第132話 バージョン変更

 今年も春のリーグ戦が始まった。

 大学野球はレベルが高いと言っても、WBCでMVPを取ってしまうようなピッチャーが東大相手に投げるというのは、ほとんどではなく完全にイジメである。

 ただどうせ負けるなら、こういったとんでもないピッチャーに負けたほうが、大学生活でのいい記憶になるだろう。


 六大リーグのホームラン記録を塗り替えようという西郷に、内野も外野も隙がなく、バッティングでも来年のドラフトにかかりそうなのが数人。

 辺見の見てきた中で、おそらくはもっとも強いチームである。

 冗談ではなくプロの球団と戦っても、一戦きりならほぼ勝てるだろう。


 一回の表、東大の攻撃。

 世界一のピッチャーが、神宮のマウンドに立って、これから投げようとしている。

 別に世界一になった試合に投げただけで、別に自分が世界一とは思っていない直史であるが、とにかく相手のバッターは固まってしまっている。

(どうする?)

(普通にすればいいだろ)

 直史の状態がフラットであることを確認し、樋口はサインを出した。


 ボールのキレは戻ってきているが、まだリーグ戦用の最適化がされていない。

 樋口の知る限り、直史のピッチングが一番冴えていたのは、あの壮行試合である。

 あれを基準とすると、まだ70%ぐらいであろうか。

 だが今の直史は、スライダーが上手く使えるようになった。

 しかしそこでスライダーを要求しないのが樋口である。




 せっかく使えるようになったスライダーを使わないのか、と少し拍子抜けの直史である。

 慎重な性格の直史であるが、新しく身についたのと同じような感覚で、スライダーを試したいという気持ちはある。

 ただ新しいおもちゃに夢中になるような性格ではない。

 樋口が要求しないなら、何か意図があるのだろうと判断する。


 カーブとストレートを使った組み立てで、三者凡退のスタート。

 自分としてはいまいちなボールであるが、コンビネーションを組み立てればしっかりとアウトが取れる。

 とりあえず先取点さえ取ってしまえば、試合には勝てる。

 直史が投げれば、味方もそう勘違いしてしまう。

 それこそ西郷のような、ごく一部の例外を除いては。


 ただ早稲谷のナインが直史の制圧力に頼っていると言っても、それでもたやすく点を取ってしまうのが、現在の早稲谷の打線だ。

 一番の土方は、ピッチャーの初球こそ見たものの、二球目からはあっさりとセンター返しで出塁する。

 二番の山口はまた球を見極めつつ、甘く入ってきたら容赦なく打つ。

 三番の沖田のヒットで、まずは一点。

 そして四番が西郷である。


 六大学野球の通算ホームラン記録を塗り替えるべく、西郷は打席に立つ。

 だがこんな状況であっては、敬遠されるのが当然である。

 一三塁が満塁になって、今日は相手も東大でリードも楽だからと、五番に入っている樋口。

 わずかでも甘く入ってきた初級を、完全にジャストミート。

 狭い神宮の一番深いところに、初回から満塁ホームランである。




 今の早稲谷はおそらく、六大学史上最上のチームである。

 ドラフトで競合するような、ピッチャーにバッター。

 中途半端なスラッガーだけでなく、つないでいくバッティングの出来る選手も多い。

 そして直史がそれなりに打たせても、軽くアウトにしてくれるバックの守備。

 エースが一枚ではなく二枚いて、さらなる三番手や四番手、あるいは中継ぎにもしっかりと相手を抑えられる磐石の投手陣。

 強くないわけがない。


 直史はこの試合、積極的には三振を狙っていかない。

 カーブとストレートとチェンジアップで、それでもたまには三振が取れる。

 これはまるでピッチャーの力ではなく、キャッチャーのリードによって、相手の打線を封じているようにも見える。

「お前、プロ行くんだよな?」

 試合中のベンチの中でも、平然と尋ねる直史である。

「そうだな」

 樋口としての平然と返す。


 ここで直史は声のボリュームを落とした。

「自分のリードを見せるために、配球を組み立ててないか?」

「それで球数も少なくなるし、ボールのスピードも必要じゃなくなるし、いいことだけだろ」

 樋口は便利なピッチングマシーンに、ひどく利己的なことを言った。


 今日の直史の調子は、あまり良くない。

 そして見る者が見れば、使っている球種も少ないのが分かる。

 それでしっかりと抑えられているのだから、キャッチャーのリードがいいのだと分かる。

「お前……俺はピッチングマシーンじゃないんだぞ?」

「ピッチングマシーンにパーフェクトは求めないさ」

 ひどい。


 東大側としても既に、直史にパーフェクトをされるのは慣れてきてしまっている。

 それでも内野ゴロのファンブルで、名手沖田がエラーとなった時は、ふうと安心したものだ。

 もっともそのランナーが、ピッチングから一塁に帰るのが遅れて、樋口の送球でアウトになってしまった時は、ああ、と溜め息をついたものだが。


 ピッチャーが計算して投げて、内野ゴロを野手の守備範囲に打たせて、あるいはフライを打たせてアウトにする。

 よくあるいいピッチャーの見せ方ではあるが、実際はゴロが野手の正面にばかり転がるはずはないし、内野の頭を越える程度のフライになることもある。

 ただ樋口は徹底して、弱い打球になるようには考えて投げさせている。

 最高球速が150km出ていない状態で、変化球とコンビネーションで、主に内野ゴロを打たせ続けるのだ。


 一本は綺麗なヒットになってしまった。

 おお、と盛り上がる東大ベンチだが、その後にダブルプレイでまた、ああ、である。

 ランナーが出ないし、出ても進まない。

 そして短い攻撃時間に対して、守備の時間が長い。

 早稲谷は早々に大量点を取った後は、多くのベンチメンバーを試してきていた。

 直史としてもこの点差なら、まあ誰が投げても大丈夫かなという13点差。

 残りの三イニング、公式戦のマウンドに星が立つ。




 樋口のリードは、方針は全く同じである。

 完全に軟投型の星の球は、基本的に沈むボールになる。

 アンダースローなので、一度浮き上がってから沈むように見えるので、普通の投げ方よりは打ちにくいのは確かだ。

 だが直史が降板した以上、他のありとあらゆるピッチャーは、まだマシのはずである。


 ただ、星のしぶとさは、まだ知られていない。

 樋口のリードの通りに、星も投げる。

 無駄なことは考えず、球数が嵩んでも、とにかく打たれないように投げていく。

 基本的には星もまた、打たせて取るしか出来ないピッチャーだ。

 だがスピードは遅いとは言え、その独特な軌道を使って、ボール球を振らせることにも成功する。


 直史の場合は、その力の限られた部分だけで相手を封じる。

 そして星の場合は、その持っている技術の全てを引き出して凡打を築き上げる。

 相手が弱いと言っても、昨年は理不尽の塊のような女子選手によって、レベルが上がった東大である。

 そこから三イニングを投げて、無失点に抑えこんだ。


 春のリーグ戦の初戦、その第一試合は、早稲谷が完勝した。

 そして日曜日の第二戦は、先発は武史である。

 この春から既に、ベンチ入りは果たしている、佐藤三兄弟の末弟である淳は、試合の展開にもよるが、リリーフで登板の予定である。




 樋口としては武史とバッテリーを組む場合、全く異なる役割を果たすこととなる。

 直史の場合はコンビネーションが肝心であり、相手のバッターの意図を探り、打てないボールを打てないコースに投げる。

 だが武史の場合は、そもそものボールが打てない。

 160kmのボールをピッチングマシーンで打ったとしても、それは一定のリズムで投げられるものだ。

 もちろん設定によっては、タイミングを外してボールを投げさせることも出来るが、それはしょせん機械のタイミング。

 人間の投げる150kmにさえ、それは劣るのだ。


 早稲谷は強すぎる。

 V9時代のタイタンズを思わせるその強さであるが、実際のところはごく一部の戦力が、突出しているのだ。

 上位打線の得点力に、投手と連動した守備力。

 ただしそれも武史の場合は、必要がないものか。


 少し力を抜くか、ムービング系のボールを投げれば、バッターはまず打てないか凡打を繰り返す。

 そして最後にはストレートをフォーシームで九割の力で投げるか、チェンジアップを使う。

 その組み立てに慣れかけたところでナックルカーブを使う。

 見送ればボールになるコースも多いのだが、バットが届くために振ってしまう。


 球種は直史に比べれば少ないが、球速の絶対値が高ければ、それだけ思考する時間も限られる。

 反応で打つしかないのだが、それにはこの球質の球速のボールに慣れる必要がある。

 常識的に考えて、そんなものに慣れる練習などしようがない。

 色々なスポーツにおいて、フィジカルエリートがテクニックを駆逐することはある。

 武史のストレートも、その一つであるということだ。

 それに樋口が、最低限の組み立てもしてくれる。




 武史にとっては鬼門の、三イニングまでをパーフェクトに抑えられた。

 ならばここからは、暖まってきたエンジンをフル稼働させるだけである。

 季節も暖かみを帯びてきて、体をフルに使っても、怪我をしにくい季節である。

 武史の球速は、164kmという数字を出してくる。

 直史とはまた別の意味で、その球速は反撃の意思を萎えさせる。


 四回からはもう積極的に、三振を奪っていく。

 奪三振記録を狙って行くには、三回までにゴロやフライがあるので、さすがに無理なのであるが。

 まだ残暑が残る秋のリーグ戦にでも、機会を作ってやろうかなどと、考えている樋口である。


 直史の時以上に、打撃に専念出来た樋口は、今日の打撃成績ではサイクルヒットを記録した。

 スラッガーだとむしろ難しいサイクルヒット。樋口の場合は長打力を肝心の場面でしか発揮しないため、実は大介よりも三塁打を打てる機会が多かったりする。

 回ってきた五打席目は敬遠と、ちゃんとオチもついていた。

 このあたり大介は、一試合に平均で一つは四球があるため、サイクルヒットに挑むことさえ許されなかったりする。


 ちなみに武史は、八回まではパーフェクトピッチを続けた。

 ほとんどが三振となるこのボール、樋口のリードはさすがに緻密さを欠く。

 下手に考えるよりも、球威で押していった方がいいという判断である。

 そしてほとんど目をつむって打ったんじゃないかという打球が、内野の頭を越えてしまうわけである。

 八回ツーアウトまできて、ノーヒットノーランまでなくなってしまった。

 それでも別に集中が切れたりはせず、その後のバッターを難なく三振に取る。

 気を抜いて投げても160kmが出るというのだから、それだけ肉体的にチートなのか。


 ベンチに戻ってきた樋口に、辺見はどうだ? と尋ねる。

 当初の予定では継投をしていくつもりであったし、パーフェクトも途切れてしまったので、その予定に戻してもよさそうだと思ったのだ。

 だが樋口としては、その選択肢は採用したくない。

 こっそりと辺見に囁く。

「リーグ戦の通算奪三振記録、更新させてみませんか?」

 別に悪魔の囁きではないが、けっこうそれは面白そうだ。

 だが肝心の武史は、そんな記録には執着していないようにも思える。

「周りが祭り上げてやらないと、エースの自覚も持てないでしょう」

「お前らの年代がいなくなるとなあ」

 別に一二年生が、ひどいレベルなわけではない。

 だが他にも色々と、辺見も考えていたりする。


 一年目の春と秋のリーグ戦、武史は合わせて139個の三振を奪っている。

 わずか八試合、しかも全イニングを投げたわけでもないのに、その数である。

 直史の場合は昨年の春と秋で、147個の三振を奪った。

 だがこちらは10試合での数だ。

 兄弟のどちらにも、従来の記録を塗り替える可能性がある。

 だが直史の場合はそんな通算記録を残さなくても、大学時代無敗という記録が、普通に作れそうなのだ。

 武史は一年春の東大戦で、一失点しかしていないのに、負けた試合がある。

 ピッチャーが三安打で一点しか取られていなかったのに、負け投手になる。

 これはほとんど監督の責任と言っていいだろう。


 武史はひどく軽いノリで、プロへの道を口にした。

 そんな甘いものじゃないと、元プロでピッチャーをしていた辺見はいいたいところだが、自分とは残している実績が違いすぎるため、偉そうなことが全く言えない。

 球数もここまで、94球。

 壊れるようなものでもないだろう。




 九回のマウンドにも登った武史は、やる気は失っていたが、気迫は宿していた。

 自分自身への怒りというか、運命への怒りと言うか。

 直史があれだけ完全試合をしているのだから、自分だって一度ぐらいはしてもいいではないか、という無茶苦茶な怒りである。

 もしも人間の運命を司る神がいたとしたら、ええかげんにしなさいとハリセンでぶったかもしれない。


 確かに直史がおかしな頻度で達成しているが、ノーヒットノーランとか完全試合とかは、そうそう出来るものでもないのである。

 リーグ戦のデビュー戦でノーヒットノーランを達成し、それまでの一試合の奪三振記録を更新した。

 そしてその後にも一回、ノーヒットノーランを達成している。

 いくら、高卒時点で化け物のピッチャーはそのままプロに行くと言っても、これだけの記録を残している者はいない。


 てんで的外れな怒りを向けられた、東大打線陣こそいい迷惑であったろう。

 この日は結局、20奪三振で完封を果たした武史であった。

 淳の六大学リーグデビュー戦は、次のカードへと持ち越されたのであった。

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