だがバッテリーのみはそのままだ。


 人間が技術で出来ることが、どのレベルまでなのか。

 直史は指先で、スピン量を調整する。

 ボールにパワーをかけるのと、スピンにパワーをかけるのと、二種類の力の作用がある。

 ある時は完全にタイミングを外されるチェンジアップで、ある時は完全に軌道が外れるチェンジアップ。

 一応握りだけで変化するツーシームなども使っているが、究極的には今日は上下の変化だけを使っている。


 沈むボールと、沈まないボール。

 そしてまるで浮き上がるかのように錯覚するほど、沈まないボール。

 前に飛ばされるのはやはり、平均値に近い軌道のボールだ。

 あとはスピードがなくても、スピン量と回転軸で三振が取れる。


 もちろんコースも重要だ。

 低いと思って見逃した球が、ゾーン内に入ってくる。

 野球を続けてきた先取の頭の中には、自然とストレートの軌道が出来上がる。

 一瞬で読むその軌道を、直史のボールは外れるのだ。


 終わってみれば打者27人に対して、24奪三振。

 残りのアウトは全て内野フライである。

 そして投げた球数は84球。

 81球以内の完全試合という理想には、まだ届かない。

 

 社会人でまで野球を続けられる選手というのは、アマチュアの中では最高の野球エリートである。

 チームの平均値は間違いなく、大学よりも上である。

 だがそれでも、直史は打てない。


 打てないだろうこと自体は分かっていた。

 だがここまで三振を取るとは思っていなかった。

「やっぱり最初の二球目までは内野ゴロを打たせるピッチングで、追い詰めたら積極的に三振の方がいいな」

「そうだな。球数をいかに増やさないかということが、一番大事だ」

 化け物バッテリーが、ストレート系だけで試合を終わらせた。

 球速の変化ぐらいは分かるのだが、速球だけではなく中途半端なストレートでも、バットがボールに当たらない。


 ピッチングのコンビネーションは、バッテリーの共同作業。

 樋口の期待に直史は完璧以上に応えられる。

 黄金バッテリーと言うよりは、もっと何か禁忌に近い、禍々しい存在だ。

 ここまでバッターの心を折るピッチングなど、技巧派のピッチャーでは不可能だろうに。


 武史のような、人間の限界に近いようなボールとは違う。

 直史の投げるボールは、それぞれのボールは投げられるピッチャーはいるだろう。

 だが一人のピッチャーがそんなことをするのが、常識から外れているだけで。

「秋もまた、うちが優勝するか……」

 嬉しいはずの自軍の戦力拡大に、なぜか溜め息をつきたくなる辺見であった。

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