十章 大学二年 彼にとって最初で最後の
第107話 戦いたい
佐藤直史は、自分で思っているよりもずっと、才能を持っている人間である。頑なにそれを認めようとはしないが。
それでも彼の才能の中で、何が特別優れているか。
最も彼を身近で見てきた佐倉瑞希は、空間把握能力と集中力と答えるだろう。
ピッチャーというのは速い球が投げられたり、すごい変化球が投げられるのも、もちろんその優れた資質である。
だがピッチングを科学的に、相手のデータまで含めて考えれば、相手が打てないように、ボールをコントロールする必要がある。
直史はそのボールの軌道を、明確に頭の中にイメージ出来た。
そしてそのイメージ通りの球を投げる、飛び抜けた集中力も持っていた。
あとはそのイメージ通りに打ち取ることを信じる精神力か。
彼にとってピッチングというのは、脳を使った頭脳作業なのである。
なので試合中にもバナナを食べるし、水分や塩分もしっかりと補給する。
三年の夏の決勝、再試合の九回。
最後まで投げ切って倒れたが、あれは疲労によるものではない。
脳みそが情報処理をしすぎて、オーバーヒートしただけなのだ。
自分でそう認識出来たのは、大学に入って以降の話となるが。
人間の肉体の限界は分かる。
だが頭脳の限界はどこにあるのか。
直史はジンを信じて投げていたが、微調整は自分でしていた。
チェンジアップでも、それは空振りをさせるのが目的なのか、それとも内野ゴロを打たせるのが目的なのか。
ジンは直史に、無茶な要求はしなかった。
直史自身が自分で自分に、無茶な要求をしていたのだ。
そして今は、樋口をそれに巻き込んでいる。
「よし、織田さん対策は完了だ」
「……」
何かを言いかけて、結局は言わない樋口である。
寮の裏手でピッチングをしている二人だが、それを見ている瑞希としては、マウンドのないところで投げて、変なところを痛めないかというのが心配である。
「次は……北海道の山下さん」
「まあ、あの人は絶対に出てくるだろうからな」
現在のNPBはどの球団も正捕手の高齢化が進んでいるが、若手で確実に出てくるであろうキャッチャーが北海道ウォリアーズの山下だ。
「でも必要か? 捕手としては超一流だけど、バッターとしてはあんまり打率は高くないと思うけど」
「まあこれを見てくれ」
二人は瑞希の座るベンチで、タブレットを操作する。
直史が全く瑞希に配慮をしていない。
これほどないがしろにされたのは初めてで、かなり驚いている瑞希である。
放置プレイだが別に興奮したりはしない。
直史はプロのバッターと対戦するにあたって、その候補である40人分のデータを用意してもらった。
セイバーに頼んだので金がかかることを覚悟したいたのだが、投資として無料で提供してくれた。
ただ結果だけは求めてきたが。
「へえ、あの人こんな球に弱いのか」
「五球使うけど、確実に打ち取れるだろ」
「配球的にはな。あとは実際のリードでどれだけ対応するかだ」
データはデータ。あくまで統計に過ぎない。
それを利用した上で、その時点での正解を考える。
下手に読みすぎると、相手は自分の弱点だけに絞って振ってくる。
「福岡からはまあ、この三人か」
「けれどポジション的に被らないか?」
基本的にバッターは、パ・リーグの方に強い選手がそろっている気がする。
ただレックスの西片のように、リードオフマンとして必要な選手もいる。
今回の召集は、基本的にプロ二年目以降の選手のみとなってる。
そして年齢の上限も、30歳前後だ。それ以上の選手であると、若さの回復力がないため、シーズン戦に響くのである。移動が多く連戦も多いため、その疲労は若くないと回復しきれないほどになるはずだからだ。
ほとんどの選手とは、初めての対決になる。
だがプロの選手は、情報も豊富なので分析し放題である。
「ただプロが弱点を、そのままにしておくはずもないな」
樋口はデータを絶対視はしない。
プロは必ず、毎年のようにバージョンを変える。
あるいはバージョンアップする。
大介のように全ての能力が上がるのは例外としても、スピードボールに弱いバッターがそれを専門に打つようにしたり、逆に変化球の苦手なバッターは、スピードボールへの対処を後回しにして、変化球に対応出来るようにする。
これがおかしな性能の選手だと、シーズン中に自分の持っているデッキを丸ごと変えるようにして、直前までのデータを使えなくしたりする。
バージョン変更、あるいはバージョンアップを毎年行う、プロの選手と戦う。
その恐ろしさは、年次ごとのバッターのデータを見ていても、はっきりと分かった。
