第138話 魅惑のアンダースロー
勝てなかったが、負けもしなかった。
自分が取られた点を、自分のホームランで取り返すという一人野球。
高校時代には四番も打っていた武史に、あんな甘い球を投げてはいけない。
ピッチャー武史には注意していても、バッター武史は既に衰えているとでも思ったのか。もしそうならジンにしては甘い見通しである。
元々武史は、才能だけで四番を打っていたのに。
確かにピッチャーは重要な役割のため、積極的にバッティングで貢献するより、怪我をしないことを要求されたりもする。
だが今の早稲谷の投手の陣容を見れば、一人故障したところでどうにかなる層の厚さなのだ。
と言うか、純粋に直史一人に土日連投をさせれば、普通に完封出来る。スタミナ切れを起こすような球数は投げないからだ。
一人の選手が突出しすぎるという、現代野球においては珍しい例である。
土曜日の試合が引き分けに終わったということは、どちらかが二勝するまでは勝ち点がつかない六大リーグにおいて、月曜日にも試合が行われるようになったことを示す。
日曜日に勝ったとしても負けたとしても、まだ月曜日が残っている。
そう考えて辺見は、日曜日の先発を星のままとした。日曜日に負けたとして月曜日に武史が投げて勝てば、火曜日にまで試合が続く。
そこで直史が投げればそれで勝てる。
星はリリーフとしてそこそこの登板経験があり、練習試合でならばそれなりのイニングを投げている。
だが大学のリーグ戦の中で投げるには、厳しいものがある。
解散した後は直史と樋口は言ったものである。
「監督、とうとうボケちゃったのかな」
「いや、あれで素だろ」
どちらもひどい。
辺見が自ら勝利を放棄する采配を取るというのなら、それでもいいだろう。
ただ樋口にとっては、星をリードして投げさせ続けるのは、ある程度の限界があるとは思っていた。
しかし試してみて、完全に無理だとも思えない。
星は直史が持っていないものを持っている。正確には直史には必要ないものと言うべきか。
それは打たれても、点を取られても、最低限の失敗に抑えこもうという意思である。簡単に言うとメンタルが強い。直史も強いが、種類が別なのだ。
そしてこの日も愚直に、樋口のリードに従って投げる。
球速は遅い。だが、アンダースローというものをよく理解している。
沈むようなフォームから、なかなか腕が見えてこない。
大学に入ってからピッチャーばかりやらされているので、その精度も高くなっている。
一回の表には、帝都大を三者凡退にしとめる。
だがその裏の攻撃で、点を取ることはできなかった。
「ホッシーいいピッチャーになったなあ」
帝都のベンチの中で、ジンはしみじみと感心する。
「あいつのデータとかはあまりなかったよな。高校時代から知ってるのか?」
「知ってるも何も、同じ県内の公立校で、白富東が千葉で覇権を握っていて時代に、唯一甲子園に行ったチームのキャプテンですよ。公立校同士で練習試合も合同練習もやって、たぶん一番たくさん対戦しましたね」
「じゃあ弱点とかも分かってるのか?」
「弱点と言えるものは特にないんですよね。そもそもの実力差があるんで、何点かは取れると思ってたんですけど」
ジンの想定や、練習試合のスコアなどを見て、それほど恐れるピッチャーではないと思っていた。
だが確実に、高校時代よりも成長している。あとは高校時代に比べると、組んでいるキャッチャーの質が段違いというのもある。
良く知っているがゆえに、逆にさらに調べようとは思わなかった。
そのリソースを淳や村上を調べることに割り振っていたのだ。
これは作戦立案の参謀としては、やむをえない失敗である。
人手と時間は有限なのだ。だから、今ここで、攻略法を考えないといけない。
絶対に打てないピッチャーではない。それは間違いではなかった。
同じアンダースローなら、より体をしならせて投げる淳の方が、よほど攻略の難しいピッチャーだ。
だが星のアンダースローは、本当に地面スレスレから投げられる。柔軟性は確実に高校時代よりも増している。
つまり高校時代よりもずっと、低い位置で球がリリースされるのだ。
ヒットは打てるし、点も取れる。
だが帝都も二枚目のピッチャーを使っているので、早稲谷打線の弱点を着実に突くコントロールがない。初回は運が良かったが、それ以降はかなり打たれていく。
コントロールの悪いピッチャーというのは、キャッチャーにとってどんな敵よりも厄介な存在である。
同じキャッチャーとして石川が、苛立ちを表に出さないのは尊敬する。
早稲谷がやや先行する形で、ロースコアではあるが点の取り合いになった。
自然と球数も多くなって、帝都はピッチャーをチェンジする。
だが早稲谷は代えない。
アンダースローの軌道には慣れてきて、ミート出来る回数は多くなっている。
だが星は疲れた様子も見せず、淡々とピッチングを続ける。
(そういえば練習の時も、限界まで頑張って、いきなり気絶とかしてたなあ)
人間の本質的なところは変わらない。
3-3の同点のまま、延長に入るような流れ。
だがそうなると、試合の展開が分からなくなる。
星が決定的なピンチを作っていないので、早稲谷はここまでピッチャーを代えなかった。
だが延長に入れば、確実に継投であろう。
すると早稲谷は、パーフェクトリリーフの直史を出してくるのか。
昨日の試合で六イニングを投げているので、それも微妙なところであるか。
三年の村上か、一年の淳か、どちらかが投げてくると思っていたのだ。
その二人であったらデータも重点的に集めているため、そこそこの確率で点は取れるはずだった。もちろん大量点ではないが。
だがこの状況では、さすがに辺見は常識的な采配をした。
10回から投げてくるのは、佐藤直史。
昨日も六イニングを投げているし、それは延長戦だったため、ほとんど手が抜けない状況ではあった。
一点を取られても大丈夫な状況で投げるのと、一点も取られてはダメな状況で投げること。
どちらが大変なのかは言うまでもない。
あまり変わらないように投げてくるが、それは見せかけである。
そう思っていたのは間違いだったのか。
10回の帝都を完全に封じた早稲谷は、11回の表の攻撃に入る。
四番の西郷を歩かせてしまった後には、五番の近藤。
これも慎重に投げていった結果、歩かせてしまうことになる。
西郷は足が遅いので、一塁のままなら長打でも一点にはならない。
そう開き直って投げてくれたら、むしろ近藤は抑えられただろうに。
フォアボールというのはピッチャーの責任による、ランナーを出す行為なのである。MLBの監督でも、ピッチャーのノーコンで寿命が縮んだという者は多い。
ここでバッターは六番の樋口。
今日はここまで無安打だったが、それは星のリードに専念していたため。
しかし直史にピッチャーが代わったので、その負担はかなり軽くなっているはずだ。
勝負は避けたい。こいつは本当に、打つべき時に打ってくるバッターだからだ。
勝負強いと言うよりは、打つべき時に思考のリソースを、意識的にバッティングの方に振り分けるのだ。
満塁策にすれば、まだしもマシな下位打線との勝負となる。
ただ下手にランナーを三塁まで進めると、エラーでも一点は入ってしまう。
そしてここで回答が出せないジンに代わって、監督は歩かせるのも覚悟の上で、外の出し入れで勝負と指示を出す。
もちろんこの選択は、あっという間にフラグとして回収される。
一歩外のボール球を、樋口はボックスのラインを踏みながら強打。
打球はライト線を破って、さすがに西郷もホームに帰ってこれるし、近藤も帰ってきた。
タイムリーツーベースで、早稲谷は二点のリードを得た。
継投ではなく、ここからはクローザーとしての役目が、直史のものである。
だがそれに対し、ジンは対抗手段を持っていない。
これがプロのシーズンであるとか、せめて配球に明らかなパターンがあるピッチャーならばどうにかなった。
しかし直史はバッターを打ち取れる選択が多すぎるだけに、それも不可能なことなのだ。
せめて球数を投げさせて、明日の月曜に投げられないようにさせたい。
だが六イニングを投げた後、今日二イニングを投げる。
その程度では全く消耗しないのが、直史なのである。
結局は打者六人を封じて、5-3で試合は決着。
勝ち点への道は早稲谷が先行している。
春のリーグ戦は当然ながら、各プロ球団全てのスカウトの、注目の的である。
なので中には、星のピッチングに注目する者もいる。
キャッチャーの構えたところに投げるコントロール。
九回までを投げて、失点は三。
プロで通用するようなレベルではない、と思う。そしてそれは確かだろう。
だが少しでも気になったなら、選手の経歴を調べてみるのが、スカウトの性であろう。
高校時代はキャプテンとして、センバツのグラウンドに立っている。
ピッチャーとして本格的に投げ始めたのは、二年の夏からか。
継投によって勝つチームだったので、数字に特出すべき点はない。
ピッチャー以外のポジションとしてはセカンドを経験しているが、大学入学後はこちらのポジションでは練習試合にも出てこない。
つまり大学野球のレベルなら、中継ぎなどで一イニング程度は、通用すると思われているのか。
大学に入ってからも、練習試合では短いイニングを投げて無難にこなしているのは、その証明であろう。
中継ぎのピッチャーであるが、それでもプロのバッターを相手に通用するほどのものではないと思った。
何が気になっているのか。
今日は九イニングを投げて、帝都大相手に三失点だった。だがヒットの数はそれなりに多く、全くフォアボールがないというわけでもなかった。
いいピッチングだとは思ったが、そうそう続くようなものではない。なのになぜ気になるのか。
まだ判断するのは早い。
そう思いつつもスカウトは、注意する選手のリストの中に、星の名前を入れた。
土日で勝負が決まらなかったので、あからさまに不機嫌な直史である。
直史は昨日も投げているため、本日の先発は武史。
だが中一日の武史より、村上なり淳なり、先発を任せられるピッチャーはいるだろうに。
まあ確実性を言うならその二人よりは武史であろうが、疲労というものも溜まっていてもおかしくはない。
武史は回復力も高いため、それほどの疲労にはなっていないが、それでも球数は土曜日の試合で128球になっている。
この月曜日の試合では、出来るだけ球数を少なくしてほしい。
武史は直史と違って、手を抜きながらも相手を封じられるような、器用なピッチャーではないのだから。
もちろんこの季節のピッチングで、一日完全に休養しているのだから、疲労というほどのものは残っていない。
おそらくジンが色々と考えて作戦を立てたのだろうが、純粋なパワーでこちらが大きく上回っているのだ。
ただ、この試合も上手く運ばれて、負けはせずとも引きわけたなら。
火曜日にまで試合は延びてしまう。
さらにそこでも終わらなければ、来週に延期である。
勘弁してくれ、というのが直史の正直な気持ちである。
火曜日には必修の授業が入っていて、しかも出席を取るのだ。
大学の課題などと野球部の用事が重なった場合は、大学を優先するのが直史である。
だが出来れば試合には勝っておきたいと思うからこそ、まだこの場所にいる。
あちらのピッチャーも武史と同じく、土曜日に先発をしていた。
上手くこちらのバッターの分析がされていて、決定的なヒットを打つことが出来なかった。
だが一日もあれば、その弱点はある程度修正出来る。
初回から相手のピッチャーを叩いて、点差を開けてほしい。
そうすれば武史もある程度打たれてでも、点の入らない程度のコンビネーションに、樋口が誘導してくれる。
その樋口がいなければ、日曜日も同点で終わっていた可能性は高い。
間違いなく帝都大と言うよりはジンが、早稲谷に勝とうとしてきている。
昨日の試合は、星が上手く投げてくれた。
だがそれでも、本当に勝つつもりなら、もっと選手の起用は考えるべきだ。
辺見の選手の起用法は、明らかに今は偏っている。
前は単なる失敗であったが、今は意図的なものを感じるのだ。
それでも問題になるのは結果、つまり試合の勝敗だ。
直史自身も今日の試合、同じようにリリーフする準備は出来ている。
疲れはおそらくないが、確実にないとも言えない。
短いイニングとは言え、三連投というのはやりたくないのだ。
お前、甲子園で15回投げた次の日に、九回投げてたじゃねえかと、散々なツッコミを脳内シミュレートする直史である。
だが、そういうシミュレートは全くの無駄になった。
一回の表でいきなり、武史がホームランを打たれたのだ。
肩が暖まるまでは、タイミングが合えば確かに打たれるであろうホームラン。
武史がきまり悪そうな顔をしているからには、リードの失敗ではなく失投なのだろう。
これはやはり、早めに覚悟だけはしておくべきだろう。
そう考える直史であるが、とりあえず初回の攻撃はこの一点にとどまった。
そして土曜日に封じられた早稲谷打線は、いきなり爆発する。
一回の終わった時点で、スコアは3-1と、いきなり動いた。
ここからどうなるのかはまだ分からないが、とりあえず早稲谷の打線は、相手ピッチャーをものともしない。
考えてみればあちらのピッチャーは、土曜日に12回まで投げていたのだ。疲労度は間違いなく武史よりも大きいはず。
出番が来ないといいな。
ベンチの中でそう考える直史は、間違いなく異質である。
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