第105話 もう一度だけ

 限界を超えようともがく者がいる。

 そういう場合直史は、たいがい言ってやるものだ。

 無理をしても長くは続かないと。

 だが限界を超えるために、足掻いて、足掻いて、足掻いて、自分の上限を超えた者もいるとは知っている。

 それで致命的な怪我をして、二度と野球が出来なくなる確率が高いのも知っている。


 直史はずっと、野球を続けていくことを考えていた。

 高校一年の夏、人生で一度の、故障らしい故障。

 指の血マメやスタミナ切れは、故障ではない。


 もう一度だけ、あの領域に達してみよう。

 直史はそう考える。

 利益を得るために勝つのではなく、自分がただ勝ちたいがために勝つ。

 自分の存在証明を賭けて戦う。

 限界の、その先まで。

 本当の本気で、真剣にやってみる。

 その覚悟が定まった。




 そして直史は地味なトレーニングを開始した。

 何よりもまず単純なのは、球速のアップである。

 こういう時、自分の体格が残念に思うのだが、それを言えば大介などは蹴ってくるだろう。

 結局180cmにまで5mm足らないところで、身長の伸びは止まった。

 男性は23歳ぐらいまで伸びることもあるらしいが、さすがにもう限界であろう。


 球速増加において、まず必要なのは、瞬発的な筋力。

 そしてスタミナに、腱や靭帯の耐久力。

 これらを守るためには、インナーマッスルが必要である。

 だがかといって、コントロールを失うわけにはいかない。


 直史が比較的たくさん、野球部に顔を出す。

 そしてブルペンで投げ込みをしたり、トレーニング機材を使ったり、バッターに対してバッピをしたりする。

 あくまでもマイペースでありながら、その練習量はこれまでの比ではない。


 こいつ、今までどれだけ手を抜いてたんだ?

