第91話 相棒
今さらなことではあるが――。
六大学リーグは六つのチームが土日に二試合ずつを行うわけで、当然残りの二チームは、その土日は試合はない。
だが練習や練習試合はあるわけであるが、直史は断固としてそんな週末は休む。
どうせエロいことで週末を潰しているのだろうと思われるかもしれないが、半分しか正解ではない。
今年は、六月頃までは、大学野球の人気が、世間を賑わせていた。
全ては佐藤家のツインズと、権藤明日美の力であり、直史はとりあえずそれを粉砕したのみである。
家父長的な権威の中で生きてきた彼は、女性にスポーツで負けることに、屈辱を覚えるタイプであったので。
その意味では六大学リーグの選手は、去年からひどい被害を受け続けている。
主に「佐藤家四兄妹被害者の会」と呼ばれているが、頑張って点を取ればいいのである。
それに真田などは佐藤兄弟のせいで一度も甲子園で優勝できなかったが、被害者の会に名を連ねていない。
現在は自力で成功しているし、彼もまた九回までを完封するピッチングをしていたからだ。
高卒ですぐにプロに呼ばれるような選手は、だいたいもう大学にまでは来ない。
もちろん細田のように、大学の四年間で伸びる選手はいる。
甲子園も終わったこの季節、プロのドラフトについては、当然ながら調査書が各所属チームに送られてきている。
早稲谷であればまず細田が、七球団から既に調査書が届いている。
本人としてはのんびり構えているようだが、辺見は細田のようなタイプは、案外プロ向きだと考えている。
早稲谷であれば他には、実は清河と北村にも調査書が届いている。
あんまり他人に洩らすようなことではないのだが、北村は教えてくれた。
清河の場合は本人が言わずとも、周囲が察して話題にしてしまう。
ただ北村はもちろん、清河もあまり乗り気ではないそうな。
あとは細田とバッテリーを組んでいる伏見は、既に社会人の方へ進路を決めている。
社会人野球で一花咲かせてドラフトを待つというのではなく、もうそちらで一生を過ごそうというぐらいの感じだ。
細田の好みで今も使われている伏見だが、実力は樋口にはるかに劣るのは、もう誰が見ても明らかであった。
と言うよりは樋口が、六大学の中でも一二を争い、他の大学リーグを含めても、五指に入るぐらいの実力であるのだが。
もし樋口がいなければ、確かに伏見はもっと出番は増えていただろう。
直史としてもキャッチャーとしては及第点だ。だがそれ以上ではない。
キャッチャーのリードに、最善解はない。
最善解と思われるようなリードは、むしろ読まれることさえあるからだ。
時にはピッチャーの気分を優先し、打たれてでも勢いよく投げてもらった方がいいこともある。
そのあたりのバランスも含めて、キャッチャーは考えないといけない。
やたらめったら頭を使うし、バカには出来ないポジションであるキャッチャーは、同時に競争が激しい。
キャッチャーは専門職であるため、途中でコンバートするのが難しいからだ。
そしてピッチャーほどにはキャッチャーは消耗しないため、控えまで含めてもおおよそ二人までしか必要としない。
加えて言えば正捕手が不動であれば、控えにはほとんど出番もやってこない。
こんなドMなポジションであるキャッチャーだが、やり出したら面白くてたまらない。
二度とキャッチャーなんてやりたくないという野球選手は多くても、じゃあどこが良いのかと聞くと沈黙する。
樋口の場合はもし生まれ変わってもキャッチャーをやるだろうなというぐらい、キャッチャーというポジションを好んでいる。
それに直史の見る限りでは、プロまで含めても日本においては、樋口に匹敵するようなキャッチャーは五人もいないと思う。
そんな樋口が、少し調子が悪そうである。
正確に言うと、機嫌が悪そうであるのだ。
直史としては試合において間違いがなければ、樋口のプライベートに侵入する気はない。
だがここまでバッテリーを組んでいては、何も話さないのもむしろ不自然と思うのだ。
「何があった?」
直史は率直に問う。
樋口の調子と言うか、機嫌や気分が悪くなったのは、夏の盆休みが終わったあたりだ。
それでもグラウンドの中では、いつも通りに見せてはいる。
だが直史の無茶な提案に対しても、反対意見を述べることが少ない。
ストレートとチェンジアップだけで抑えるなどと言われたら、まずはその理由を尋ねてくるのが、これまでの樋口だったのだ。
直史と樋口は生活圏が似ていて、寮の部屋も近い。
ある程度の息抜きをする時に、お互いの部屋を行き来することは多い。
グラウンドの中では、よりその関係は密接になる。
親友と言うにはドライな関係であるが、直史にとっては最高の相棒だ。
高校時代から様々なキャッチャーに投げてきたが、一番は樋口であろう。
ジンなどは相棒と言うよりは、恩人という感じが強い。
それに樋口はパスボールはしない。
樋口の視線は、どこか刺々しい。
床に座った直史に、珍しい色の感情をつけて見つめてくる。
これは嫉妬のようなものではないか。あるいは羨望か。
「お前に影響が出ることか?」
「今はないが、解決出来るものなら解決した方がいいだろう」
眉をしかめる樋口だが、別に口が重くはなかった。
「女関連だ」
樋口はここのところ、東京では女を作っていないようである。
夏以降ということは、新潟に帰った時のことか。
直史が話を聞く限りでは、樋口の本命のはずだ。
そちらが確か年上だったはずなので、おおよそ想像もつく。
「相手に見合いか、それに近いことでも持ち上がったか」
「よく分かったな」
「うちの田舎では今でもけっこう、似たようなことをやってるからな」
はっきり言って晩婚少子化などと言われる時代、結婚できる状態の人間は、さっさとくっつけた方がいいのだと、直史は田舎の考えで判断している。
樋口の本命は七歳年上だったはずだから、今は27歳前後か。
東京ではやたらと晩婚が進んでいるらしいが、新潟ならば適齢期なのではないか。
少なくとも直史の実家の近くでは、20代半ばになると、結婚を急かされることが多くなる。
そして直史も自分が結婚するのは25歳か26歳ぐらいかなと考えている。
樋口の出身は新潟県の中でも上越あたりなので、そこそこの街ではあるのだが、都会と言い切ることもないだろう。
愛人として一生面倒を見るつもりの樋口であっても、周囲からの圧力から恋人を守る力はない。
そもそも長期休暇にしか帰らない、年下の恋人をずっと待ってくれていると考える方が、男にとって都合が良すぎる。
あと、女性が子供を望んでいた場合、出産は若い頃の方がいい。
自分自身の体力もあるが、手助けしてくれる両親の体力も問題になるからだ。
金があればな、と直史は思う。
現時点で自分に金があったなら、確かに愛人に出来る。
だが樋口は自分の身の回りこそ、自分で稼いでいるが、妻子を養う職業には就いていない。
職にも就いていない男が、七つも年上の女を待たせるというのは、女の方にばかり負担がある。
これが、樋口が高卒でプロ入りしていたら話は変わっただろう。
年上の女房を得るというのは、特殊な職業であるプロ野球選手としては、バックアップになるのでありがたいはずだ。
「自分の人生をある程度削ってでも、その女を手に入れる覚悟があるかどうかだな」
直史はそう言うが、こいつ自身は女に合わせて人生設計をしたので、全く問題はない。
樋口の将来については、直史も色々と聞かされたものだ。
野望の数値が高くて、松永久秀か斉藤道三を想像してしまったものである。
だが樋口の狙いを思うと、選択を大きく変える余地はあるのではとも思うのだ。
「お前の将来の野望、ルートを変更したらどうだ?」
直史としてはそんなことを言ってみる。
樋口の将来の目的は、国家を動かすことである。
今の日本のプロ野球を見てみたらどうか。
大介一人の影響で、新聞が毎日賑わっているし、テレビで放送されない日はない。
まあ大介ほどの影響力を発揮するのは、さすがに樋口でも無理だろう。
だがプロ野球選手、しかも早稲谷卒となれば、将来はフロントに入れるかもしれない。
プロ野球においては、既に上杉との伝手がある。
「野球選手を経由して、その知名度で勝負したらどうだ?」
樋口はわずかに考える。
樋口は自分には、政治家としての資質はあまりないと考えている。
頭脳系の労働は得意だが、カリスマや地盤などのない人間が、政治の世界に入るのは難しい。
だから官僚を狙っていたのだが……。
「官僚になって出世して日本を動かすより、プロ野球の世界に入って知名度を高める方がよくないか? お前と上杉兄弟の知名度を考えたら、球団のフロントにでも潜り込んだ方が、色々な影響力を保てると思うんだが」
「……俺がプロになって、しかもかなりの知名度を得るまでに、なれると思うか?」
「そりゃ可能性の話にしかならないけど、お前はあんまり怪我するタイプじゃないし、ツラもいいし、何より実力があるのは間違いないからな」
打てるキャッチャーというのは貴重だ。
直史はもちろん、実際のプロのキャッチャーのレベルは知らない。
だが基準となるのはジンだ。
大学に入る前に、直史以外にはジンにも、プロ球団からの誘いはあったらしい。
つまりスカウトの目から見て、キャッチャーとしてのジンはプロで通用する可能性があったわけだ。
樋口はジンに比べると、打力が隔絶している。
頭脳はほぼ互角程度だが、肩と走力も上だろう。
ただ、ジンが完全に樋口より上回っているものがある。
政治力だ。
自分のコネや伝手も使って、学校のバックアップを受けて、全校を野球部に釘付けにした。
野球部内で深刻な対立が起こったことは一度もなく、扱いづらい選手も戦力化した。
自分の能力の限界を分かっていたがゆえに、マネジメントに専念したジンは、確かに将来は監督として采配を振るうのに相応しいと思える。
だが、選手としては別だ。
樋口がキャッチャーとして優れているのは、自分もキャッチャーをやったことがある直史だけにしっかりと分かる。
ただ本人も言うように軍師タイプであり指揮官タイプではない。
だが監督が上にいるのであれば、自分の実力を発揮できるだろう。
「WBCの大学選抜チーム、お前もたぶん選ばれるだろ。そこでプロとの差を比べてみればいいんじゃないか?」
人生の分岐点。当初の予定では、樋口は大学で野球からは離れるつもりであった。
正確には上杉に勧誘されなければ、高校でももうやっていなかったかもしれない。
WBC選抜チームと、大学選抜チームの対決。
キャッチャーとしても参加出来るし、樋口であればバッターとしても活躍を求められるであろう。
プロの中でもトップレベルのバッターを相手にリードしたり、ピッチャーを打ったりするわけだ。
そこで結果を出せれば、プロの世界に進める。
官僚として日本を動かすというのも、分からない話ではない。
だが樋口の頭脳は野球においては、間違いなくトップレベルのものだ。
将来的にはフロントで働き、大企業の中の一員として、社会に影響力を与えればいい。
世界を変える方法は一つではない。
考え込む樋口だが、考え込むだけの実現性はあるということか。
少なくとも樋口は、早稲谷のキャッチャーではナンバーワンだし、打撃においても西郷の次ぐらいには優れている。
もっとも樋口の打撃は、打たれたくない時に打つという、より厄介なものであるのだが。
「そのためにはまず、秋のリーグで本気を出す必要があるか」
別に今までも遊びでやっていたわけではないのだが、バッティングは基本的に、勝てる試合では手を抜いていた。
おそらく、と直史は考える
樋口の決勝打、あるいはサヨナラ打の数は、大介よりも多いのではないだろうか。
なぜなら大介は普段から圧倒的であるがゆえに、そういう危険な場面では勝負を避けられる傾向にある。
樋口もおよそ三割以上打っているが、大介のプロにおける四割、そしてあのホームラン数は、歴史的に見ても異常だ。
秋のリーグ戦は始まったばかりで、とりあえず勝ち点は一を記録してある。
だが基本的に土曜日に投げる直史以外に、武史や細田を加えても、本気で樋口がリードしたら、面白い記録が出来てしまうのではないだろうか。
野球界を彩る、様々な輝きの星。
その中に一つ、また大きな星が、超新星爆発を起こしそうな秋の日である。
東大旋風が吹き荒れた春に比べると、まだ平和な秋が訪れると思われていた。
もっともいまだに直史の不敗神話が続いており、他の六大学のみならず、大学野球で全日本にまで勝ち進んでくるチームのバッターは、自分の評価が落ちることを気にしなければいけない時代だ。
女に負けるよりはマシと言っても限度がある。
練習試合で長期休暇中に東京を訪れる大学のチームや、特に東京近辺に多い社会人チーム。
それらのバッターは全て、早稲谷と対決する時には、完全試合をされる覚悟をしないといけない。
もっとも直史が投げなくても、四年の細田に加えて一年に武史、そして同じ二年の村上も、どんどんと評価を上げている。
その中で、樋口が面白いと思うのは星だった。
練習試合の短いイニングを投げることが多いのだが、防御率が二を切っている。
一イニングか二イニングしか投げないので、防御率は低くなるのは当たり前だ。
だが一度、先発でも投げてほしいものである。
樋口はキャッチャーとして、ピッチャーを鍛えることを考え出す。
「しかし、プロになるにしても、在京球団以外だと困るな」
先日の話の続きかと、直史も一緒に考える。
樋口が大学を卒業する時、その女性は30歳になるわけだ。
そこまで待っていろと言って、さらに一軍に上がるまで待つのか。
「社会人野球で有名どころに入ったらどうだ? 地域にこだわるなら社会人の名門でも、企業的に名前は売れるし」
樋口がドラフトにかけられる二年後、各球団の現在のキャッチャーを見る。
ライガースの島本が引退し、今は若手が正捕手争いをしている。
他にそろそろ引退を考えるであろうというキャッチャーがいるのは、やはり神奈川か。
だが他の球団の捕手を見ても、全体的に高年齢化が進んでいる。
そのベテラン捕手の座を脅かす、若手があまり出ていない。
捕手は間に合っているというチームでも、樋口の実力なら蹴り落とすことは可能だろう。
なんなら上杉のいる神奈川も、正捕手として長い尾田は、37歳になっている。
上杉勝也との高校時代のバッテリーの復活。
他の球団にとっては悪夢だろう。
もしくは埼玉で弟の上杉と組むこともあるかと考えるが、埼玉の正捕手の座は、かなり安定している。
目的のために手段を変えれば、自然と考えることも変わる。
しかし樋口もなんだかんだ言って、女のために自分を変える人間であったか。
うむうむと内心で頷きながら、また完封を続ける直史であった。
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