第99話 閑話 作家になりたいわけじゃないけど
瑞希は直史ほどではないが、忙しい大学生である。
勉強もそうであるが、それ以上に面倒なのが出版社の編集との話である。
『白い軌跡』の時も顔を出して売らないか、と散々言われたものだ。
瑞希は化粧なども地味なので目立たないが、写真に撮ればはっきりと分かる美人である。
元から身だしなみには気を付けるタイプであったのだが、大学生になるとそれなりにファッションにも気を遣う。
もっとも瑞希の場合は、派手にならないような上品なメイクを心がけているが。
そういう格好の方が、直史は好きであるらしい。
隙のない格好の瑞希を担当する編集は、これまた女性である。
野球のノンフィクションを担当する編集など、男が多いと思ったのであるが、意外であった。
「男の視点から見た野球の本なんて、もういくらでもありますから」
アラサーで派手な、しかしどこか疲れた表情も見せる彼女は、出版社宝石舎の担当編集、五十嵐美鈴。
がははと音を立てて笑いそうな彼女は、かなり豪快である。
現在瑞希が書いているのは『春の嵐』である。
最終稿をチェックしてもらって、これでようやく本になる。
はっきり言って実際に書くよりも、関係者の許可をもらう方が大変だった。
もっともそれは編集の美鈴も手伝ってくれたのだが。
あと明日美とツインズに、直接強力を仰いだのも大きい。
「じゃあこれで問題ないですね」
美鈴としてもかなりの売上が見込めそうな本だけに、かなり気合が入っている。
「でも『白い軌跡』はともかく、これも本当に売れるんでしょうか?」
瑞希としては別に、売れてもらわないと困るわけではない。
ただわざわざ本にして、売れなかったら美鈴も困ると思うのだ。
「だいじょーぶだと思いますよ。『白い軌跡』の時と同じような感じで盛り上がってますし。S-twinsの写真だけのために買う人もいるでしょうし」
笑いが止まらんぜ、とにっかり笑う美鈴に、瑞希はUSBメモリを渡す。
「実はフィクションを少し書いてみたんです。監修者の意見も聞きながら」
「へえ」
途端に美鈴の表情が鋭いものになった。
大人の顔だ。
仕事をするこういった女性の顔を、瑞希は思い出す。
セイバーがしていたような表情だ。
「もしも東大が優勝するとしたらってことを考えてみたんです。まだプロットだけ作って、頭の方を書いてみただけなんですけど」
「どれ、ちょいと拝見」
ノートPCにメモリを差し込んで、さらっと流し読みする美鈴である。
「面白そう」
そう呟くと、本格的に読書に没入する。
瑞希の観戦記録は、まだまだいっぱいある。
ほとんど日記代わりに、直史のことを書いているのだ。
あとはその周囲の人間のことを書けば、この時代の大学野球の、早稲谷を中心とした物語が出来上がる。
出版するようなものではないが、記録として残しておくべきだろう。
社会派小説を読む彼女は、当事者たちの記録というのが、どれだけ大切か分かっている。
冒頭部を読み終えたらしい美鈴は、腕を組んで唸りだした。
「けっこう面白い……。面白いけど……」
「現実の方がもっと面白い」
「その通り」
瑞希も書いている間に、そう思っていたのだ。
白富東における、SS世代の記録。
そこにいるキャラクターはとにかく強烈すぎる。
セイバーやイリヤのように、リアルに世界を動かせる者もいれば、直史や大介のように、後に世界を動かしてしまうような者もいる。
ツインズのように、後に芸能人になってしまった者もいる。
そしてそれらの人々の、青春のきらめきが結実するのが甲子園なのだ。
『春の嵐』はサブタイトルとして「東大野球部女傑伝」などと書かれている。
しかしそれに比べて瑞希と直史の想像の範囲にあったものは、リアリティを追及しただけに逆に面白くなくなっている。
野球の玄人向けかもしれないが、『白い軌跡』が売れているほどには売れないだろう。
あれは事実とは思えない現実が、本当にあったことなのだと記録したものなのだ。
「それにしてもこのタイトルって……」
美鈴が呆れるのは分かる。
単純にこのフィクションは『東大野球部物語』というタイトルである。
しかしサブタイトルというか、一般向けに分かりやすいタイトルも一つ用意してあるのだ。
『~もし甲子園準優勝投手が東大野球部のエースになったら~』
当初は優勝投手にしようとしたのだが、準優勝にしておいた。
決勝でボロボロに打たれて負けたというところから、物語を始めたかったのだ。
あと六大学リーグは年齢ではなく、在学年数で出場出来る年数が決まる。
だから主人公は一浪にしておく。東大なら一浪ぐらいはいいだろう。
そしてその浪人時代のせいで、入部当初はかつての実力を発揮出来ない。