 周囲はそうは思うが、その手抜きのピッチングで、常にチームを勝たせてきたのだ。

 そして手を抜いていたこいつが、本気になっているということ。

 どこまで研ぎ澄ませるつもりかと考えると、ぞっとする。

 普通に投げてノーノーを達成できるピッチャーが、これ以上を求める。

 その頂点がどこにあるのかは、誰も知らない。


 直史は考える。

 神宮大会が終わって、一週間のオフがあった。

 そこから使える時間は、二ヶ月。

 二ヶ月で鍛えてから、一ヶ月で微調整をする。

 これで果たしてどこまで、自分の能力を伸ばせるか。




 トラッキングマシンは大学にもあるが、性能が不充分である。

 樋口に付き合ってもらうのは悪いので、プロ入りが決まっていて、ついでに色々と調べた方がいいであろう細田を誘ってみる。

 埼玉にあるセーブ・ボディ・センター。

 そこで投げるボールの各種数値を計測してもらうのだ。


 細田はその数値を元に、トレーナーから指導を受けている。

 元々まだまだ筋肉が少ないので、これからさらに球速などが上がる余地はある。

 直史も野球選手としては筋肉が少なめなのだが、出来るだけインナーマッスルだけを鍛えたい。

 下手にパワーアップしてしまうと、コントロールが利かなくなるのは、今年の春に分かっていたことである。


 じっくりと、じっくりと鍛えていく。

 必要な筋肉を、ほんの少しずつ。

 だが確実に分かるように。


 どれだけ球速を増すことが出来るか。

 それが第一の課題ではあったが、それだけとも言えない。

 新しい球種が欲しい。

 速く鋭く変化して、空振りを取るタイプが。


 一番その条件に合っているスルーを、既に持っている。

 だがどうしてもこのボールは、コントロールがつきにくいのだ。

 一般的なバッターならともかく、超一流に投げるのには不安が残る。

 スルーを活かすためにはスルーチェンジを使うべきなのだが、スルーチェンジは普通のチェンジアップのようなものだ。

 それがコースをコントロール出来ないのだから、直史としては使いづらい。


 その中で一つ、使えそうな球種が出てきた。

 正確にいえば既に使っている球種を、もう少し変化させるというものだが。

 スプリットを、左右のどちらかに動かしながら落とす。

 握りでボールの縫い目の抵抗を斜めにつければ、どちらかの調整が利きながら落ちる。


 これを使おう、と直史は思った。

 今までもスプリットは使っていたが、馬鹿正直にまっすぐ落とすだけのものだった。

 落ちるボールなら縦のカーブや縦スラもあるのだが、このボールの方が鋭い。

 そのくせ縫い目で空気抵抗が変わるのか、減速はしにくいらしい。スルーほどの、伸びながら落ちるような変化ではないが。




「お前いったいどこ目指してんの?」

 樋口も呆れる。当たり前である。

 確かに直史の変化球の中に、ストンと落ちるタイプのボールはスプリットだけであった。

 それにわずかに回転をかけることで、斜めに落ちながらもスピードはそれほど落ちないとか。

「俺はただ、出来れば一点も取られたくないし、そのためにはランナーを一人も出したくないと思ってるだけなんだ」

「何を言っているのか俺には分からん」

 高校時代、上杉勝也が「新幹線のスピードに比べればたいしたことないだろう」と言っていたのを思い出した樋口である。

 この二人は全く似ているところなどないのに、発想が規格外なところだけは共通している。


 ただそう愚痴りながらも、付き合ってくれるのが樋口である。

 ドSのくせにツンデレさんって、そんな需要はハーレークインにいかないと少ないぞ。


 とりあえずこの斜めに落ちるスプリットは、確かに使えるものだと分かった。

 スピードがけっこう出ているので、落差は少なくても空振りは取れそうだ。

 重要なのは全ての変化球を活かすために、ストレートを強化すること。

 もっとも140kmも投げられなかった頃に、クローザーとしてパーフェクトリリーフをしているのだが。


 以前に、さすがにノーノーをプロ相手には出来ないだろうと言った樋口だが、その認識は変えないといけないかもしれない。

 国際大会で12イニングをパーフェクトに抑えているのだから、あるいは。

 もっとも他の国の野球というのは大味なので、日本相手とは勝手が違うだろうが。

「あと、近藤にちょっと頼みがあるんだけどな」

「あ、俺か?」

「あの妙に揺れるナックルっぽいストレートの投げ方教えてくれ」

 ナックルストレート、そんなのもあるのか。

 これはナックル用の巨大グラブを入手する必要があるかもしれないな、と遠い目をする樋口であった。




 現在の直史の球種を、自分の中で区別して投げているのを数えると、大変に多くなる。

・カーブ系 パワーカーブ、スローカーブ、ドロップ、スラーブ、縦のカーブ、普通のカーブ。

・スライダー系 スライダー、縦スラ、カット、スラッター。

・シュート系 シンカー、高速シンカー、シュート、スクリュー。

・ストレート系 ツーシーム、フォーシーム、高回転フォーシーム。

・スプリット系 フォーク、スプリット、右スプリット、左スプリット。

・チェンジアップ系 チェンジアップ、サークルチェンジ、スルーチェンジ、高速チェンジアップ。

・その他 ナックルカーブ、スルー。


 他に実は投げられるが投げない球もあるし、この分類も色々と間違っていたり、いや間違っていないと言われたりもする。

 直史の認識としては、こういう分類なのである。スクリューは一応区別しているが、シンカーの方が使い勝手がいいため、全く使わない。

 あとはパームボールなども投げられるが、チェンジアップの精度の方が高い。

 本当に投げられないのは、ナックルぐらいなのである。


 ナックルというのは、変化球ではない変化球だ。

 おかしく思うかもしれないが、理論的にはそうなのである。

 ストレートが実はある程度のシュート回転がかかっているように、あるいはバックスピンがかかっているように、全てのボールには回転がかかっている。

 フォークも回転が少ないものだが、ナックルの場合は縫い目を計算して無回転にし、空気抵抗で変化をつける。

 直史の知る限りでは、瑞雲の坂本と、近藤だけがナックルの使い手だ。

 もっとも近藤の場合は、ナックルの投げ方をしていないのだが。


 近藤のナックルは、ナックルではない。

「普通にストレートを投げてるつもりなんだけどな」

 近藤のストレートは、飛ばないということで有名であった。

 回転数が少ないため反発力が少ないということもあったが、それよりは微妙に芯を外して打ってしまっていたからだと思う。


 いわゆる、通常の価値観では悪いと言われる垂れストレート。

 それが微小に揺れているのだが、直史はさすがにこれだけは諦めるしかなかった。

 近藤のフォームで、テイクバックまで変えないと、おそらくは投げられないと思ったからだ。

 同時に、近藤はまだピッチャーを諦めなくてもいいのにとも思った。




 直史のコントロールは、単にコースだけを意味するのではない。

 スピード、変化量、変化の角度、緩急差、そしてタイミングのズレ。

 全てをコントロールしてこそ、本物のコントロールと言うべきだ。

「何言ってんのお前」

 素で突っ込んでしまう樋口だが、確かに直史はそれをコントロール出来ている。


 また、こういうこともあった。

 内角の球を捌くのが苦手なバッターに、真ん中から1cmずつ、体の方向に投げるボールを近づけていく。

 30球も投げれば30cm内角に入ることになり、苦手意識を消すことが出来た。


 単純にピッチャーとしての才能だけを言うなら、出力の問題でこれ以上の選手はいくらでもいるだろう。

 だがバッティングピッチャーとしては、間違いなく世界一だ。


 速い球と遅い球のコンビネーション。

 直史はひたすらそれを磨く。

 そんな中で樋口は言った。

「トッププロ相手じゃさすがに無理って言ったけど、訂正するわ」

 考えてみれば、そういうこともありなのだ。

「初見で対戦するバッターなら、一試合は通用する」

 それにWBCの壮行試合は、かなり特殊な打線を組んでくるはずだ。 

 試合の途中で多くのバッターを試してくることもあるだろう。


 樋口も直史とのやり取りの中で、この不世出のピッチャーが、何を考えているのかは分かってきた。

 現在の日本のトップレベルと戦う、ほとんど最後の機会であるのだ。

 最後の甲子園の決勝を戦うつもりで、全力で仕上げてみせる。

 大学選抜を監督するのは、辺見になるはずである。

 二試合のうち、普通に考えてピッチャー一人が投げるのは一試合。

 それも丸々一試合は投げないはずだが、一人もランナーを出さなければ、ある程度は伸ばせるだろう。


 一人もランナーを出さない。

 いくらなんでも無理だとは思う。

 それに向こうが、プロが上杉を一試合通して投げさせれば、それこそパーフェクトさえありえる。

 上杉は大介のいるライガースを、パーフェクトに抑えたことがあるのだから。

 こちらにも西郷や樋口に、各大学からトップレベルの野手も選出されるはずだが、上杉を打てる者がいるとは思えない。

 高校時代の上杉であれば、おそらく樋口あたりはどうにかしてくれるのかもしれない。

 だが上杉はもう、人間の限界に最も近い領域にいる。

 自分では絶対に到達しえない、まさに超人の領域だ。




 大学野球にも明確なシーズンオフはある。

 もちろんその間も練習はあるわけだが。

 三月の上旬に行われる壮行試合に出るのは、既に引退している四年生を除いた一年生から三年生まで。

 数日の合宿を行い、それから改めて選手は選ばれる。

 基本的には日米野球に出た選手から選ばれるのだが、四年生が卒業しているため、かなりメンバーは補充される。


 今回は辺見が監督ということもあり、早稲谷から多くの選手を出すことになる。

 あとは神宮に出た選手から集めなおすことになるが、何人かは全日本で活躍した選手も集めるのだ。

 そのメンバーを見たとき、思わず直史は笑いそうになった。

 あのワールドカップの体験を共有した選手が、多く集まっている。

 もちろん大学に入ってから成長した、新顔の選手もいるが。


 樋口は全日本と神宮の二大会において、出場する選手のデータをおおよそ頭の中に入れている。

 直史もまた、対戦した相手のことは記憶にある。

 神宮で戦った東北環境大などの選手も、この代表メンバーには選ばれるだろう。

 もちろん時期的に四年生がいないので、経験値は少ない面々となるのだが。


 選ばれるのは一応、日本代表と同じ、28人。

 ただしWBCと違って長いリーグ戦を行うわけでもないので、この人数の全員を使うとは思えない。

 特にピッチャーは本番に合わせれば、大学側はこれだけの人数を集める必要はない。

 まあプロを相手に戦えるということで、これに選ばれるだけでも名誉ではあろう。

 WBC側は現役の監督を連れてくるので、ドラフト候補となる選手を見つけることが出来るかもしれない。


 直史は、少なくとも一試合は一人で投げきるつもりでいる。

 あちらは商品なので、ピッチャーに無理をさせることは出来ないであろう。

 だがアマチュアの大学は、特に直史がプロに進まないと分かっている辺見は、多少の無茶も聞いてくれる。

 あるいはそこで、無理をしすぎて故障につながるかもしれないが。


 早稲谷に入学して、リーグ戦は三回優勝し、全日本と神宮でも優勝した。

 もう大学にとっては、直史を手に入れた報酬に見合うだけの働きはしたはずだ。

 だからリーグ戦での後の試合を考えることもなく、全力を尽くすことが出来る。

 あるいはここで故障して、春のリーグ戦には間に合わなくなるかもしれない。

 だがそれを賭けていいほど、相手にとって不足はない。


 三月、大学野球も練習試合が始まるシーズン。

 そのわずか前に、大学代表選手が集まることになる。

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