十一章 大学三年 覇道進撃
第130話 また春が来た
この大学には化け物がいる。
妖怪パーフェクト。主に野球部員の心を折る、鬼畜外道のピッチャーである。
早稲谷に入学する、野球に少しでも興味のある人間が、野球部に入部もしないのに、わざわざその練習だけを見に来る。
「う~ん、この観客動員、何か金にならんかなあ」
そう呟く辺見は、かなり頭も柔らかくなってきたと思う。……堕落と言うべきかもしれないが。
「どの人?」
「けっこう細い人だよな?」
「え? ガリガリなの?」
「野球選手にしてはってことで、細いマッチョだよ」
「あ、あのすごい球投げてる人じゃない?」
「あれはサウスポーだから違うだろ」
愛される野球部をモットーに、わざわざエースクラスがグラウンドに出て、バッピなどをしていたりする。
だが武史の場合、かなり弱い力で投げても150kmぐらいは出るので、バッピにはそれぐらいでいいのである。
ちなみに直史はキャッチボールを終えると、室内のブルペンで少し投げて上がってしまった。
代わりにブルペンを使わせてもらっている淳としては、確かにありがたくはある。
主将の西郷はずっと親切だし、直史と同学年の先輩も優しい。
ただし西郷はバッピをやらせると、容赦なしにネットまで飛ばしていく。
「俺のアンダースローって全然通じないのか……」
「せごどんはあんま細かいこと考えず、振りぬいていくからなあ。それに六大学リーグの記録塗り替えそうなバッターだぞ」
そんなせごどんを、ストレートで抑えてしまう兄の言葉に「この無自覚チートめ!」と思う淳である。
今年の早稲谷はと言うか、今年も早稲谷は強そうである。
その理由としては、とにかくピッチャーが揃っている。
新入生の淳も、西郷以外のバッターにはだいたい通用して、ほっとしているところだ。
「だけどプロ目指すなら、せごどんも抑えるぐらいの気持ちじゃないとなあ」
フォローしてすぐに、無自覚にまた着火する武史であった。
プロ球団どころか、MLBのスカウトまで、頻繁に見に来るピッチャーが武史である。
102マイル超えのストレートをコマンドに投げられて、緩急の使えるピッチャーなどメジャーでさえもほとんどいない。
ほとんどであって、数人はいるところが、メジャーの恐ろしいところであろうか。
ただ武史は、直史とはまた違った意味で、野球に対する欲はない。
(ナオ兄はともかく、タケ兄と話してると、才能って不公平だって気がするんだよな)
けれどもそんな才能の塊も、正しい練習によって乗り越えることが出来る。
そう信じさせてくれた直史は、最近はかなり気が抜けている。
WBCから帰って、野球部に顔を出した直史は、辺見と二人だけで話す機会を作られた。
「まあ球界のお偉いさんたちが、変なことを言っててな」
監督室でソファに座り、体面の直史に、自分で淹れたコーヒーなどを勧めてくる。
ミルクを入れて飲む直史であるが、思ったよりも苦かった。
「お前はこんなに野球で、大学にまで奨学金で進めたんだから、野球に恩返しをしないといけないだろう、とな」
意味が分からない。
だいたい野球部というのは昔から、軍隊と似たような指導体制があった。
そんなことをしているから、サッカーやバスケに人気を取られるのだと思っても、お偉いさんは自らの成功体験を捨てられない。
辺見にしてもそうなのだが、彼はプロの時代に、MLBマイナーのキャンプなどに参加もしている。
なので実は、それだけ野球を神聖視しない価値観を理解出来るのだ。
なにしろ辺見は確かに早稲谷のOBであるが、野球推薦ではなく普通に受験して入った人間であるので。
直史はしばらく考えたが、全くもって理屈が通らないな、とは思った。
野球に恩返し? なんだそれは?
まだ個人に対する恩返しとか、待遇に対しての結果とかなら、話は分かるのだ。
だが、例えばジンが必死で環境を整備したのは、お互いにとってそれが必要だったからだ。
セイバーの援助は、データ収集自体が目的であった。
他に誰かに、恩を感じる必要があるのか。
秦野は準備が万全になっていたところに来た、優秀な指揮官ではあったが、あれは上下関係はあったものの、実際には戦友のようなものだった。
早稲谷との内密の契約は、お互いが必要としたものだ。
他にはどこにも、恩を感じるようなものはない。
むしろ甲子園での観客の増員、大学野球への注目の増加、そしてWBCの優勝への貢献など、直史は10億や20億を貰っていいほど、野球界には貢献しているだろう。
と、そんなことを言ったら辺見も、苦笑いするしかない。
野球を神聖視する昭和の老害が、まだ球界には残っているということか。
いや、確かに野球界の発展などを考えれば、かつて貢献してきた人間には、直史の強力も当然と思えるのかもしれない。
野球村で人生を送ってきたことの弊害だ。
もちろんそういった自分の人生を野球に対して貢献することを、美徳とする者もいるのが悪いわけではない。
単に価値観の違いである。
直史は考える。
野球をやっていて良かったなと思えるのは、そこから色々な人間とのつながりをえたことだ。
だがそのつながりというのは、むしろ野球に関連していない人間との方が多いかもしれない。
「監督は俺が、シーズンを通じてプロで一年間投げられると思いますか?」
直史は思わない。
「私は思うが、お前の自己評価は違うんだろうな」
辺見としては、直史ならばなんだかんだ言って、器用にプロのシーズンを送っていけると思う。
だが同時に、完璧主義者であることも知っている。
「お前が常に、ベストなパフォーマンスを発揮できるかと言うと、それは違うと思うが」
直史への正しい理解である。
プロ野球の人間は勘違いしているが、直史はトーナメントか、それでなくても短期決戦や、あまり詰まっていないスパンでのピッチングしかしていない。
その完璧を求めるピッチングは、シーズンを通しての統計的なピッチングを求めるプロに通用するか、一度も検証されていないのだ。
直史には野球しかないわけではない。
求めているのは、幸福である。その幸福の一部に、野球を楽しみたいという気持ちはある。
だがプロのシーズンを見てみれば、一年の始まりから自主トレはあるし、キャンプが始まってからは二ヶ月近くは隔離されるし、シーズンが始まってからは遠征がある。
そんな忙しい人生は求めていないのだ。
そもそも休みが取れないと、佐藤家の家長としての、役割が果たせないではないか。
まあその点に関しては、まだ父が元気なので、任せてもいいのだが。
プロ野球界という世界に身を投じるには、直史にはしがらみが多すぎる。
帰属意識が高い組織に、新たに加入することは出来ない。
辺見としてもそれは、頷いてくれた。
直史は実力はともかく、それ以前の人格や、人格形成をした環境が、プロには向いていないのだ。
本人は野球自体は好きなのだが。
何かこれからも、面倒なことは起こるかもしれない。
ただ無理矢理に直史をプロの世界に連れて行っても、求めるような結果は得られないだろう。
「これからもまた、色々なことが言われるかもしれないな」
「色々と話すのは勝手ですけど、それでこちらの対応が変わると思ってもらったら嫌ですね」
直史は色々と言われれば言われるほど、頑固になるタイプであるのだ。
入学式が終わればすぐに、六大学の春のリーグは始まる。
それまでには法律系サークルの方でも、色々とイベントがあったりする。
今年は三年生になるが、基本的に直史は野球部で、瑞希は出版の話で忙しい。
それにいよいよ来年は、法科大学院への編入がある。
直史と瑞希は三年間で四年分の単位を取り、法科大学院に入る予定である。
一応予備試験の方も受けてみるつもりであるが、さすがに勉強時間が足りていると思えない。なんといっても合格率3%の狭き門なのだ。
ただこれに合格できれば法科大学院を経由せず、司法試験に進むことが出来る。
ちなみに司法試験に合格する者の中で、最も割合が多いのが、この3%の難関を突破した者なのだ。
直史としては当初、これに合格した後に司法試験を受けて、大学卒業からすぐに司法修習に入る予定であった。
しかしいかに直史が勤勉であろうと、野球で結果を出せるぐらいの練習とトレーニング時間を確保した上で、これにも合格するというのは不可能。
よって素直に法科大学院に進むことにしたのだが、単位を早く取ってしまえば、四年目からそちらに通うことになる。
「賞金出たんだろ、奢れよ~」
さっぱり事情を知らないサークルの人間は、こんな風に絡んできたりする。
確かに優勝した日本チームの選手には、約500万円が分配された。
だがMVPを取っても得られるのは、名誉だけである。
「アホか。学生が賞金の出る大会に参加したら、その賞金はもらえないんだよ。俺の場合も全部寄付になったっての」
まあ実際はその同額を、無返済の奨学金としてもらったわけだが。
大学にいる四年間の間は、無返済の奨学金と、授業料もただの直史は、それなりに倹約したことによって、この卒業後の大学院期間の学費と生活費などを貯めていた。
だがこの500万のおかげで、それは確実にどうにかなりそうだ。
まあこれも野球のおかげであると言えばそうなのだろうが、なんでこれがプロ野球に進む理由になるかは分からない。
はっきり言って詐欺か宗教勧誘の手段に近いな、と思う直史である。
とりあえず金銭的な余裕が出来たので、久しぶりのサークルのコンパに、しっかりと参加出来る直史。
なんだかんだいって、金というのは大切である。
ツインズから聞くに、同じ年の大介は既に、毎年数億円を稼いでいるそうだが、それはあくまでの日本一の例外である。
一つ下の真田も、数千万の年俸になったと聞くと微妙な気持ちにもなるが、これはアリとキリギリスのようなものである。
野球選手というものが、年間に何人生まれて、何人クビになっていくか。
そしてクビとまでは言わないが引退したとして、どれだけがその道で食っていけているか。
そういったことを考えると、自分の身が自分だけのものではないと認識している直史は、プロの世界に飛び込めなかったというのも当然である。
「そこ! 瑞希に酒を飲ませるな!」
珍しく鋭い声で警告する直史に、驚くサークルの人々。
瑞希としても遠慮はしていたのだ。二十歳の誕生日に、直史と一緒に祝った時、ワイン一杯で酔っ払って、その後の記憶がない。
ただその次の日、直史が甲子園決勝並の真剣な顔で、自分か両親以外のいるところでは、絶対に酒を飲まないようにと言われたのだけは確かである。
「え~、なんで~? 瑞希も20歳になったんだし、そこまで彼氏が束縛するのはいけないと思いま~す」
「彼氏じゃなくても瑞希には絶対に酒は飲ません」
直史は基本的に、女性に対しても公平である。
それはいい意味でも悪い意味でもそうであり、女性だからといって何かを許容するということはない。
瑞希は明らかに別扱いであるが、それは瑞希が女性だからではなく、瑞希が瑞希だからである。
ムキになる直史が面白くて、かえって酒を勧める周囲であるが、珍しく直史が筋力を発揮して文化系どもを振り払い、瑞希の前の酒を自分の胃に片付ける。
「いいか、瑞希に酒を飲ませるのは、本当に危険なんだ。それこそ自分の家で、何かを壊しても誰かを殴っても平気なような、そんな状態以外では飲ませるな」
「え、そんなに?」
「それって酒乱ってレベル?」
「酒乱だ。しかも口も無茶苦茶悪くなって、まるで二重人格みたいになる」
ここまで言ってしまうとかえって逆効果な気もするが、とりあえず危険性は宣伝しておかないといけない。
法律系サークルの人間としては、下手に飲酒を勧めた場合、その人間にも罪がつく場合があるので、これは止めざるをえない。
なお、直史の話は、ある程度誇張されている。
確かに瑞希は酔っ払うと、ガードが緩くなるし攻撃的になる。
口が悪くなるのは本当にその通りだ。
しかしその内容がお下品な方向に偏り、さらに淫乱になる。
まあたまにはそういうのもいいのだが、他の人間のいるところでは困る。
とことん独占欲の強い男であるが、これはさすがに当然の心配であった。
法学部の三年生ともなると、直史や瑞希のように、四年目から法科大学院への編入を考える者も出てくる。
その中では直史が野球をやりながら、それだけの成績を維持しているというのが、信じられない者もいるわけである。
「そりゃお前らが遊んだりバイトしたりしている時間を、野球に使ってるだけだからな」
「え、お前、バイトとかしたことないの?」
「一時的なものならしたことあるけど、ある程度続いたものはないな」
「へえ、その一時的なものって何よ?」
「バッティングピッチャー」
それは特殊すぎるアルバイトである。
瑞希もまた、確かにアルバイトをしたことがない。
ただし彼女の場合は、執筆活動が兼業になっているとも言える。
それで自分の学費が出せるぐらいまで稼いでいるのだから、ぶっちゃけ直史よりも金持ちなのだ。
高校時代には小説家志望の部員などもいたわけであるが、実質文筆業で生計を立てられそうなのは、彼女だけであろう。不思議な運命だ。
もっともこれもあくまでも、兼業と言うよりは副業なのだが。
WBCが終わってから、また直史の周りは、様相を変じた騒ぎになっている。
それでも変わらないところが、直史の直史たるゆえんである。
間もなく春のリーグ戦が始まる。
そうなればまた、周囲が騒がしくなるのは分かっているのだ。
――ちなみに。
直史は二人きりの時は、瑞希に飲酒を勧めたりもしている。
普段は清楚な瑞希のギャップに萌えているあたり、こいつはやはりエロい男である。
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