第131話 モチベーション
新しく一年生が入ってきて、また今年も大学野球が始まる。
その春のシーズンを前に、直史は堂々と野球部を休んでいる。
辺見ももう、それについてとやかくは言わない。
なんだかんだ言いながら、直史は確実に、仕上げた状態でリーグ戦に間に合わせてくるからだ。
もっともWBCを見た後であると、普段のリーグ戦はあれでも手抜きをしていたのではないかとも思う。
既に春休みの間から、野球部に参加していた佐藤家の三男は、長男や次男と同じように、問題児であった。
上手くなれる練習以外はしないのだ。
そしてそれに同調する空気が、もう早稲谷の中には充満している。
大学の野球部というのは、意味もないことも延々とさせて、上下関係を教え込み、思考放棄で単純作業をずるずる続けるような、そういう社蓄を作り出すのに向いている。
だが一般入試で入ってきた者や、学校推薦で入ってきた者は、そんな状態など我慢できるはずもない。
そしてそういった流れをせき止めることは、もはや辺見でも不可能である。
極端に言ってしまえば、直史の入学が決まった時点で、野球部の伝統が放棄されることは、決まっていたのである。
その直史はWBCの壮行試合の前から、ずっと別メニューを組んでいた。
そして壮行試合の後は少し休んで、追加で呼ばれたわけである。
あの決勝を見てしまえば何も言えないが、しばらくは体を休ませる程度の調整である。
外に出たらまためんどくさい騒ぎになるので、直史は主に屋内ブルペンで調整をする。
その調子はごく普通、つまり絶好調ということになるはずある。
樋口は呆れながらそれをキャッチングしているが、実のところWBCの時のような、キレが戻ってきていない。
おそらく本人は、それでもあっさり完封はしてしまうのだろう。
コントロール自体は相変わらずの傑出度である。
ただ樋口は遠慮なく、その感想を口にする。
実際に計測してみても、樋口の言葉は事実を言い当てている。
球のスピン量が少ないのである。
ボールのスピンレートなどと言うと、どうしても伸びるストレートというものに意識が向く。
だが指先で最後に弾くことを考えると、他の変化球の変化量も小さくなる。
球速は150kmまでは出ている。
変化球も、ちゃんと変化はする。だがどうしても、変化量が足らない。
スプリットやシンカーなどの、抜くタイプの変化球は大丈夫なのだ。
カーブ系、そしてスライダーやツーシームなどが上手くいかない。
原因は二つが考えられる。
技術的なものと、心理的なものだ。
前者はWBCで使ったMLB標準のボールに、指先などが下手に慣れてしまったことだ。
後者としてはレベルの高い相手と戦った後に、またもう一度スライムと戦っていかなければいけないという虚脱感。
六大学のメンバーをスライム扱いというのもなんだが、樋口からするとこれもありえなくはないと思う。
だが直史は油断しない男だ。
すると油断ではなく、モチベーションの問題なのか。
完璧に近い投球は、これまでにも直史は行ってきた。
だが本当に完璧に近い投球が必要だったのは、あのWBCぐらいであろう。
ただあの決勝においてさえ、直史は制限されたピッチングをしざるをえなかった。
そのレベルに慣れてしまったせいで、気合が入らない。
これは甲子園のセンバツなどで好成績を上げたチームが、夏にはあっさりと負けることに似ているのではなかろうか。
「とりあえずバッピしてきて、少しでも対人の感覚を戻して来い」
「そうだな」
そしてグラウンドに出て行く直史であるが、樋口ははっきりと不安を感じていた。
これまでの直史は、いわばプロ以上にプロフェッショナルなアマチュアであった。
大学の試合で結果を出すことで、奨学金などの高待遇を得ていたのだ。
だがWBCの賞金によって、必要な分の金銭は貯めてしまったとも言っていた。
本気で投げる理由が薄くなってしまっている。
あと、これが大きいかもしれない。
直史は元々、投げることは好きなのだ。
高いレベルのバッターと対戦し、勝利を得ることに充実感を持つ。
だが甲子園に比べれば、大学のリーグ戦は刺激が足りないな、とは言っていた。
そしてWBCのトーナメントを経験した直史が、大学野球のリーグ戦で満足出来るのか。
色々な記録を積み重ねて、ピッチングを楽しんできた直史である。
だが世界のトップと対戦したことで、つまり自分のやっていることが「弱い物イジメ」だと認識してしまったのか。
それこそプロの世界に行けば、まだしも直史の渇望は叶えられるだろう。
打ち取ることが難しい大介がいるし、それ以外にも優れたバッターはいる。
