第109話 オーダー
大学選抜の選手による練習試合は、翌日も行われた。
当然昨日、90球投げている直史は登板予定はない。
投げようと思えば投げられるのだが。
物を投げる行為というのは、人間が手に入れた進化の中でも、かなり強力な特徴である。
他の類人猿にも物を投げる種はたくさんいるが、その中でも野球のピッチャーのように、色々な投げ方を工夫した者は、おそらくいないであろう。
他のスポーツであれば、一番強力な投げ方というのが存在する。
だが対戦相手がいる場合は、単に強いだけではなく、幻惑させる投げ方が出来なければいけない。
特に一番強力な、オーバースローからスリークォーターまでの投げ方であると、強力なピッチャーというのはそれだけ、腕に負担をかける。
関節の軟骨、靭帯、腱、毛細血管などが、投げるたびに壊れていく。
そしてそれが回復する時間が必要なために、プロはローテーションを組んでいるのだ、などと言われる。
中継ぎやクローザーが連投するのは、そこまでのダメージが残らないからだとか、
だがよく見てみれば、中継ぎやクローザーで長年安定した成績を残した者は少ない。
数年間だけは活躍したが、消えてしまうというパターンだ。
おそらくこれが、連投からの回復が出来ていないことの証明ではないのか。
もっともそれを言うなら、上杉は平気で連投も行うし、直史も平気である。
ただ直史は、全力で投げなくても、コンビネーションでアウトが取れるのだ。
上杉のような、肉体的な超人とは、また違うものだと思う。
しかしあれである。
現在のような球数制限に関しては、武史のようにある程度の球数を投げないとパフォーマンスが悪く、そしてかなりの球数まで投げても出力が落ちないピッチャーには、不利な条件である。
この練習試合においても三イニングを投げたが、初回に二点を取られた。
腹が立ってブルペンで肩を作って、次の二イニングを全員三振でしとめたが。
最初からある程度肩を作ってからでないと、ベストなピッチングが出来ない。
だがその肩を作るためのピッチングでも、たいがいのバッターなら抑えられてしまう。
なかなか使い方の難しい性能であるのだ。
日米野球の時は、セレクションもあったものであるが、こちらは別に親善試合なども行うわけではないので、連盟と辺見、各所属大学と選手が同意すれば、自然と集められる。
ただ将来プロを目指す選手にとっては、現役のトッププロと対戦するだけに、スカウトへのアピールには大きい。
そんな中で直史は、自分の欲望に正直であるが。
あるいはその胸中には、より高いレベルでの戦いを望むものがあったのか。
NPBのまさにトップレベルと戦えば、それでどういう結果になろうと、自分の中でケリがつけられるのではないか。
そんなことを考えながら、瑞希は早稲谷大学新聞サークルの肩書きで、試合を見学していた。
下手をしなくても、金が取れる試合である。
そんな試合の中で、直史は淡々とアウトを積み重ねていた。
誰一人としてランナーを出さず、27個目のアウトを取る。
瑞希もいいかげんに、直史の存在がどれだけありえないものかは分かってきている。
日本史上最強であろうと言われる上杉ですら、大介以外の人間に打たれて、点を取られることはあるのだ。
もちろんプロの長いシーズンと、短期間で終わるトーナメントなどを、一緒にすることは出来ない。
上杉はノーヒットノーランを三回、そしてそのうちの一回は完全試合をしているが、こんなピッチャーは日本の歴史においても他にない。
三年連続で20勝以上の勝利を上げており、そして四年間で80勝を突破している。
単純計算であるが、10年で200勝に到達し、その時にまだ28歳である。
38歳まで投げたとして、途中でさすがに衰えることはあるのか。
だが少し衰えても、40歳ぐらいまで投げられれば、400勝を超えるのではないだろうか。
人間の肉体に必要な栄養素や、老化を防ぐ成分なども、過去に比べればずっとわかってきている。
極限まで安定したピッチングが出来る上杉であれば、400勝の突破も夢ではないだろう。
それも中継ぎなどを含まない、先発のみでの400勝。
それを夢と断じていいものだろうか。
そしてそんな上杉よりも、常人離れした成績を残しているのが直史である。
直史はたとえ大学を卒業しても、クラブチームなどに所属して野球を続けたいと瑞希に言っている。
それは本心だろうが、直史を満足させるような相手は、そういった場所にはいないだろう。
本人は草野球でも楽しめると思っているらしいが、それを父と話した時、レベルが違いすぎて相手が敬遠するだろうと言っていた。
直史が野球で本当の楽しみを得るためには、より高いステージに進むしかない。
だがそれを瑞希は言えない。
直史に今の進路を選択させてしまったのは、自分がいたからだ。
そして父も、直史を望んでいる。
難関である司法試験を突破して、父の弁護士事務所を瑞希と共に継いで、地域の人々に貢献する。
それももちろん立派なことであるとは思うが、直史が本当に、彼にしか出来ないことは違うであろう。
出来ることと、やりたいことは違う。それはそうだ。
しかし直史は、やりたがってもいるのだ。
人生を賭けてまではやろうとしないだけで。
誤解を恐れずに言えば、ある意味直史は、臆病なのである。
プロ野球選手のような、毀誉褒貶の激しい職業に就くような、家庭環境になかった。
人格的に、プロの世界に進むのは拒否反応があるのだろう。これはもうどうしようもない。
試合が終わった後には、樋口や武史、そして西郷に対して、直史に尋ねる選手が多かった。
本当にアレはプロにか行かないのかと。
直接聞けばいいではないかと思うのだが、近寄りがたいらしい。
確かに弟である武史から見ても、兄の集中した様子はいつもと違う。
そんなに戦いたかったら、プロに進めばよかったのに。
武史はそう思う。別に今からでも遅くはない。
あの兄であればプロで投げながら、その間に勉強して司法試験合格ぐらいはするだろう。
法曹の資格についてあまり詳しくない武史は、そんな頓珍漢な考えを持っていたりする。
正直なところ中学に入る頃は、将来の夢はNBA選手だった武史である。
セイバーはNPBに行けと言ったが、将来的にはMLBに移籍するのも悪くない。
給料が断然違うらしいし、それに本場のNBAの試合を見られる。
NBAとMLBはある程度シーズンは被っているが、MLBのシーズンが終わってから、NBAのシーズンは始まる。
おそろしく自分勝手な未来を描くあたり、武史もなかなか救いがたいものがある。
それに才能と素質が備わってしまっているのだから、余計に性質が悪い。
だが武史には決定的な弱点がある。
それはプロとして活動していくことへの、モチベーションの低さだ。
ハングリーでないと、上には行けない。
もうプロともなると、そういうレベルなのである。
ある意味、メンタルは強い。
打たれて負けても、それほど落ち込まないからだ。
だがそれだけに、その状況を克服するという、向上心には欠ける。
しかしプロの世界は、どんなピッチャーでも勝ったり負けたりが普通であるので、そのあたりを気楽に考えられる武史は、逆にプロに向いているのではと思わないでもない。
負けず嫌いでないと、プロの選手には向いていないと言われるが、それはプロレベルまで成長する選手に必要な資質で、元々プロレベルに達する才能であれば、むしろ切り替えの早い方がいいのではないか。
集められた選手たちは、一度解散した後、休養明けにプロ選抜日本代表と戦うことになる。
もちろん直史たちも帰るのだが、大学が東京にあるので、あまり変わらない。
春休み期間中ではあるが、早稲谷は当然ながら練習をしている。
その中には今年入学の淳もいる。
公式戦などには出られないが、部内紅白戦には出場して、しっかり結果を出している。
だがプロを目指す淳としては、重要なのは初年度ではない。
対戦相手がデータを蓄積してきて、それでも勝ちをもぎ取れるかどうかの、三年生以降だ。
相手が慣れてしまったら、普通に打てるピッチャーなのか。
それとも慣れること自体が出来ない、本物の左のアンダースローなのか。
この見極めによって、スカウトがかかるかどうかは決まるだろう。
あとアンダースローとは言っても、ある程度まで球速は上げておきたい。
球速を上げることによって、ボールの軌道が変化する。
ライズボールになれば、ストレートの威力は格段に上がる。
難しい選択をしたな、と直史は思う。
左のサイドスローの方が、球速は出るのだ。
それでも充分に貴重なタイプだったので、そこから伸ばしていくことも考えられた。
しかし唯一無二のオンリーワンとして、アンダースローまでを選んだ。選んでしまった。
だが直史は、今回だけは誰のフォローもしない。
調整をしつつ毎日、軽い投げ込みを行う。
研ぐのだ。
シーズンを戦うというのなら、むしろ刃は鈍く、確実に打撃力を与える鉈のようなものになるべきだ。
切れ味ではなく、頑丈さと継戦能力を考える。
しかしこの戦いは、一回だけ。
その一回に調整していける直史の方が、この後にWBCを控えたプロよりも、その点では有利だ。
日常を崩すことと、日常を維持すること。
両方を直史はしている。
瑞希の部屋で過ごすことは多いが、色っぽい雰囲気にはならない。
一緒に寝ることはあっても、本当に寝るだけ。
色々と大人になって、直史の性欲はけっこう強いのかなと思っていた瑞希であるが、今の直史は嵐の前のような、やけに静かな雰囲気を持っている。
だいたい最近は、寝るときは疲れ果ててそのまま寝てしまう瑞希が、ちゃんとパジャマを着て寝るのは、非常に珍しいことだ。
直史は少し、甘えたようなことをしてくる。
瑞希の手を握ったり、肩にかかる髪の匂いを嗅いだり。
かといって露骨に求めてくるわけではない。
むしろ瑞希の方が、生殺しになっている気がする。
だが、なんだろう。
直史が可愛い。
おおよそ初めて会った時から、直史は瑞希にとって、気になる異性であった。
男としてしか見れないというのがあったのだが。
(これって、母性本能?)
