第142話 閑話 帰郷
全日本の後に行われる日米大学野球選手権大会。
アメリカで行われるこの試合に、当然ながら直史は参加しない。
そもそもアメリカはともかく、日本は普通に授業がある日程なのに、平気でそれに参加するという方がおかしいのである。
もちろん将来的に野球に関わる仕事を行うならば、それも無駄ではないのだろう。
つまり直史には関係ない。
同じく武史もどうでもいいと言うか、アメリカに行ってまで野球をやりたくはなかった。
特待生だからといって野球が勉強に優先し、野球が生活の中心になるなど、ご免被る。
才能の無駄遣いと言うよりは、そもそも相手のアメリカの大学などは、そんなに練習をしたりはしていない。
日本の練習は長いだけで意味がないとは、よく言われることである。
自分が納得しないことはやらないという点では、この弟は兄に良く似ている。
「とか言って、アメリカに行っても今はNBAがシーズンオフだからだろ?」
「……それもある」
兄にすっかり見抜かれているが、確かにそれだけというわけでもないのだ。
大学の授業料や寮費などは、全て野球で結果を出すことで得てきた。
だが別にアメリカに勝っても嬉しくはないというのが、武史の正直なところなのである。
去年の試合でアメリカの大学のレベルを見切ったのは、直史だけではないのだ。
メジャーに行けばまた話は別なのだろうが、大学レベルのバッターはもう敵ではない。
これ以上プロのスカウトにアピールする意味もない。
アメリカまでさすがに恵美理が応援に来ることは難しいし、その応援がないなら気が抜けて打たれてしまうかもしれない。
樋口はもう少しアピールするために、出場するらしいが。
アメリカ代表は年度の始まりの違いと、ドラフトの指名があるため、三年生以上は出てこない。
もっともそれで去年は直史に、完全試合とノーヒットノーランをされたわけだが。
ピッチャーやバッターに比べると、キャッチャーがその年の目玉になることは少ない。
はっきり言ってしまえば野球の技術以外に必要なものが、キャッチャーには多く求められるからだ。
チームの頭脳にならないといけないし、自軍の多くのピッチャーまでしっかりと把握しておかなければいけない。
それに加えてキャッチャー適性が少なくて打てる選手なら、コンバートされる可能性もあるからだ。
樋口はキャッチャーとして、間違いなく大学レベルでは超一流だ。
だがピッチャー以上に競争が激しいこのポジションで、ドラフト一位で指名されるのは難しい。
実のところはどの球団も、キャッチャーの若返りを考えているところは多いのだが。
ピッチャーや他のポジションと比べても、完全な専門職であるキャッチャー。
12球団において正捕手はほぼ一人で、12人しか枠がないのだ。
そこで使ってもらうためには、己の有用性をとにかく示していかないといけない。
現実的に考えれば、よほどの自信家でもそれは避ける。
樋口だってあの竹中だって、大学で野球はやめるつもりだったのだ。
だが高いレベルに戦ってみて、遂に自分のレベルがどこにあるか分かった。
樋口はプロに進む。
おそらくそこで、栄光をつかむことになるだろう。
直史以外にも武史や星、淳などに加えて、日本代表となって様々なピッチャーの球を受けた樋口には、その資格がある。
WBCではプロのピッチャーの球も受けているだけに、スカウトの判断もしやすいだろう。
こと難しい実績をいうものを、既に樋口は積み重ねているのだ。
直史の直感からすると、一位指名はさすがに難しい。
だが二位までに狙っている球団は、必ずあるはずだ。
全日本が終わったが、直史にとっては重要なのはテストである。
要領よく単位の取りやすい講義だけを受けるというわけにはいかなかったため、直史の受けるテストは多いし、書くレポートも多い。
「かなり佐倉さんに手伝ってもらったね?」
「はい」
嘘はいけないので、教授に呼ばれても素直に答える直史である。
手伝ってはもらったが代筆はしていないし、考えの筋道も結論の立て方も違う。
「合理的ではあるが、合理的なものが正しいわけではない。よく書けていると思うけど、こういう考え方は野球から学んだのかね?」
直史は少し考えたが、普通に答える。
「むしろ逆です」
「逆とは?」
「普段考えていることで、野球を行うということです」
直史は思考の範囲が広く、出す結論も柔軟である。
こういう人間が、やはり天才と呼ばれるのだろうな、と教授は思った。
四年目から大学院に入るとしても、野球部への参加に問題はない。
むしろ野球ばかりしている野球部の人間が、よくちゃんと四年で卒業できるものだと思ったりもするのだが、そこは蛇の道は蛇である。
講義の受講だけで単位がとれる授業や、レポートの代筆が黙認されている授業。
また毎年同じ試験をする講義などもあるので、そのあたりで単位は取得していくのである。
また野球部つながりで就職することも多く、多くの一流企業には早稲谷の派閥というものがある。
このあたり直史は、そういったルートが一切使えない選択をしているわけである。
プロ野球選手も目指しておらず、はっきり言って自分の能力が高くないと困る職業なため、自分自身で勉強をする必要がある。
それでも野球も勉強もどうにかなっているあたり、基本スペックが高いなあと瑞希などは思うわけだが。
彼女も色々仕事をしているのに、ちゃんと勉強もしているので、もちろんスペックは高い。
ただ直史の場合は頭脳労働と肉体労働が別なので、そのあたりは広い分野に才能があると言えるだろう。
変に偉そうにすることもなく、ただ堂々とはしている。
そんな直史に教授は問う。
「佐藤君は予備試験は受けないの?」
「さすがに今年の段階では、合格すると思えませんでしたから。ただ来年は一応受ける自信がつくところまで、勉強しようとは思っています」
「大変だねえ。野球部の練習なんて終わったら、もう眠くて仕方ないんじゃないの?」
「勉強優先でやっているので、それほどには。体力はつきますし」
「けれどまあ、甲子園であれだけ活躍して、プロには行かないってのも珍しいんだろうねえ」
「どうでしょう。知ってる人に甲子園で準優勝したチームのキャッチャーで、慶応の医学部に入ったやつがいますね。そいつはもう野球は完全にやめてますけど」
「甲子園まで行って、それで現役合格? 医学部をね。そりゃあすごいなあ」
野球以外の価値観というのが、いくらでもこの世にはある。
直史の根底にあるのは『家』だろう。祖先から受け継いできたものを、後世に残していく。
村田にしても親の家業を継ぐという点では、家のつながりと言っていい。
舞台を野球にしているだけで、セイバーなどは経済を根底に活動しているし、逆に野球に全精力を傾けている者もいる。
野球に全てを賭けるのは構わないが、それを他の人間にも押し付けるのはやめてほしい。
直史は四年目、大学院の方の講義を受けることになる。
早稲谷の法科大学院は、二年でその内容を教えるわけであるが、自力で勉強をしないとどうにもならないレベルにもなる。
順調な未来のために、おそらく直史は、四年目は野球にかける労力を少なくするだろう。
直史は自分のことを、何をしなくてもどうとでも出来る天才などとは思っていない。
やればやるだけしっかりと身につくというのは、それも充分天才のうちであるのだが、やるべきことはやっているのだ。
活躍出来るのは三年の秋まで。
それ以降は試験の日程などもあるため、野球部の優先順位は後になる。
人は生活が変われば優先順位も変わるのだが、野球選手でなければ野球を後回しにするのは当たり前のことなのだ。
直史は後に色々と思い返すのだが、勉強を第一に考えなければいけない大学で、野球ばかりしている人間には、一番違和感を感じたものだ。
そこからふと気になって、野球の歴史を振り返ってみると、軍隊教育との類似点を見つけて、自分がプレイした環境は良かったんだな、とも思ったものだが。
そして、夏が来る。
大学生の夏休みは長いが、サークルやゼミの活動のため、丸々休むという人間は少ない。
それでもお盆前後には帰郷する予定を立てた直史である。
あとは今年も甲子園進出を決めた母校に寄って、無料でバッティングピッチャーをやったり。
大学で野球をやっているより、こういった野球の方が面白いというのはなんなのか。
「去年は惜しかったですね」
今の白富東のメンバーで、直史が知っている顔はもう、秦野以外にはいなくなっている。
違う意味で知っている顔としては、国立がいるのだが。
直史もてっきり北村がそのまま赴任するのかと思っていたのだが、公立校の教師には必ず異動がある。
一人の教師がずっと同じ学校にいると、色々と変な癒着などがあったりするという、そういう配慮からなされたものだ。
実は一般の教師は新任で三年、それ以降は五年ごとに基本的には異動があるのだが、教頭や校長は二年が基本になっている。
ただ鶴橋のような野球部顧問としての特殊能力があると、特定の学校を往復するような異動になる。
北村の場合はここで白富東に来ると、三年で異動しなければいけない期間と、国立が五年で異動する期間が重なってしまうから、最初は上総総合に行ったのだ。