ついでに言えば自分が対戦するなら、面白い勝負をしてやれる自信もある。
おそらく直史は今、その人生でもっとも、野球をやる意義を見失っている。
バッティングピッチャーを務める直史の姿を、多くのスカウトたちが見つめる。
プロ入りの気持ちは全くないなどと言うが、そのスペックは間違いなく現役プロまでを含めてもトップレベル。
12球団の全てから、スカウトがぼちぼちと見に来るのだ。
社会人に進む気もないとは知っていても、社会人も他の選手を見るついでに、直史のことは見ていく。
ただバッティングピッチャーをしている直史は、ごく普通に打たれまくている。
バッティングピッチャーなので仕方のないことなのだが。
一方で樋口は、辺見にも一応報告はしておく。
「使えないか?」
「いや、たぶんテンションが低いままでも、普通に勝てるとは思いますけどね」
溜め息が重なる二人である。
なんのために野球をやるのか。
それはもちろん、色々な答えがあるのだろう。
金のためとか、単なる仕事としてとか、目立ちたいとか色々とあるはずなのだ。
だがその根底には、野球が大好きであるとか、自分には野球しかないとか、そういう激しい気持ちがあるはずなのだ。
直史ももちろん、これまで野球が好きで、自分にも利益が出るからやってきた。
しかしWBCを経験してしまったことで、野球を上達するということに関しては、熱意を失ってしまった可能性がある。
もっとも樋口としては、WBC後の騒動の中で、単純に練習時間が足りなかったとも思えるのだ。
過去に怪我で練習を休んだことはあったが、まともに体を動かすことさえ出来なかったことなどはない。
周囲が騒ぎすぎて、本人が体調を崩すというのは、野球に限らずままあることである。
ただ直史は、そういった繊細な神経とは無縁だと思っていたのだ。
モチベーションの低下が原因なら、それは分かる。
「まあ幸いと言うべきか、初戦は東大だからな」
「なんだかんだ言って、どうにかすると思うんですけどね」
去年もあったことだ。全く制球が定まらず、鬼のように四死球を出した。
だが結局、ヒットは一本も打たせなかった。
ただあの時と今回とで違うのは、何も上積みがないということだ。
直史はオフシーズンが終わるごとに、大きく成長してきた。
大学入学以降は、主に球速を増してきた。
だが明らかに、WBC後は能力が落ちている。
使っていた球が変わって、そちらの方に能力を注ぎすぎたのか。
直史の繊細すぎるピッチングでは、あちらのボールにアジャストした感覚を、元に戻せていないのかもしれない。
それならいずれは、元に戻してくるのだろうが。
スランプと考えてしまっていいのだろうか。
それでも少なくとも、コントロールの精度は保たれている。
ボールのキレがなくなって、スピードと変化量が落ちているのは確かである。
そのレベルでもほとんどのバッターは打ち取れるのだろうが。
プロには行かないと、直史は言っていた。
仕事を始めたら休日にクラブチームにでも参加すると、そんな温いことを言っていた。
頂点に近い景色を見た人間が、それに満足出来るのか。
樋口も辺見も、色々な視点で直史を心配している。
野球を、大学でやるにも関わらず、これは仕事だと認識する。
それが直史という人間である。
ピッチングの感覚が戻らないな、とは思っていた。
ただそれでも、どうにか出来なくはない。
樋口任せに投げても、どうにか完封ぐらいにはなるだろう。
それでも直史は、自分のコントロールが出来ていないことには、我慢が出来ない人間である。
プライドが高いとか、負けず嫌いとかよりは、凝り性と言うべきか。
自分のピッチングに一番納得出来ていないのは、自分自身である。
確かに使っているボールが変わったことで、感触がおかしくなっているのは確かだが。
高校に入った時に、硬球と軟球の違いに驚いたものだが、それに比べれば硬球同士の話なので、違和感は少なかった。
あの短期間にあちらの球に慣れていたのだから、それよりもずっと使ってきたこちらの球には、すぐに慣れるはずであった。
だがいまいちそれが上手くいっていない。
WBCに参加したピッチャーの中でも、上杉などはいきなり開幕戦を完封で勝っていたが、あれはとにかく人間としての力の出力が違いすぎるのだ。
直史のフィジカルは、圧倒的な出力を持っていない。
なので球威ではなく、球質にこだわらなければいけない。
WBCではなくその前の壮行試合に合わせて調整していたため、今年の直史は一冬を超えたが、さほど去年とスペックは変わっていない。
年々成長を遂げていくのが、直史の年代である。
それが現状維持に終わってしまったら、そいつはもうそこで終わりである。