部外者である瑞希は、思わないでもない。
司法試験と司法修習が終わり、二回試験が終わって法曹の資格を得たところで、順調に進んだなら直史は24歳。
大卒の選手が社会人に進んで、プロに指名されるとしたら、その年齢もまた24歳である。
つまり24歳でプロに指名されるのは珍しいことではないのだ。
資格を取った上で、プロの道を選んでもいいのではないか。理論的には不可能ではない。
プロ野球選手の寿命は短い。その本当にわずかな時間を、野球だけに使ってもいいのではないか。
自分はそれまで待てる。
直史が野球をしている姿は、ずっと見ていたい。
草野球の試合をする直史に、お弁当を持っていく自分を想像する。
それはそれで素晴らしい光景なのだろうが、大観衆の中でマウンドに立つ直史の姿は、それよりも美しいだろう。
瑞希は自分で思っているほど、散文的な人間ではない。
ノンフィクションの中に叙情性を残せるような、そういった感性を持っている。
だが、その可能性について瑞希は言わない。
さすがの直史でも、本格的に野球を離れて二年もすれば、その技術や能力は落ちているだろう。
クラブチームでぼちぼち練習すると言っても、司法修習などの期間に、まともに野球が出来るはずはない。
直史は野球は好きだが、自分の体が思うように動かない状態で、野球をすることに、そして高いレベルで戦うことに満足出来るのか。
それに、直史が瑞希と離れたくないと思っているのは、確かに分かるのだ。
別に瑞希がついていってもいいのだが、さすがに瑞希まで勉強をおざなりにするのはまずい。
両親はそう言っても、納得はしてくれるだろう。
直史がプロの世界で戦う選択肢を採れるのは、そこが最後だ。
あるいはプロを引退してから、あらためて司法試験を受けるか?
だがそれは直史がこれまでに積み上げてきた、弁護士になるための勉強を中断させることになる。
野球の技術と一緒で、弁護士としての技術も、磨かなければ錆びつくのだ。
時は迫っている。
直史だけではなく、大学選抜の代表として集まるような者は、たいがいがプロを志望できるような、大学野球でも突出した技術を持っている。
それが本物のトッププロと、比べることが出来る絶好の機会。
もちろんマスコミもはじめ、球団の監督などの首脳陣と、フロントに属するスカウトなども見に来るわけだ。
来年のドラフトを目指している者、たとえば西郷などは、絶好のアピールチャンスだ。
樋口や武史にしても、プロの目から見られて、そしてプロの選手と対決出来るというのはありがたい。
大学でもプロと対戦する機会もあるが、およそその相手は二軍である。
もしくはオープン戦の、まだ体が仕上がっていない時の一軍レベル。
どちらにしろ、本物のトッププロとは言いがたい。
しかし今回選ばれたプロは、確実に直前までは仕上げてきているはずだ。
WBCは、日本はある程度シード的なものになるが、対戦する相手はメジャーリーガーも輩出する国が多い。
最近のみならず、外国人のメジャーリーガーは多い。
アメリカの球団はMLBの機構と対決してでも、自球団の選手は出したがらない。
WBCで得られる収入などよりも、MLBのシーズンの方がはるかに大事だからだ。
選手本人も、金になるのがどちらかははっきり分かっているのだろう。
傲慢にして、強大なる野球大国アメリカ。
だが他の国籍の選手は、自国のチームの名前を背負って、戦う名誉を重視する者も多い。
結果的にはアメリカが負け続けたことが、ある程度の選手を出す理由になった。
それでも3Aの上位と、MLBの中間にいるような選手が多いが。
大介がいて、上杉がいる日本代表。
投手の球数制限がなければ、100%間違いなく日本が優勝出来る。
だがそれがあったとしても、今の日本なら中途半端なアメリカになら勝てるはずだ。
つまり日本代表は世界一になるチームで、それと戦うのが大学選抜なのだ。
大介には言った。完封してしまって、自信をなくすようなやつがいるかもな、と。
正直に言えば直史は、さすがにそこまで甘くはないのがプロだとは思う。
しかしセイバーの集めてくれたデータがここにある。
これを元にして戦えば、互角以上には戦える。
大介と、正面からの対決だ。
正月に実家に帰った時は、妹たちも興味津々な顔をしていた。
直史が本気になっていたからだ。
もちろんこれまでの直史が、本気でなかったわけではない。
だが日常の一部として野球を取り入れていた直史が、今は野球を中心にして動いている。
大介は年明けから、自主トレに入っているらしい。
