第137話 かつての味方が今日は敵

 またも早稲谷の全勝優勝かと、六大学の半分が思っている中で、諦めていないチームもある。

 帝都大は、正確に言えばジンは、間違いなくそうである。

「勝機は一つ、辺見監督のピッチャー運用の失敗に付け込めるかどうかですね」

 作戦部長的な活動をすることが多くなったジンである。

 プロ球団ともコネがあり、佐藤直史を最も知る者として、ジンの立場は強固なものになっている。

 次のキャプテン。

 それを狙いつつも、今の正捕手は石川に素直に譲っている。

 リードの読み合いならば、互角か上回る自信がある。

 だがそれよりは監督の傍の作戦参謀として、試合全体を俯瞰して見るのだ。


 石川もまた帝都一の正捕手として、強力で技巧にも優れたキャッチャーである。

 だがバッティングのセンスがないのは、ジンと同じである。

 なので、分担だ。

 ジンはこの春のリーグ戦、直史のモチベーションの低下を感じている。

 高校時代もあえてマウンドに固執することはなく、それでいて他の誰かには無理と思えば、そこから絶対にマウンドを譲らない。

 初めてのセンバツで負ける前、関東大会で負けた時も、完全な無表情になっていた。

 敗北は直史に沈黙をもたらすが、自分がいなくても勝てる試合には、直史は出て行かない。

 そしてそのモチベーションの低下をどう感じたのか、辺見は直史を多用しようとはしていない。

 ただ、今は直史は休んでいるだけなのだ。ジンにははっきりと分かる。


 そしてどんどんと力を溜めていって、いざ戦う価値のある相手に、全てをぶつけていく。

 そこで起こるのは惨劇である。佐藤直史劇場だ。

「佐藤は……すんげえ傲慢なやつだな」

 その言葉はあながち間違いではないだろう。

 だがその傲慢さは、実力と結果に裏付けられている。


 直史自身には、全く油断などはない。

 だがその最強の駒を使う者がヘボであれば、鬼駒であっても活かしきれないのだ。

 単純に目の前の試合の勝敗だけに、全てを注ぎ込む。

 今の早稲谷は強すぎるがゆえに、逆に新しい世代のことを考える余裕が出てきてしまっている。


 それに高校時代の経験から、直史は勝てると見込んだ試合は、先発で投げようとはしないのだ。

 甲子園でも先発で投げたことはもちろん多いが、リリーフとして登板した回数も多い。

 あれをリリーフとして使えるようなチームであったからこそ、最後の一年は神宮から国体までを無敗で終えられたのだろう。

「奪三振記録なんて、再来年に作ればいいんですよ。どうせナオがいなくなったら、土日だけで二勝するのは難しくなるんですし」

 奇妙なことだが記録を作るには、お互いにある程度の実力の均衡がないといけない。

 あまりにも一方的であると、たとえば高校の地方大会では、コールドで勝負が決まってしまう。


 とにかく大前提としておかなければいけないのは、直史が先発で来たら負けるということである。悲観的すぎるがそれぐらいでいい。

 あれがもし負けるとしたら、試合中に怪我で交代するか、盲腸などのどうしようもない病気で休むぐらいしか考えられない。

 そしてそんな奇跡的なタイミングは、考慮するべきではない。

 直史以外のピッチャーを叩いて、そして勝つ。

 ただ終盤にリードしていれば、直史は簡単に連投して、そのままクローザーとしての役割を果たすだろう。

 そんな直史を辺見は、六回までを投げてお役ご免、三回だけを投げるリリーフと、もったいない使い方をしている。

 勝っているので問題はないのだろうが、この間の試合はベンチを暖めるのみと、まるで干したかのような状況に置いている。


 もちろんそんなはずはない。

 逆はありえる。直史が辺見を見放した場合だ。

 ただ基本的に直史は、対戦相手以外には慈悲深いので、気分を害しても登板拒否などはしないだろう。

 故障しているならば話は別だが、そんなわけではないらしいし。


 直史相手にはもう負けると考えて、他のところで勝つことを考える。

 序盤の武史からなら、なんとか一点ぐらいは取れてもおかしくない。

 あと淳や他のピッチャーを見ても、一点ぐらいは取れるはずなのだ。


 ただその一点だけを守って、試合に勝てるのか。

 それは無理だろうと考えられているのが一般である。

 四番の西郷はいよいよホームラン記録の更新が現実的に見えてきたし、早大付属のカルテットはどいつもこいつも、単に打つだけではなく嫌らしい。

 あとは本当に必要なところで、確実に打ってくる樋口。

 それまでタイミングが合っておらず、今日は不調なのかと際どい場面で勝負すると、ほぼ八割がた打ってくる、クラッチヒッターと言うよりは、クラッチバッター。

 ヒットでは足りない場合は長打を打つという、異常なまでに勝負強さを持っている。


 そんな強力打線を相手に、どうやって勝つというのか。

「これが集めたデータを分析して導き出した、早稲谷のバッターの攻略法です」

 既に去年の秋からずっと、情報を収集し、分析し、出来上がった攻略法である。

 人手も時間も労力もかかったが、それでもこの攻略法は、すぐに使えなくなるだろう。

 分析して攻略して、さらにそれに対応してと、大学野球は情報戦のイタチゴッコだ。

 それでもここで勝って、また優勝を狙う。


 帝都大はここまで勝ち点はしっかり取ってきているが、慶応大相手には2-1であり、勝敗の数では早稲谷に負けてしまう。

 逆に言うと早稲谷から勝ち点を奪えれば、優勝もしっかりと見えてくる。

 早稲谷のバッターの攻略は、おそらくこの一シーズンしか通用しない。

 だがそんな短期の勝負を重ねていくのが、大学野球なのだ。


 今の早稲谷は、確かに強いのだろう。

 だが最強と言われたチームでも、勝ち点を得るためのリーグ戦は、短期決戦に近い。

 ならば甲子園と同じように、下克上も充分にありうるのだ。




 帝都大が早稲谷から、勝ち点を得るための条件。

 まず土曜日に直史が登板してこないこと。

 これは武史が先発してきたことで、条件が満たせた。

 そして武史から、先制点を取ること。

 その先制点がそのまま、決勝点になるのかもしれないが。


 投球練習を見ているだけで、そのボールの威力が上がったのは分かる。

 最速は166kmなのであるが、けっこう調子にムラがあり、そのMAXはなかなか出ない。

 ただ球速はともかく、球質は確実に、試合の中盤から上がっていく。


 スロースターターと言っても、あくまでも武史の能力の絶対値を基準としたものであり、序盤でも並のピッチャーよりははるかに上だ。

 160kmのストレートを、キャッチャーの樋口がリードをして、しっかりと完封する組み立てをしてくる。

 だが樋口も基本はデータ重視のキャッチャーで、いざという時には自分のバッティングと同じように、バッターの思考の裏を書いてくる。

(さあ、この初回が最大のチャンスだぞ)

