第117話 閑話? 専用キャッチャー
変化球の中でも最も異質な変化球であるナックルは、その変化があまりにも見極めにくいため、ナックルボーラー専門のキャッチャーがいたりする。
それとはまた別の問題であろうが、佐藤直史と上杉勝也は、キャッチャーに問題があった。
前者は球種が多すぎてキャッチャーが混乱することであり、後者は球速が速すぎるため、キャッチャーが逸らすことがある。
樋口などは神奈川を倒したいなら、正捕手の尾田をどうにかすれば、上杉の全力投球を受け止められるキャッチャーがいないのではと思っていた。
だが代表合宿の最後の調整において、樋口以外のキャッチャー、福岡の二ノ宮と北海道の山下は、共に上杉のスピードボールをしっかりとキャッチする。
プロはさすがに凄いなと思いつつ、数球投げてもらっただけで、樋口もアジャストする。
これで代表のピッチャーは全員、どうにか捕れると確信する樋口であった。
そして問題が一つ。
樋口はピッチャーに適応できたが、キャッチャーが直史に適応出来ない。
出来なくはないが、最適化は無理である。
「ほんとにこんなに投げ分けてるのか……」
早稲谷のバッテリーが使っているサインを見て、呆れ返るNPBトップレベルのバッテリー。
考えてみればワールドカップの時も、直史専用として樋口が使われたのだ。
ワールドカップの時は、ジンと考えたサインを樋口に憶えてもらった。
だが現在使っているサインは、その時よりもさらに細かいものとなっている。
「これは樋口君に任せよう。私たちはそれより、相手のバッターの分析に絞っていきたい」
山下の思考放棄に、んだんだと頷く二ノ宮である。
この人も酒が残ったまま試合に出て、変なリードをしてしまったという逸話に欠かない。
高校卒業後のまだ成人前に、飲酒をスクープされて痛い目にあったことがある。
本人曰く二ノ宮家の親戚は、小学生の高学年には普通に飲酒を始めるそうな。
元々アルコールの分解能力が高い遺伝子を持っているらしく、とにかく酒を飲むリアルあぶさんである。
そんなことを言っていて、樋口が負傷でもしたらどうするのだという話だが、コスパを考えればキャッチャーの頭脳は、他に向けたほうがいいというのも確かだろう。
かなり簡易化したサインは、さすがに渡したのだが。
トッププロのレベルのキャッチャーになると、だいたいピッチャーの力というのも分かってくる。
上杉などは言うまでもなく、とにかくパワーが圧倒的なのである。
ならば他のピッチャーの中では、誰が一番凄いのか。
MAXで160kmを投げる東条以外にも、150km台後半を投げるピッチャーは大勢いる。
だがとりあえず、コントロールの化身が直史であることに間違いはない。
上杉なども構えたところから、5cmほどの範囲に投げることは出来る。
もっとも高めに外れたストレートは、何度か捕り損なったことがあるが。
その点直史はと言うと、とにかくミットの中に飛び込んでくる。
直史としてもプロのキャッチャーはさすがに樋口並だなと思って投げるのであるが、受けているキャッチャーとしてはそのレベルではない。
キャッチャーとしての最も基本的なキャッチング。
受けているだけで脳内麻薬がドパドパ出てくるほど、ミットをずらすこともなくキャッチ出来る。
あとは変化球である。
元々カーブなどは、緩急をつけるために使われる球種なのだが、その遅い球を、早くしたり遅くしたり、変化の量を調整してくる。
そして軌道は違うのに、収まるミットの位置は固定。
あの複雑なサインの意味が分かった。
このピッチャーの球を受けるためには、あれぐらいの複雑なサインがあった方が面白い。
よってサインの表はちゃんと憶えることになるのだが、さすがに全てを記憶するだけならともかく、これを上手くリードするのは不可能である。
ただ、樋口はやったのだ。
もうちょっと簡易なサインではあったが、ワールドカップで組んだ時に、このピッチャーをリードしたのだ。
「どちらも凄いですね」
練習が終わり、山下が二ノ宮に声をかける。
「そうだな。あの二人が組んでたから、ワールドカップも優勝できたわけだ」
同意しつつも二ノ宮は、バッグから取り出したチューハイのプルタブを開ける。
まだ夕食の前であるのだが。
それを言うと二ノ宮は、練習で消費したエネルギーを、アルコールで補充しているだけだと言う。無茶苦茶である。
WBCとは言っても、他のチームの選手のデータは集まりにくい。
メジャーリーガーであったりすると別なのだが、ネットの外国語のサイトにさえも、年間のシーズンの記録程度しか残っていない。
逆に言うとメジャーリーガーや、そうでなくても韓国や台湾などの選手は、情報が集まる。
上杉と違って直史は、データがないと圧倒的なピッチングは出来ないピッチャーである。
と、少なくとも本人は言っている。
ワールドカップの時、全然データなかったじゃないか、とか言ってはいけない。