そこからトレーニングして筋力を、練習して勝負勘を取り戻し、東大を勝たせるエースとなっていくわけだ。
美鈴はもちろん、ある程度野球には詳しい。
それだけに東大が六大学リーグで優勝をすることの、荒唐無稽さが分かる。
だが事実として、東大は春のリーグで二位になった。
早稲谷に佐藤直史がいなければ、優勝していた可能性は高い。
「これ、最後にはどうなるの?」
「東大が優勝して終わりですけど」
「主人公はプロに行ったりしないの?」
「はい、当初の東大入学の経緯からして、野球で身を立てるつもりはないですから」
「いっそのこと冒頭に、プロから指名される描写を出したら?」
「そこから過去を遡っていくと?」
「そうそう」
小説のテクニックの一つで、いきなりクライマックスや衝撃的なシーンから始まり、そこに至るまでを描くという手法だ。
別に珍しいものではなく、サスペンスやミステリーでは多用されてる。
だが時系列から順番に流れる作品を読むことが多い瑞希には、自分の書く物語にその手法を持ち込むことには抵抗があった。
これはあくまでも段階を踏んでいくことが重要なのであって、いきなりクライマックスから書くというのは違うと思う。
ただ、大学生がプロから指名されるのには、プロ志望届を出していないといけない。
主人公にプロに行く気がないとすると、家族や恩師が勝手に出していたとして、それは現実ではありなのだろうか。調べる必要がある。
瑞希が難しい顔をしたのに対し、美鈴もすぐに代案を出す。
「あとは追放系にするとか?」
「追放系、ですか?」
「そうそう、この主人公のおかげで甲子園の決勝まで進めたのに、決勝はさすがに疲れて滅多打ち。そこから仲間との絆がなくなって、逃げるように東京にやってくる。そして他の六大に入った昔のチームメイトを見返すみたいな」
瑞希は首を傾げる。まあそういうこともあるのかな、と言うか、直史がそれに近い。
「中学時代チームメイトのせいで不遇未勝利だったピッチャーは高校の守備堅実なチームで覚醒無双する、とか?」
かなり違うのだが、発想の方向性は似ている。
「そういうのが、まあもっと軽めの小説で中高生からおっきな子供にまで、売れる要素の一つなのよね」
「舞台を変えて見返す……ああ、中国の春秋戦国時代にありましたね。つまりは復讐物ですか」
「あ、そういうのも読むの?」
「はい、彼の影響で」
佐倉瑞希は佐藤直史と婚約している。
事実であるし、指輪も隠そうとはしない。
もっとも安物であるらしいが。
直史は腕時計さえも、左右のバランスがおかしくなると言って胸ポケットなどに腕時計を入れていたりする人間だが、さすがに普段はちゃんとこの指輪をしているのである。
つくづく異色だな、と美鈴は思う。
少なくとも現在の日本アマチュア野球において、佐藤直史は最高のピッチャーである。これは議論の余地もない。
強いて言うなら才能は、弟の方があるのかもしれないが。
目の前の瑞希も含めて、弁護士になることを選んだという。
そしてその進路が変わることはなさそうである。
上杉がいるから、日本一とは言えない。
だが間違いなくアマチュア最強ではあるピッチャーが、プロには行かない。
確かに話を聞いている限り、プロ野球が合うようなタイプではないようだが。
美鈴はノンフィクションの作家だけではなく、フィクションの両方を書く作家も担当している。
その人々の文章と比べると、瑞希の文は簡潔で抑制が利いていて、学者肌の男性作家に多いタイプだ。
本人も確かに抑制ある、自律心に優れた人間に思える。
変わり者や、社会生活に難のある作家を相手にしていると、こういうタイプに接するのは本当に助かる。
美鈴としては読みたいのは、瑞希の書くフィクションではない。
監修が入ればそれなりに面白い作品が書けるかもしれないが、現実の面白いことの知られていない部分を書いた方が、はるかに売れる。
編集としてはともかく、会社の人間としてはやはり、売れる本を作らなければいけない。
「ネームバリューでそこそこ売れるかもしれないけど、瑞希さんの長所はそこじゃないと思うし、やっぱり彼氏さんの動きを綴った方が面白いと思うのよね」
美鈴としては、そちらの方が絶対に売れると思う。
今の直史がやっていることは、おそらく他の誰にも出来ないことだ。
上杉がプロではなく大学にいったところで、果たしてここまでの数字は残せただろうか。
現実を伝説にしている実在の人間があれば、その実態を内部の者しか知りえないことまで伝えれば、それが一番読まれるはずだ。
白石大介が、シーズンの記録を、おそらく誰も真似できない数字で塗り替えた。
直史は毎試合のように、歴史に残ることをしている。
六大学りーぐだけではなく、全日本やオープン戦も含めて、圧倒的な数字が並ぶ。
これがどこまで続くのか、大学野球にはかつてない注目が集まっている。
早慶戦以外の試合も、ネットでは配信されている。
それらの会社のチャンネル登録者は増加し、株価が軒並上昇し、日本経済を回す役に立っている。
瑞希としても、事実を伝えるのには文句はない。
ただ、事実であってもプライベートなところまでも、どれだけ伝えるのかという問題はある。
『白い軌跡』は多くの人の視点を記した実録であるが、あえて除外したこともあるのだ。
「プライベートなことって、どれだけ入れた方がいいんでしょう」
「あ~、そういうのもあるわよね」
一億総配信時代、有名人がプライバシーを守るのは難しい。
それにスーパースターの私生活なども、覗いてみたいという層はある程度いるのだ。
瑞希の書く文章の中で、直史は確かに中心人物であるが、瑞希との関係性には触れられていない。
主な監修をしているということで、仲を考える者はいるだろう。
だが決定的なことは何一つ書いていない。それはそうだ。瑞希が自分のことを書くのは、自分の書く文章の中で自分に言及するというものなのだ。
その流れでどうして直史が弁護士を目指すようなことになったのかも、根本的な理由は濁されている。
直史が将来を決めたのは瑞希と付き合う前であるが、今では別の意味が生じている。
「登場人物の関係性で、恋愛事情なんかは、除外した方がいいですよね?」
「あ~、それは下世話な人間が勘繰るからね~」
そう言う美鈴自身、ゴシップ系のネタは嫌いではない。
「書けないけど話したいとか? 良かったらお姉さんに聞かせてみ」
ニタニタと、あえていやらしく笑いながら、美鈴は問いかける。
瑞希は困った顔をするが、誰かに話してみたかったことは確かなのだ。
編集部の区切られたスペースは、他のところからの音も聞こえてくる。
なので瑞希は、内緒話をするように身を乗り出してくる。
興味本位で美鈴も、内緒話の体勢になる。
「あの、男の人って、普通はどれぐらいセックスするもんなんですか?」
そしてぶっちゃけすぎたことを尋ねられた。
尋ねるつもりでいたら、逆に尋ねられた。それも昼間に素面ではしにくい話題を。
「え、え~と、それは、回数が、多いとか?」
「たぶん多いと思うんですけど、私は他の人を知らないので。一応そういった話をするお姉さん的な人もいるんですけど、その人も一人しか知らないし」
「ふ、ふ~ん?」
耳年増な五十嵐美鈴29歳。
この年齢まで体験人数は一人と、あまり参考にはならない人である。
「その、付き合ってからは何年?」
「正式にはもう三年ぐらいですね」
「それで……どのぐらいの頻度で?」
「高校時代は……時間があればしてましたし、大学になって私も一人暮らしになったから、毎週してるので……」
美鈴さんは最近、少しレス気味の恋人との関係に悩んでいたりもする。
まあ同棲生活も長く、そろそろ結婚も真面目に考えるべきなのかとは思うが。
それにしても、毎週か。
多いな! 大学生よ!
色々と勉強もしっかりしているようなのに、それだけするのか。
いや確かに20歳ぐらいは、一番そういったことをしていたと、自分でも思うが。
高校生は単純に場所や金がないので、お互いの家以外ですることは難しかった。
「まあ、私たちはもう10年以上付き合ってるし、同棲して長いから、月に一回か二回かな」
「え」
信じられない、といった顔の瑞希である。
「彼氏さんにガマンさせてるんですか? と言うか自分がガマンできなくないですか?」
それを言うな。けっこう悩んでいるのだ。
さすがにこの話は、スペースが区切られているとはいえ、こういうところでする話ではないな、と美鈴は今さら思う。
「ちょっと河岸を変えて話さない? 瑞希ちゃん、もう二十歳になったんだっけ?」
「はい。でも私、外ではお酒は飲みませんよ」
「あたしが飲みたいだけだし。ちょっとさ、もう少し話しやすいところに行こうよ」
自分でも下世話なことだと思う美鈴である。
だがこの、見た目は処女っぽいこの子と、あの沈着冷静なマウンド上のスーパースターがどういうピロートークを繰り広げるのか。
気にならないと言ったら嘘になる。
「そうだ、あたしの部屋はどう? 適当にツマミはあるし。今は相方、仕事で出てるし」
寂しいのである。肉体的にも、精神的にも。
そういう場所ならいいか、と考える瑞希であるが、彼女はまだ自分が、酔うとどういう性格になるか、分かっていなかったのである。
めっきりとのろけられた美鈴が、吐いた砂糖の中で溺れるのは、翌日の深夜のことである。
野球やってる男子大学生って、性欲凄いというのが結論であった。全て一緒にするのは乱暴であるが。
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