鶴橋という、確実に県下の野球部監督としては最も長い経験を持った存在の下、部長として野球部の活動を把握するというのは悪くない。
「今年もプロ入りするやつ出ますか?」
「ああ、あいつな。確か卒業する前に、スポ薦で少し投げてやったんだろ」
「いましたね。フィジカルモンスター」
直史が自分は天才ではないと思う、一つの指標。
それは柔軟性以外の筋力測定などでは、傑出した数字を残さないからだ。
ただ、素質と才能とは違うものだろう、と秦野は言う。
天才とそれ以外の差は、単純な肉体的資質ではなく、一つのことへ集中して何かが出来るかだ。
その意味では直史は天才だ、と秦野は言う。
直史にとってみれば、せっかく自分よりもずっと優れた才能を持っているのに、どうしてそれを上手く伸ばしていかないのかが不思議なのだが。
その上手く伸ばす能力というのも、やはり才能であるのだ。
そう言われると直史も、まあそうかなと納得せざるをえない。
他人のやっていることをしっかりとやった上で、自分にしか出来ないことをもっとする。
天才とか才能とかいう以前に、それこそが上手くなるための手段であるのだ。
直史の場合は確かに、練習量が多かった。質も高かった。
セイバー以前から白富東は、時間を有効に使うことには厳しかった。
やっぱりここだな、と直史は思う。
大学の野球部には、全く帰属意識がない。だから横暴なOBがやってきて問題になりそうでも、全く躊躇はおぼえなかった。
だが白富東が甲子園に行くのは、素直に応援してやりたいと思う。
中学の野球部になど、卒業後は一度も行ったことはないが、白富東には帰郷のたびに訪れる。
直史の野球の原点は、ここにあるのだ。
「実際のところ、ことしはどこまで勝ち進めそうなんです?」
国立も聞こえない、練習を見つめる直史は、小声でそれを尋ねる。
去年は惜しかった。決勝まで進んだし、勝ってもおかしくなかったのだ。
もし勝っていたら、センバツで負けて連覇は途切れていたものの、夏の大会は三連覇となっていたのだ。
そんな成績が残せていたら、甲子園の体制が現在の学校制になってからは、初めての快挙であった。
「正直、分からん。そこそこ強いところと当たれば一回戦で負けるかもしれないし、潰し合いがあれば優勝できるかもしれない」
去年のよりも総合的な戦力は劣ると思う。
だがぎりぎりのところで何が起こるか分からないのが、甲子園という場所なのだ。
「お前も見に来るか?」
「そうですね……。決勝まで進めば、ちょっと見にいくかな」
「お前も忙しいだろうしなあ」
「そうでもないですけどね」
余暇というのは、自分の力で作るものだ。
どうせ社会人になれば、そうそう時間も持てないだろうし。
このあたりは携帯電話の普及は、人間を不自由にしたと言えるかもしれない。
ちなみに瑞希も同じ時期に帰郷して、ふたりで一緒に海に行く。
千葉は三方向が海のように見えるが、実際には海水浴をするなら、それなりに移動しなくてはいけない。
こういう時にはやはり、車の免許があると便利なものである。
「それはいいが、どうしてお前らも来てるんだ?」
「ごめん」
「すみません」
「いや、タケと神崎さんはいいんだけど、お前ら二人」
「だってねえ」
「大介君はねえ」
武史と恵美理を連れて行くのは別にいいのだが、ツインズはなぜいるのか。
それは簡単な理由で、大介の仕事であるプロ野球選手には、夏休みなどないからだ。
盆休みさえないあたり、本当にひどいものがある。
その分、二ヶ月の間は丸々休みになったりするわけだが、そこで本当に休んでいたら、すぐにポジションを奪われるのがプロの世界だ。
大介ほどになるとそんな心配はないのだが、油断してだらだらするのと、そこでさらに自分を鍛えるのとで、プロでの稼動年数は変わるだろうし、さらなるステージに上がることも出来る。
あいつは本当にすごいやつだな、と直史は思う。
それに危険な妹たちを押し付けてしまって、申し訳ないともありがたいとも思う。
だが同時に大介以上のバッターがいないなら、別にもうプロには行かなくてもいいかな、と思うのも本当のことなのだ。
シーズンを通して戦うならば、また違った姿を見られるのだろう。
だが大介との勝負はもう、あれで終わりだ。
今度対決するのは、大介が現役を引退し、草野球でプレイするようになってからだろう。
かくして直史の夏はすぎて行く。
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