本人が高校時代よりもレベルの高いはずの大学野球で、パーフェクト無双出来るのはデータがそろっているからだと認識しているのだ。
さらに言えば代表に選ばれるような選手など、既にネットで好むコースや球種などが、明らかになっている場合さえある。
だからこそ事実上パーフェクトに抑えられた。
相手が強いかどうかではなく、相手の強さがどれだけ分かっているか。
そのデータの蓄積により、直史は力を発揮するのだ。
もちろんホームランだけを警戒して、一般的な配球で投げるだけでも、かなりの勝率を残せるだろう。
甲子園で試合した時など、相手のデータはそれほどにもなかったろうに。
いくらデータがあっても、弱点を的確に攻めるにはコントロールが必要である。
単純に制球がいいというだけではなく、自分のメンタルをもコントロールする技術だ。
わざと好きなコースに投げて、それを力ませて抑える。
それはメンタルの強さがないと出来ない芸当だ。
今、直史は投げ込みは終えて、代表メンバーのバッピなどをしている。
マシーンよりも正確で、セットも口で説明すればいいだけの、便利なマシーンである。
たとえばスライダーとカットを投げ分けてほしいとか、変化の大きなカーブを打ちたいとか、そういった要望にはほとんど応じられるのだ。
「こいつ超便利。球団にほしい」
などという選手もいるが、直史はデータを蓄積している。
壮行試合の前にも、過去のデータを浚って傾向は見出した。
しかし実際に対戦し、バッピでもって試してみると、その本当の事実が見えてくる。
得意なはずのコースに投げても、凡退にすることが出来るようになった。
とりあえず一人で試してみて、あとは大会前に絶不調になったら困るのだ、数球試してみただけだが。
一般的にピッチャーとバッターの勝負は、最初はピッチャーが有利だと言われている。
なぜならどんな球を投げるかが、バッターには実感出来ていないからだ。
球速や変化球の種類などは分かっていても、それはあくまでも机上のデータ。
実際にどんな球なのかは対戦してみないと分からない。
そしてピッチャーのデータを集めて、同時にピッチャーもバージョンアップやバージョン変更によって、相手にデータを蓄積させない。
だが直史の場合はデータを蓄積して攻略しようにも、投げる球種が多すぎる。
特にカーブ、スルー、そしてストレートの組み合わせは極悪なのであるが、スプリットとチェンジアップも無視できず、時々使うシンカーも無視出来ない。
つまり、慣れても対応出来る幅にない。
右のピッチャーではあるが、シュート変化のボールもしっかり使えるし、カーブ系とスプリット系で、落ちる球を区別出来る。
よほど絞って狙い打ちをするしかないのだが、絞る範囲を見透かされたら、それも通用しない。
データが揃えば打てるどころか、こちらのデータを吸われて全く打てなくなる。
データがなくても配球の基本を守れば、まず連打を浴びることはないだろう。
この大会におけるキャッチャーの大変な点は二つ。
一つは言うまでもなく、上杉のスピードボールを捕ること。
そしてもう一つは、直史の変化球を活かすこと。
さすがに日本代表だけあって、スルーの全力でも、数球を投げてもらえばアジャストしてキャッチ出来るようになった。
だがこの、緻密で精密すぎるピッチャーを、どうしたら上手く活かせるのか。
上杉はその球威ゆえに圧倒的な成績を残しているが、直史の場合はコンビネーションで打ち取るタイプだ。
もちろんストレートにも威力はあり、空振りの取れる変化球はあり、実際に一試合平均10個以上の三振も奪っているが、と言うか15個ぐらいは普通に奪っているが、スタイルとしては弱点を上手く突く打たせて取るタイプなのだ。
樋口に任せるというのも一つの選択ではあるが、負傷などで交代した時に、上手く使えなくて困るというのも馬鹿な話である。
そこでバッピも実戦感覚で、キャッチャーをやる山下と二ノ宮である。
怪物とか超人とか鉄腕などと、上杉は呼ばれる。
確かに地上で最も速い球を投げるのだから、そんなことを言われてもおかしくはない。
だがパワーの象徴が上杉だとすると、テクニックの象徴が直史なのか。
「ラオウとトキだな」
二ノ宮はそんな風に言うが、山下がマンガ好きでなかったら、おそらく通用しなかっただろう。
実際のところあの大学選抜を相手に、上杉が最初から完投していたらどうなったろうか。
少なくとも他のピッチャーが投げた二日目は、日本代表が圧勝していた。
一人160kmを軽く投げてくるのがいて、それがまた佐藤の弟というので、驚きはしたが。
上杉であれば、15回まで無失点は続けただろうと想像出来る。
シーズン中とは違う、本気で投げる上杉だ。
ライガースはスターズに勝って二年連続の優勝をしているが、上杉相手には分が悪い。
二年間、プレイオフでは四回の対戦があるが、0勝三敗一分である。
それだけプレイオフの上杉は恐ろしいのだ。
だが直史を打てたかというと、それも疑問が残る。
さすがに15回まで投げさせたら別と言いたいが、現在は12回までは規定であるし、そこまでなら大介の打席もあと一度回ってくるだけだ。
他のバッターも、慣れることなど出来はしない。
言い方は難しいが上杉は柱のように高みに到達した人間で、直史は麓の広い山脈とでも言おうか。
上杉よりも、投球の幅は広い。
もっとも圧倒的な球速があれば、投球の幅が狭くても相手は対応出来ないが。
キューバには160kmを投げるピッチャーがいるし、それに近い球速のピッチャーも多い。
それを打線がどうやって打っていくかが、ポイントになるだろう。
現役のメジャーリーガーが、何人もいるのだ。
本当のトップレベルとまではいかないが、各球団の戦力になってはいるぐらいである。
日本が他の国よりも優っている点は、選手の平均値と連繋プレイ。
いわゆるスモールベースボールだ。
隙を見せずに相手の隙を突く。
それに日本は、ピッチャー大国と言われる。
日本人のメジャーリーガーを見れば分かるように、野手よりは投手の方が活躍している割合は大きい。
ピッチャーなら日本人というのは、メジャーでもかなりの共通認識になりつつある。
上杉のような別格以外にも、去年は一年日本で投げていた矢沢や、今年から渡米した柳本など、スカウトの注目するピッチャーは多いのだ。
単純に球速だけなら、日本人選手でもそれほど突出した者は少ない。
だがキャッチャーとの間で考える投球術などを含めれば、日本のピッチャーは平均的に高いレベルにある。
他の二人が直史のボールを捕るのと同時に、樋口は他のピッチャーのボールを捕っている。
基本的には正捕手は山下が務めるはずであるが、アクシデントがいつ起こるのかは分からない。
その時のために、他のピッチャーも把握しておく。
将来自分がプロ入りした時には、バッターとして対戦することを考えて。
ちなみに直史は、スルーの投げ方を訊かれた。
つまるところジャイロボールであり、あとはどれだけ軸を保てるかと、球速をストレートと変わらないように出せるかが問題である。
軸を保つというのは、かなり重要なことなのだが、どうしてもこれは縦スラになってしまう者が多い。
「つまりライフル回転をつければいいんだよな?」
「簡単に言うとそうですね」
結論付けるのは、肘に負担がかかるだろうということ。
直史が故障しないのは、肘だけではなく手首も使って、上手く回転をかけているからだ。
あとは、指先のほんのわずかな感覚。
この指先の感覚は、他の変化球においても重要になる。
直史はただ力をかけてボールを変化させるのではなく、その力を制御して変化量を変える。
曲がると思っていた変化球が案外曲がらなければ、それはそれで逆に打ちにくいものなのだ。
変化球にそこまでの注意を払うのか。
と言うか、他のピッチャーはそんなこと出来ないぞ?
そう思った選手たちであるが、ここに出来る人間がいるのだ。
タイタンズの加納なども、変化球の変化量は制御できると言っていたのだから、そういうレベルで変化球を投げるピッチャーも一定以上はいるのだろう。
かなり少ないとは思うが。
ピッチャーの多くは己の既成概念を変えられてしまったし、キャッチャー二人もこんなことが可能だとは思っていなかった。
「下手にピッチャーに精密なことを求めない方がいいですよ。俺もナオと組んだ後、正也相手にそんなピッチング求めなかったし」
「俺は下手なピッチャーだったのか……」
地味に上杉弟がダメージを受けている。
「お前も21世紀枠相手とはいえノーノーするぐらいの力はあるんだから、そんなに気にするな。これはむしろナオの方がおかしいんだ」
その通りである。
キャッチャーにとっては、はっきり言って最高のピッチャーだろう。
自分のリードに、完全に応えてくれるピッチャー。
恐れ知らずに内角を攻めて、アウトローの出し入れも自由自在。
体に曲がると思った角度から、ゾーンの中に球を入れてくる。
素晴らしいピッチャーだということは間違いない。
ただ、ただである。
これだけピッチャーが完璧な投球を行うのであれば、打たれれば全てはキャッチャーの責任ではないか。
もちろん打たせて取るつもりが、ポップフライでお見合いとか、内野ゴロが上手く守備の間を抜くとか、そういうことはあるだろう。
それでも三振を取ることだって出来るのだ。点を取られてしまえば、それはキャッチャーの責任になるべきだ。
何度も言うが、素晴らしいピッチャーであることは間違いない。
だがリードするのは大変な、キャッチャーを試すピッチャーでもある。
×××
おそらく明日か明後日あたりから、4.5が開始出来たらいいなあ。
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