なんだかちょっと雰囲気の変わった妹たちが報告してきた。
WBC候補の人間はもう、例年よりも早く体を絞ってきているだろう。
直史はずっとトレーニングをして、そして微調整に入る。
早稲谷の練習場の一角は、WBCの大学選抜組が集まっている。
そこでは他とは別次元の練習をしている。
直史が抑えても、打線の援護がなければ勝てない。
別に勝てなくても、壮行試合なので0-0のまま引き分けにはなるが、それは打線陣が嫌なのだ。
よってバッティングピッチャーとして、直史と武史が駆り出される。
新しく使うようになったスプリットが、非常に効果的だ。
右打者にとっても左打者にとっても、バットの根元に向けて変化させることで、内野ゴロが取れる。
大きめに変化させれば、空振りも可能だ。
ただどうしても不可能なのは、スルーをコマンドに投げ入れること。
ゾーン内の高低と内外程度には投げ分けることが出来るようになったが、実のところこの球種が一番効果的なのは、ど真ん中に投げた時ではないだろうか。
誰でも打てるど真ん中。
それを空振りさせることで、バッターのプライドはズタズタにされるだろう。
あまりに簡単に凡退が取れるので、他の部員を生贄にしながら、調整をしていく。
もちろんスプリットだけではなく、従来のカーブやチェンジアップも試していく。
その中には樋口さえ訳の分からない球種があったりする。
一度落ちたような感じがして、そこから伸びてくるボール。
魔球か?
スルーの投げそこないらしいが、そんなものを投げられてもさすがに初見では捕れない。
いや、ちゃんと来ると分かっていなければ、捕れないものだろう。
早稲谷の一般の選手たちは気の毒である。
いや、あるいはいい体験になったとも言えるのか。
甲子園優勝投手が、甲子園でパーフェクトをしたピッチャーが、さらに進化し続ける。
どこまで行くのだろう。
道の果てまで行けば、そこから先は自らが道を開拓していくしかないであろうに。
カーブを投げる。
直史にとって一番厄介だと思った他人のカーブは、細田のものである。
細田はあれに大学で磨きをかけたことによって、プロの世界へと飛び立っていった。
新人の合同自主トレで取材など受けていたが、合同な点でそれはもう、自主トレじゃないだろうと変なところに突っ込んだのが直史である。
そんな一月も終えて、二月も半ばになってくると、直史のピッチングも最終調整に入っていく。
「120!」
直史のピッチングの、唯一と言ってもいい弱点。
それは球種が多過ぎ、それも速度や角度、プレートの踏み出し位置まで違うので、サインが複雑になるということだ。
もっともそれは、投げる方は言われたとおりに投げるだけなので、樋口の方が大変だろうなと直史は思う。
樋口に言わせれば、そんなコントロールのあるピッチャーは、間違いなく他にいないのであるが。
120kmのカーブが、バッターの胸元から縦に沈んで、ミットの中に収まった。
「140!」
真ん中寄りの甘い球が、バッターの膝元へと沈んでいく。左右の変化のあるスプリットだ。
東京ドームで試合は行われるため、雨や風といった条件は考えなくていい。
しいて考えるなら寒さであるが、それもドーム球場なのだ。
空調の関係でホームランが出やすいとも言われるが、それは大きなフライを打たせなければいいという話。
だが大介の場合は、かなり例外になるだろう。
あのスイングを思い出す。
ピッチャーに絶望を与えるスイング。今度はそれが、自分に向けられるのだ。
紅白戦ではない。しかしただの練習試合でもない。
それを思うと、高揚する自分がいるのも事実だ。
(なんとなく分かってきたぞ)
この高揚する感覚を得たくて、ピッチャーは強打者との対決を望むのか。
だが本来ならば直史としては、まず試合に勝つことが一番なのだが。
今度だけは、例外にする。
どんなバッターを相手にしても逃げない。
普通なら敬遠にして塁を埋めた方がいい場面でも、バッターと勝負する。
そもそも逃げなければいけない場面を作らない。
「MAX!」
152kmにまで球速を増したストレートが、インハイギリギリのコースを突いた。
次のボールは、樋口の簡単なサインがある。
同じストレート。だがギアを上げる。
腕がしなり、ほとんど同じフォームから、わずかに指で弾くイメージが強い。
上がった球威のストレートは、ミットを通して樋口の体全体に伝わった。
完成した。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます