第97話 閑話 恋愛デビュー

 大学野球における神宮大会は、実は高校野球のそれと同じ時期に行われる。

 午前中から昼頃までに高校のトーナメントを行い、その後に大学の部が行われるという体制だ。

 その神宮大会までに、二週間ほどの時間がある。


 普段ならリーグ戦の終了後には一週間ほどのオフがあるのだが、全日本や神宮への出場が決まってしまうと、そのオフも短くなる。

 だがピッチャーは別である。

 直史は軽いジョギングを行って体の調子を整えて、キャッチボールだけをする。

 ただキャッチボールだけでも、100球ぐらいは投げるのだが。

 そして次の土曜日、武史の姿はグラウンドにはなかった。

 普段からサボることの多い武史だが、休みますと言わずにサボることはない。

 彼は毎日の練習を強制されることが理解出来ないだけで、別に無駄に反骨の気があるわけではないのだ。


 この日の武史の予定は、デートである。

 お付き合いを始めて、秋までかかって初デート!

 お前らいったい何してるの? と直史が呆れるほどのゆっくりしたペースである。

 以前に二人で会ったことはなかったのかと問えば、その頃はまだ付き合っていなかったし、ほんの短い時間であったということ。

 高校時代は遠距離だったので、確かにデートは難しかったし、そもそも告白前である。


 そして大学に入ってからは、野球部の練習で週末が潰れる。

 ちなみに直史は練習試合があっても平気で週末を休む男である。

 しかし武史は直史に比べると、まだ周囲に合わせることがあるため、これまで休まなかったのだ。

 それに入学からは野球で忙しく、恵美理と会う時は共通の友人も誘って、集団で遊ぶことが多かった。

 恵美理は恵美理で、大学が特殊なため、休みが安定しない。

 両者共に、二人きりでは会えないチキンである。


「初デートでもコンドームは持って行った方がいいのだろうか……」

 童貞特有の悩みを持つ武史は、信頼出来る筋にアドバイスを求める。

「当然だな」

「持っていけ。何がきっかけになるか分からん」

 直史は実際は瑞希任せで、自分で避妊などしたことのない節操なし……と言えるのだろうか。一応他の女性に目を向けたことすらない。

 樋口の場合はちょっと気が合うと、体の相性も確かめようとするため、普段から常に携帯しているらしい。


 あまり他人の性生活に口を挟みたくない直史であるが、さすがに樋口の場合はひどい。

「お前、よくそんなに知らない人間とベッドに入る気になるな」

「やってみてから知ればいいんだよ」

「地元の女はいいのか?」

「性欲の解消と愛情は別物だからな」

 こいつ、いつか刺されるんじゃないかと思う直史である。

 少なくとも野球部の連中の多くからは、もげろと思われている。




 ちなみにデートの計画を立てたのは瑞希である。

 場所は直史と樋口の入っている寮のリビングの一画。

 直史と瑞希の場合は、特に予定を立てて出かけるということは少なく、おうちデートが多くなる。

 ホテル代も節約できるし、いいことである。

 ただホテルはホテルで、色々と出来る事が多いのだが。

 自分の意外な性欲の強さを思い知らされて愕然としたりもした。


 瑞希としても直史以外の人間と付き合ったことがないため、本当に一般的なルートが出来るかの自信はなかった。

 だが樋口に任せるよりは絶対にマシである。

 恵美理の性格や、好きなものについて、武史はあまりにも無知であった。

 仕方がないので直史からツインズを経由して、明日美に話を聞くわけだ。


 恵美理の大親友が明日美であることは間違いない。

 ただ明日美に言わせると、恵美理はいろんなことに興味があって、好奇心旺盛なため、どこへ行っても楽しんでいたということ。

 おそらくそれは単に、明日美と一緒だったからどこでも楽しかったのだろう。

 彼女の女友達からの情報には、必ずなんらかのバイアスがかかっている。

 明日美の場合はほとんど、性善説で周囲に接しているし。

 彼女は周囲に多幸感を撒き散らす、特殊なカリスマを持っているので間違っていないところが恐ろしい。


 瑞希は想像力豊かな人間であるので、ちゃんとそういった裏の事情を理解する。

 恵美理は基本的には、芸術畑の人間である。

 だからといって彼女をライブスタジオなどに連れて行くのは、かなり毛色が違うであろう。

「武史君はどこか行きたいところはないの?」

「お台場行ってガンダム見たい」

「却下」

 即座にダメ出しする瑞希が、今日は凛々しい。


 恵美理は元々、東京生まれの東京育ちだ。

 裕福な家庭で育っているので、自然と銀座などにやってくるタイプのお嬢様だ。

 お嬢様相手には色々とやってあげないとダメなのかな、と瑞希もちょっと自信がなくなるが、こういった時には他の知恵を借りることに躊躇はない。

『芸術畑の人なら、池袋でルノアール展とかしてるけど』

 電話の相談相手は、早稲谷大学野球部キャプテン、北村の彼女である篠塚百合子である。

 実は瑞希とは、小学校時代から学校が同じなのだ。

 まともな相談相手をようやく発見した。


 篠塚は確かに、まともである。比較論であるが。

 中学生の頃からエロボケしているので、そちらはちょっと割り引いて考える必要がある。

 金のない中学生が、セックス以外にやることなどほとんどない。

『確かに相手の好みに合わせることも大切だけど、無理をして合わせるのも良くないわ。お互いの一番いい距離を理解しないと』

 大人の考えである。

 まあ大学を卒業したら、一年ほどして結婚しようと考えているぐらいなので、こういった考えになるのは不思議ではない。


 北村と篠塚の場合は、幼馴染だったのでお互いのことはよく知っている。

 そして普通に思春期になって関係を深めていってのだが、大学生になってからの恋愛は勝手が違うだろう。

 もっともお互いに初めての恋人ということなので、そのあたりは初々しさが必要だろうが。

 高校時代のお隣さんの頃の方が、むしろ二人の関係は爛れていた。

 住んでいる距離が開くと、ただ性欲の解消をし合うだけではなく、お互いの生活を補い合わないといけない。


 とりあえずお台場のガンダムは、男友達と行くような場所である。

 手塚にでも頼めば、嬉々として連れて行ってくれるだろう。

『こういう場合は一つの案を深く練るよりも、幾つかの案を持って臨機応変に対応出来るようにしないと』

 そう言われて色々と、イベントを考える瑞希である。

 ちょくちょく「なんで自分はこんなことを考えてるんだろう」と思うこともあるが、確かに武史は図体こそでかいものの、弟属性を持っている。

 実際は武史があと五日早く生まれていれば、同学年であったのだが。


 定番と言えば、やはり映画であろう。

 ただこれは相手の好みが分かっていないと、白けることになる可能性もある。

 あとは博物館とか美術館とか、そういってものも恵美理は好きかもしれない。

 だが武史には全く興味のないジャンルだ。


 ある程度趣味の対象が被っていないと、二人で同じ時間を過ごすことは難しい。

 この二人はそのあたり、相性は悪いのではないかと、ひそかに思う瑞希である。

「まあ体の相性さえ良ければ、あとはどうとでもなるけどな」

 樋口の言葉に、直史が呆れる。

「とりあえずお前の意見は参考にならんから帰れ」

「そういやなんで俺はここに来たんだっけ?」

 首を傾げながら去っていく樋口であるが、明らかに人選を間違えていた。




 この段階ではまだ、お互いを知ることが大事だ。

 一応目的は決めておいて、それ以外に一緒に食事をしたり、ウインドウショッピングを楽しめばいいと思う。

 それが面倒と感じたり、意味がないと感じるのであれば、それはもう合わないということなのだ。


 恋愛というのは自分の時間という有限のリソースを、どれだけ恋人という他人に注げるかというものである。

 もちろん時間ではなく金でもいいが、大学生はおおよそ、時間はあっても金はない。

「そもそも神崎さんの意向はどうなんだ?」

「こういうのは初めてで分からないから、こっちに任せるって」

 これはなかなかの難問である。


 恋愛初心者同士のデートなんで、そもそもどうすればいいのか。

 直史と瑞希の場合は、図書館に行ったり勉強を一緒にしたりと、デート自体は健全なものが多かった。

 時期が時期であれば、どこかに遊びに行くということもあったし、野球観戦などもした。

 しかし既に日本シリーズも終わったこの季節、イベントはなかなかないだろう。


 お互いの好みを知るための、探り合いのデートになるかもしれない。

 下手をすればこの一度で、一気に別れ話になる可能性もある。

 そこまで合わなければ、それはそれで早くに次に行けばいいと思うのだが。

「つーかお前、高校時代、女の子と出かけてなかったか?」

「あれは向こうが映画の無料チケット持ってて、それに誘ってくれたりしたからさ。んでファミレスで食事代はこちらが出したり」

「そりゃデートだよ!」

 思わず叫ぶ直史は、さすがに武史のめんどくささに苛々としていたのだろう。


 武史は直史と比べると、はるかに陽キャであった。

 友人と出かけることも多く、その中に女子と二人というのもあったのだろう。

「でも恋愛じゃなかったんだけど」

「相手が恋愛に発展させたかったんだろうな……」

 この難聴系主人公並に鈍い男には、面と向かって好きとでも言わないと、伝わらないだろう。

 相手の女子が不憫である。


 だがそう思うと、武史の方から行動しようと思った恵美理は、確かに初恋と言えるのではないだろうか。

「お前さ、高校時代にいいなと思った女子とか、遊びに誘ってくれた女子とか、どんぐらいいる?」

「え~、いいなって思ったってんなら、北村とかは普通に可愛いと思ったし、それこそ瑞希さんだって美人だし、セイバーさんの秘書の早乙女さんなんか、ドストライクだったけど」

 北村文歌は、卒業後東京の大学に入学している。

 野球とはあまり関係のない大学なので、ほとんど接触はないが。

「そういやあいつガンと付き合ってたな。今はどうか知らんが。それに瑞希に早乙女さんって、お前あんまり女の好みはっきりしないのか?」

 文歌はギャル系、瑞希は地味清楚系、早乙女は出来る女というタイプで、恵美理は見るからに美人のお嬢様だ。

 ただ、共通点はある。

 根はしっかりしているということだ。


 つまり可愛ければあとはどうでもいいのではなかろうか。

 しかしキャーキャーうるさい女子は苦手そうなところは、兄弟として兄と似ている。

 文歌もあれでオカン体質というか、世話焼きであったし。

「変にデートとかじゃなく、女友達と気軽に遊びに行くような感じで行ってこい。とにかく趣味の相性とかを比べてこい」

「コンドームは……」

「それは持って行け」

 断言する直史に、瑞希は小さく溜め息をついた。

 ラブラブな二人であるが、瑞希だって直史に呆れることはあるのである。




 神崎恵美理と付き合うにおいて、武史が失念していたこと。

 それは彼女が、明らかにお嬢様ということである。

 待ち合わせ場所にはちゃんと10分前に着いたのだが、彼女はそれよりも早くに来ていた。

 いや、それはいい。それはいいのだ。

 男が先に着いていなければまずいというのは、あくまでも原則論なのだから。


 しかしヤロー二人に絡まれてしまっている。

 恵美理のような見るからなお嬢様をナンパするのは、かえって成功率が低い。

 そういうことなのに、それでもナンパにあっている。

 これがあるから、やはり男が先に着いていないといけないのだ。

「神崎さん!」

 駆け寄っていくと、男どもは普通に残念な顔をした。

 そして武史の体格を見て、ちょっとたじたじとなる。

 現在の武史は、184cmの82kgという、完全なスポーツマン体型である。

 爆発力を期待するなら、もう少し体重を増やしてもいいぐらいだ。


「彼氏来たんだ。じゃあ俺たちはこれで……」

 すごすごと去っていく二人は、特に悪質でもなかったようだ。

「ごめん、俺がもうちょっと早く来てれば」

「ううん、私も本当に五分ぐらい前に来ただけだから」

 しょっぱなからハプニングが起こりそうな状況であったが、むしろこれは二人にとっては良かったかもしれない。

 ささやかながらピンチから、お姫様を救う王子様。

 正確にはお嬢様とバカボンといった感じなのだが、釣り橋効果は発生した。


 見詰め合う二人の身長差は約20cm。恵美理は踵が高い靴を履いているので、そこから5cmほどは縮まっている。

 よくもまあ恵美理のような高嶺の花に、声をかけてものである、あのナンパ野郎どもは。

「とりあえず、どこか店に入る?」

「うん」

 手はつながないが、並んで歩き出す二人であった。




「も~、あと10秒遅かったら飛び出してくとこだったよ」

「いや、大丈夫だったと思うけどね」

「タケのGPSはちゃんと把握しているし」

 ビルの陰から伺う、明日美とツインズであった。

 暇じゃないくせに、何をやっているのかね、君たちは。




 映画館に行ってお互いの興味を着き合せたところ、なぜかカンフー映画を選んでしまう。

 恵美理曰く、人間の体が激しく動く映像を見るのが好きなのだとか。

 なのでクラシック的なもののみならず、人が踊るところを見るのは好きらしい。

 完全に明日美の影響である。


 二人の馴れ初めを聞いてみると、単純なものであった。

 神崎と権藤で、机が前後。

 後ろを向けば明日美がいるということで、誰とでも仲良くなる明日美に、一番近くにいる自分が一番仲良くなったということだ。

 恵美理は明日美の話をしていると、本当に楽しそうな顔になる。

(もしかして、百合!?)

 ならば自分にこうやって付き合ってはいないだろうと思う武史である。

 まあ微小な百合成分はご褒美だろう。


 それから買い物になど行くが、意外と恵美理は自分では買い物に時間をかけない。

 女の子同士で行くと、着せ替えなどをして楽しむらしいが。

 男性に色々な服を着るのを見せるのは、なぜか恥ずかしいらしい。

 恵美理であれば今日のようなワンピースに上着というお嬢様ルック以外にも、色々と似合うと思うのだが。

 基本的に圧倒的に美形ではあるが、化粧をすれば派手な格好も似合いそうだ。


 ちょっと楽譜が見たいということで、楽譜が置いてある楽器屋にいくと、ストリートピアノ用のピアノが置いてあったりする。

 何人かが流行の歌を弾いていくわけであるが、武史はふむふむと聞いていたのだが、恵美理の顔は険しくなっていく。

 そしてピアノが空いた時、持っていたバッグを渡した。

「ちょっとこれ持っていてください」

「え、何か弾くの」

 恵美理の表情が硬い。


 武史は忘れていた。

 恵美理はかつて、天才と世界レベルで言われていたピアニスト……の卵であったことを。

 そしてもちろん彼には分からないことだが、これがイリヤでも同じようなことをしただろう。

 下手くそな音楽が鳴り響いた空間は、すぐにでも清めなければいけない。

 そんな傲慢な芸術家肌の資質を、恵美理も持っている。


 前に弾いていた人物と同じ曲を、二割ほど増しの速度で弾いていく。

 武史も兄がピアノをやっていたし、母が弾くため全くの無知ではない。

 だが彼はイリヤが弾くぐらいしか、本物の演奏を知らない。

 そして恵美理も相手が悪かっただけで、普通なら天才と呼ばれるレベルの技術を持つ、現役の音大生なのだ。


 腕が四本あるのではないかと思うほどの、速度と和音。

 メドレーが七曲続き、周辺にはどんどんと人が集まる。

 何かの撮影か、とキョロキョロと周囲を見回す人も少なくない。

 美人の壮絶な演奏というのは、それぐらいの力があるのだ。


 空気を浄化しきった恵美理が自分の世界から戻ってきた時、その最後の音が鳴り響いて消えると、大きな拍手が高い天井にまで響いて跳ね返ってきた。

 あ、やってしまった、という顔をする恵美理である。

(なんか俺の周りって、本当に天才多いなあ)

 無自覚に自分を除外する武史は、この日の健全なデートには成功するのであった。

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