おそらく違う。
直史にとって瑞希は、少女であった。
思春期を迎える前に抱えたトラウマを感じない、無垢な存在。
それは何度も肌を重ねて、お互いの快楽を極限まで求めまくっても、消えない感覚。
自分だけのものだと感じる、支配欲をちゃんと満たしてくれる存在。
「直史君、あんまり運動したくないなら、その、私がしようか?」
そんな提案をしてくる時も、ほっぺたを真っ赤にしているのだろう。
「瑞希、悪いけど俺は、するのは好きだけどされるのは嫌いなんだ」
性の不一致である。
瑞希としても経験を重ねて知識を増やしていくと、自分が一方的に快楽を受けていることは分かってくる。
だが直史は、そうやって瑞希を快楽の中に落とし込むことで、自分も快楽を得ているのだろいう。
簡単に言ってしまえば、直史は攻められるのが嫌いなのだ。
一方的に相手を支配する関係というのは、彼の精神性の根本を安定させる上で必要だ。
そして相手が自分を支配することを許す瑞希も、また直史に対しては優位な面を持っている。
一方的な関係のように見えて、精神的にはどちらも依存しあっている。
不健全なのかもしれないが、安定はしている。
二人はまさに、鍵と鍵穴のような関係なのだ。
純粋に恋人としてだけではなく、人生を共にするパートナーとしてだけでもなく、取材する人間という客観性を持った立場から、瑞希は分かる。
直史は野球が好きだ。
そしてまだ、自分の本当の限界を、見つけきれていない。
このまま野球の頂点への道を行かないことで、後から後悔するものはないのだろうか。
そう思うが、直史にとっての人生とは、そういうものではないのだろう。
人間の人格の根幹に関わる部分で、そういうように出来ている。
瑞希が口出ししても、そういう価値観を植えつけたのであろう家の人間が言っても、おそらくは無駄である。
なぜかと言うと、直史はそういう人間だからだ、としか瑞希も答えようがないのだが。
朝がくる。
決戦の朝がやってくる。
舞台は東京ドーム。
日本で完成した、最古のドーム球場にして、現在では各種イベントでも使われる、日本の野球の一番新しい聖地と言えるだろう。
ミュージシャンでさえ、採算が取れるのはほんのごくわずかという、観客収容数に各種設備。これよりも新しいドーム型球場はいくつも作られたが、利便性を含めて考えると、間違いなく日本一の舞台である。
大学選抜はユニフォームが揃っていない。
しかし日米野球に出ていた者は、統一された日本代表のユニフォームを持っている。
そしてプロ選抜の日本代表は、当然のように日本代表のユニフォームである。
出会ってすぐに対決ではなく、交流も兼ねて合同練習を行ったりする。
勘違いしてはいけないのだが、これはあくまでも壮行試合。
選手間の連繋プレイなどをしっかり出来るようにするため、実戦的な練習をするわけである。
他に友好国との台湾代表とも、大会前に試合が一度ある。
この大学選抜との二回の試合も含めて、三回の試合で、選手たちの相性なども試すわけだ。
だからあくまでも、交流試合であり、親善試合なのだ。
それをぶっ壊すことを考えているピッチャーと、そんな考えのピッチャーがいることを知るバッターが、一人ずついるわけだが。
お互いのメンバー表を確認して、大学選抜監督の辺見は驚いた。
まさかこんなオーダーだとは。
高いチケットを払ってでも、これは見る価値があると思われたのか。
甲子園や神宮ではない、観客席の音の反響。
全日本ではドームも使った試合もあったので、それ自体は直史も初めてではない。
だが直史だけならず、観客や視聴者、全てが驚いたこと。
それはプロの日本代表側のスターターである。
一番 ショート 白石大介
直史でも驚いたのだから、他の人間も当然驚いた。
今日の試合の先発は直史であるが、一点取られるまでは代えないと、辺見に言われている。
「他のバッター全部抜かして、いきなり最終兵器と対決か」
今日は問題なくバッテリーを組む樋口も、大介が三番以外を打つのを見るは、代打以外では初めてである。
しかし冷静に考えれば、一番バッターとしての適性がないわけではない。
俊足の左打者で、選球眼もあり、出塁率が高い。
そして、一人で点を取ってしまう長打力も持っている。
おそらくこれは、大介が自分で言い出したことだろう。
直史としてもこれなら、本気を出さざるをえない。
個人としてだけではなく、チームとしても勝ちにきているな、と思う直史である。
「一度でも出れば、四打席目が回ってくるか」
直史はこの事実を、非常にシンプルに捉えた。
一人も出さずに封じなければ、大介と四回対戦しなければいけない。
面白すぎる演出に、直史は薄く笑った。
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