 樋口はおそらく、バッターを実際に迎えたときの調子の確認のために、初球はストレートを要求してくる。

 そのストレートを、初球打ちで叩く。

 難しいかもしれないが、まずはそれが必要なのだ。


 綱渡りのような作戦。

 だがそこに、勝利への唯一の道がある。




 何か変だな、とは感じていた樋口である。

 元々武史は序盤で打たれたり、あと一イニングで終わりというところで打たれたり、ぎりぎりのところで締まらないキャラクターであった。緊張感が足りないのだ。

 だが今日は初回の連打で得点を許してしまった。

 そもそもこれまで、試合全体を通してさえ、一点を取られることさえ珍しかった武史である。

 特にリーグ戦は気が抜けないので、まず一点も取られない。


 それが初回で一点。

 まあ点を取られたことで、逆に武史はしゃきっとしたようにも感じる。

 今日も彼女が見に来ているので、失態を見せ付けられた帝都大に対しては、八つ当たりでしかない怒りを燃やし始めている。

 こんな安定感のないピッチャーをエースにして、よくもまあ白富東は春夏連覇を果たせたものだ。

「逆に考えるんだ。女の子の応援があれば、負けないやつだと」

「な、なるほど」

 直史の説明には、妙な説得力があった。

 だが武史は甲子園こそ連覇したが、それ以外ではそこそこ負けている。


 樋口の違和感は、一回の裏の攻撃から、さらに顕著なものになった。

 早稲谷の誇る付属出身の三連星が、打たせて取る形で凡退してしまったのだ。

 もちろん研究はされているのだろうし、キャッチャーの石川のリードもいいはずではある。

 ただ、なんとなく違和感があったというだけだ。


 この日は投げる予定のない直史は、ベンチの中で判例集などを読んで勉強をしている。

 こいつはこいつで何をやっているのかと思うが、ともかく今は相手のことである。

 二回の表から、武史はスイッチが完全に入った。

 点を取られたら本気出すとか、樋口にとっては精神的に疲れさせるピッチャーではある。

 ただ大学入学後も、球速だけでなく色々な技術も伸びている。


 三振の記録を伸ばすつもりなのか。

 武史ほど投げ続けていれば、記録に届くのではないか。

 六大学リーグの通算奪三振記録は476個。

 それに対して武史は、一年の時点では139個。

 ペースで言えば充分に狙っていける。

 もっともそれを言うなら直史も、先発として使っていけば、充分に記録の更新は狙えただろう。


 辺見の采配というか、それ以前のゲームプランでもない、根本的な判断がぶれていると思うのだ。

 スーパースターがチームにいると、監督よりも影響力を発揮するということはある。

 だが辺見の場合は、そういうものではないはずだ。直史も武史も、特に辺見の考えを無視することはない。

 そもそも一年の頃から、辺見は直史の力を見誤って、上手く扱いきれていなかった。

 それが武史にも及んでいるのだろうか。

 武史は確かにスピードのある球を投げられるが、直史ほどの確実性はないのだ。

 兄弟だからって、上杉の兄と弟には明確な差がある。

 佐藤家の場合は、下手に弟の方に球速があるので、錯覚しやすいのだろうか。


 ともあれ樋口は、武史の隣に座る。

「かなり研究してきている。普段よりもリードに気をつけるから、付いて来いよ」

「リーグ戦で点取られたのって、初めてっす」

「東大戦で……まああれは、ちょっとまともな相手じゃなかったけど」

 一年の春の東大戦では、一点を取られて負けた。

 一度会ったことは二度あってもおかしくない。


 


 中盤から完全にストレートの球威が増した武史が、打たれることはなくなった。

 ただ早稲谷の方も、打撃での援護がない。

 初回の二本のヒットの他は、全て凡退させている武史である。早く援護をしてやりたい。

 だが早稲谷は毎回のようにランナーを出しながらも、そこからの得点がない。


 これはまずい。

 早稲谷の弱点とも言えるものは、あまりにも圧倒的なピッチャーがいるがゆえに、それが投げている時は選手が安心しすぎていることだ。

 泥臭く塁に出たり、ランナーを進めたり、必死で一点を取りに行く意思が足りない。

 辺見はこの雰囲気を感じてはいるようだが、攻撃面での采配を満足に取れていない。


 樋口としては相手のバッターを封じるので、精一杯なのである。

 武史は三振を奪いまくっているが、帝都の選手たちはそれを覚悟したような感じでプレイしている。

 一方の早稲谷は点が取れず、先取点を許したことに動揺している。


 ここからさらに守備にエラーが出る確率も高い。

 ならば安全に、三振でアウトを取っていこう。

 幸いにも武史を相手に粘っていこうという帝都の打線だが、それを上回るピッチングをしているのが武史だ。


 西郷は明らかに敬遠気味のボールを投げられている。

 しかし下手にそれを打ちにいくと、凡退するような変化球を投げられる。

 三振にまではならなくても、なかなかジャストミートのヒットが出ない。

 早稲谷の上位打線が、今日は機能していない。


 これは自分が打つしかないかと思った樋口であるが、帝都のバッテリーは樋口に対しても、西郷に近い配球で攻めてくる。

 歩かせてもいいぐらいの、際どいコースだ。

 樋口はあくまでも、ストライクゾーンをしっかり打つのが得意であって、ボール球を無理矢理打ったりはしない。

(これはまずいぞ)

 スミイチの1-0で、試合は決まってしまうのか。

 直史は支配的なピッチャーではあるが、ピッチャーは試合の流れをこちらに持ってきても、点を取る能力だけはないのだ。


 だが、武史は意外性の男である。

 七回に回ってきた、武史の打席。

 別に甘く見ていたわけはないだろうが、ジンもここまでは指示していなかった。

 武史の打った打球が、神宮のスタンドに入った。

 取られた点は、自分で打って返す。

 武史は白富東において、四番を打っていたこともあるのだ。


 試合は振り出しに戻る。

 だが勢いは明らかに、早稲谷の方にある。

 これまではそれが全て、ぎりぎりのところで空回りしていたのだ。

 辺見も同点に追いついて、考えを変えた。

 直史がキャッチボールを始めた。




 九回までを投げた武史の後を、直史がリリーフに入る。

「こりゃダメだなあ」

 ここから追加点を入れるのは、かなり難しい。

 高校時代から隙のないピッチングではあったが、今はそれよりも凄みを増している。

 小手先の技術や戦術で点が取れるほど、簡単なピッチャーではないのだ。


 ここで狙うべきは、引き分け。

 延長戦に突入しても、相手に点を取らせない。

 幸いと言うべきか、プロの併用日ではないこの試合は、延長が15回まである。

 そこまで投げた直史を、さらに明日にも使わせるとは思えない。

 ただ月曜の試合には、普通に投げてきそうなのが直史である。


 計画通りにはいかなかった。

 だが直史と武史に投げさせた上で、引き分けに持ち込むことには成功した。

 早稲谷の打線が機能しなかったことを、明日の試合までに修正してこれるか。

 早稲谷打倒のために、また知恵をこらすジンであった。

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