ただ直史は短期間で無理に元に戻そうとはしていない。
日本とは違ったボールを使ったことも、それなりに活かすことがないわけではない。
スライダー。
もちろんこれまでも直史が使ってきた球種の一つである。
ここから派生する変化球は、縦スラにカットなどがあるし、指先で回転させるということを考えれば、スルーもスライダーからの派生である。
というわけでツルツル滑るボールを使っているうちに、大きく曲がるスライダーが投げられるようになっていた。
災い転じて福と成す。
しかし肘への負担が大きいな、と考える直史である。
ボールをキャッチした樋口は呆れていたが、とにかく上達するという意欲が、失われていないのは助かった。
そもそも趣味でやっているのだから、必要なのは情熱ではなく理由だったのだ。
「そういやアメリカのピッチャー、つーかMLBのピッチャーは、松脂使ってたみたいだな」
「らしいな。こっちは真面目に投げてるのに」
MLBでは暗黙の了解というか、既に誰でも知っていることが。
ロージンバッグではなく、他の滑り止めを使っている。
それっていいのかと直史などは思うのだが、バッターがバットが滑らないようにバッティンググローブをはめるのは、ズルではないのか、という話が成立してしまう。
あれを使わずにホームランを量産している大介だが、バットには滑り止めは使っている。
まあ日本の場合も唾をつけたりするのが、明確に禁止になっていたりする。
ただ日本の場合は禁止されていれば、暗黙の了解でもそういったものは使わない。
禁止薬物の件といい、日本はそういった点ではクリーンな国なのだ。
ただピッチャーも、ボールをワンバウンドさせて故意につけた傷で、変化量を大きくするなどということは行っている。
それを言うなら昔は、もっと単純にボロボロになるまで、ボールを使っていたものであるが。
「まあ俺も唾とかはともかく、禁止されてないものは使ってたしな」
「あ? ロージン以外に上手く使えるものなんてあったか?」
堂々と不正投球宣言をする直史に、驚く樋口である。
こいつはそういった行為は、絶対にしないと思っていたのだが。遵法精神とかではなく、なんとなく人間性のレベルで。
「ヒント一、見つかっても絶対に故意かそうではないか分かりません」
「おいおい、バレたらまずいんじゃないのか?」
「ヒント二、夏場にしか使えません」
「……汗か」
「その通り」
唾や土などをつけることは禁止されているが、汗を拭ったら湿り気が指に残るのは当然である。
べたべたの汗だとむしろ滑るので、本当に湿らせる程度のものだ。
そもそも日本のボールと気候からすると、そんなものも必要なかったりする。
指先を適度に湿らせるためには、額の汗や首の周りの汗などで、適度に湿らせればいい。
なくてもどうとでもなるあたり、直史のやはりおかしなところであるが。
「WBCでもあいつら、普通に使ってたよな?」
「多分な。日本は使ってなかったけど」
「空気が乾燥してるから汗もでないし、なかなか困ったもんだ」
「お前はどうやって不正……にならないように、湿り気補充してたんだ?」
「普通にユニフォームに水分含ませてただけ。別に滑らない時は必要なかったしな」
そんな状況の中で、また新しく使えるように変化球を改良したわけである。
転んでもタダでは起きないというか、どんなことからも得ることはあると言うか。
微妙にボールのキレはまだ戻っていないものの、直史は新たな武器で、春のリーグ戦に臨むようである。
「本当にこれで良かったのかなあ」
怪我さえさせなければいくらでも、相手をはめたりすることに躊躇しない樋口であるが、このあたりはどうなのだろうと思う。
「そうは言ってもロージンバッグの中にも、そもそも松脂成分あるわけだしな」
「ピッチャー的にはあれ、むしろ上手く指を滑らせるように調整するようなもんだよな?」
樋口もピッチャーとして投げた経験はあるため、あの扱いは分かっている。
「そもそもMLBが自前の独占禁止法のボールじゃなく、自由競争でボールを使うことを認めたらいいんだよ。つーか世界基準は日本のボールだしな」
「それはまあそうだけど、よくあんなボール使ってアメリカで、他のピッチャーは勝てたもんだな。メジャー組は全員松脂使ってたのかな?」
「たぶんそうじゃないか? これもMLBお得意の暗黙の了解なわけだし」
なかなかに黒すぎる話題である。
指先の感覚とはまた別に、その中でもしっかりと考えて投げる。
直史はやはり、直史であるらしい。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます