第86話 閑話 また夏が来る

 日米大学野球選手権が終わると、直史はレポート作成と特別追試を受けて、単位をしっかりと取る。

 三年で四年分の単位を取れば、法科大学院に進めるのがいいところである。

 当初予定では合格率3%という予備試験も受けてみるつもりであった直史だが、さすがに野球までしっかりとやっていては時間が足りない。

 もっとも法科大学院まで進んでも、その二年でしっかりと受かる確率は、早稲谷においても昨年で40%といったところなのだ。


 金がいる。

 念のために、三年ぐらいは過ごせるぐらいの。

 直史がセルフインサイダーとも言える手段で得た金は、そのためのものである。

 負ければ一気に貯金がゼロになるわけであるから、あまりお勧めはできないものである。

 まあ今回は瑞希も含めて、見事に成功した。


 そんな直史は夏休み、珍しい割合でオープン戦の練習試合に出ている。

 名門と知られている社会人チームや、他のリーグの強豪大学。

 それでも基本的には、半分も練習にも出ていない。

 武史はそれなりに出ているが。


 武史は大学の練習が嫌いなので、外部に頼んで作ってもらったメニューを自分一人か、他の何人かのはぐれ者と一緒にやっている。

 あれはあれでプロっぽいと言うよりは、MLBなどのコンディション調整に近いものだろう。

 直史の場合は単純に、夏休みだからと言って全てを野球に捧げるほどの暇がないだけである。


 それに、実績が全てを肯定する。

 これは武史も同じことが言えて、さすがにノーヒットノーラン連発などとは言わないが、キャッチャーのリードで普通に完封はしてくる。

 だいたい三試合ほど投げて、一点取られるかどうかといったところである。

 自責点があまりないので、防御率は0.2ぐらいであろうか。

 それに武史は直史にはない、脅威のストレートのみでの三振奪取という能力がある。

 このレベルの対戦において、ストレートを三球投げただけで三振が取れるというのは、やはりピッチャーとしては破格の性能である。




 爛れた一日でしっかりと性欲を発散させ、また正しき法律の道に戻るのが直史と瑞希である。

 このあたりになるとさすがにスポーツに疎いサークルの人間でも、直史がどういう存在なのかは分かってくる。

 プロの世界に進めば、あの上杉と張り合えるであろう、日本で唯一のピッチャーになるだろう。

 こうやって今、法曹への道を歩んでいるのは、何かの間違いなのではないか。

 週刊誌などには、MLBの複数球団からの接触があるとかないとかも書かれているが、そんなものはないに決まっている。あったら問題になるのは、日本の球団だけに限ったものではない。

 だがそういう常識を知らず、こいつは将来メジャーリーガーになって、念に10億も20億も稼ぐようになるのではと、考えたりする者もいる。


 甘いし、粗い考えだ。

 日本のプロ野球の場合、だいたいドラフトで指名される選手は、育成も合わせても12球団で100人を超えるぐらいだ。

 だがMLBの場合は、その10倍を超える。

 なんだかんだでNPBの場合、一年目から一軍に一試合でも帯同できる確率は、上位指名なら50%を超える。

 だがMLBでは一年目の新人がメジャーに上がって試合に出る確率は、1%以下。

 1000人もをドラフトで取っておいて、10人もメジャーではプレイすることなく、ほとんどがマイナーで実力を証明していくことになる。

 特に高卒ルーキーで、一年目からMLBに上がることはない。


 直史は自分ではなく、大介がMLBに行った場合、どういうキャリアを歩むか調べてみたことがある。

 NPB経由で行くので、最初のキャンプは3Aあたりで始まるだろうが、すぐにメジャー登録はされるだろう。

 そしてそこから試合に出るわけだが、日本とは試合のペースが違う。

 当たり前だろう。シーズンの試合は、160試合もあるのだ。

 さらに移動する距離は、日本など比べ物にならない広さのアメリカ大陸だ。


 だがそれでも、大介なら通用すると思う。

 それは直史が大介の体力と回復力、そして耐久力を知っているからだ。

 日本人としては初めての、MLBにおけるスラッガー。

 大介ならばアメリカのスピードボール相手でも、50本を打っておかしくはない。


 そんな説明をわざわざ直史はすることはなく、ただひたすらプロには興味がないと言っていくだけだ。

 するとその質問の範囲は、瑞希にまで向けられる。

 瑞希と直史が恋人関係と言うよりは、将来を深く考える仲であるというのは、周知の事実である。

 説明が面倒な時は婚約者だと言うし、お互いにそれを否定することは一度もない。

 瑞希としてもわざわざ説明するのは面倒なので、私の書いた本を買ってください、ということになる。

 大学の構内にある書店で、しっかり売ってあるのだ。




 瑞希は直史が、将来何かの運命のいたずらで、より高い環境で野球をする可能性があるとは思っている。

 運命のいたずらと言うよりは、世界中で直史のピッチングを見たいという人間が、増えすぎるのではないかと思っている。

 自分の書いた文章も、それを後押しする可能性がある。


 正直なところ、瑞希も見てみたい。

 直史がまたあの甲子園や、ワールドカップや、日米野球の大舞台で投げる試合を。

 どこか文学青年的に見える直史が、鍛えられた細身の肉体をユニフォームで包み、マウンド上でピッチングをする。

 はっきり言って、セックスよりも興奮する。

 瑞希もエロい人間になっているが、直史のピッチングは人間の快楽中枢を刺激する。

 おそらくは大介のホームランなどと同じように。


 人間は、信じられないものを見たくなる生き物なのだろう。

 日々鍛錬して、素質に満ちたプロたちのプレイは確かに魅力的なのだろうが、それまでファンでいなかった者さえファンにするのは、プロを超越したレベルで蹂躙する力だ。

 上杉からはまともにやっても一点も取れないのは当然であるし、少し力をかけて投げればノーヒットノーランは普通にありえる。

 大介だってホームランではなく、場外ホームランさえ期待されてしまう。


 直史がやっていることは、一つ一つを見れば、それよりは常識的なことだ。

 ストレートで圧倒するのではなく、一球一球に意味があり、コンビネーションで打ち取っていく。

 アウトローにわずかに外れる大きなスライダーを投げられた後、インハイのストレートをまともに振れる者は少ない。

 ただその、ちょっとした技術を積み重ねていくことによって、いつの間にか試合が終わっている。

 時間が進めばそのまま、勝利が近付いてくる。

 まるで即興曲を聴くような、あるいは壁面へのアートを観賞するような。


 そんな直史でも、自分のピッチングに不満がないわけではない。

「左利きに生まれたかった」

 そう言ったことを、本人は自覚していただろうか。

 正確に言えば、両腕を同じように使いたかったのだろう。

 直史は左打者に有効な、高速でしかも変化量の大きなシンカーまで持っている。

 だが左手から、130kmを超えるストレートは投げられない。




 法律サークルの間でも、普通に飲み会などはある。

 直史は酒に強い。佐藤家はそういう血筋らしい。

 中学生に上がったころから、祝いや法事の時などは、普通に注がれた酒を飲んでいたという。

 高校生の間と、大学生になっても20歳になるまでは禁酒をしていたのだが、今では解禁される。

 ただ、別に酒が好きなわけでもないし、意識もしっかりしている。

 だが普段とは比べ物にならないぐらい笑い上戸になるのは確かだ。

 あとかなり甘えん坊になるところが可愛い。

 

 夏が来るということは、甲子園が来るということだ。

 だが直史はそれとは別に、盆を実家で過ごす。

 そろそろ将来のことも考えた上で、瑞希も一緒に来て、親戚に紹介はしていく。

 直史はここでは、スーパースターではあるが、同時に惣領息子だ。

「ナオ兄はメジャーはいかんの? 最近は流行りやろ」

 遠くの親戚は、甲子園で直史を見るのを楽しみにしていた又従弟だとか。


 最近はネットでの配信まで含めれば、直史の試合はいくらでも見ることが出来る。

 甲子園の試合でもいくつはか、過去のレジェンドゲームとして放送されていたりする。

 ただ野球憲章の関係上、これは無料で放送されている。

「メジャーだのどうのは、大介に任せた」

「あ、でも来年WBCあるけど、お兄ちゃん出ないの?」

 10人ぐらい親戚は来るのだが、だいたい直史が優しくするのは年下だけである。


 WBCは、それなりに歯ごたえのある選手もいそうだ。

 ただMLBの球団が、主戦力となる選手の出場を渋る傾向はある。

 まあ甲子園もWBCも、金が落ちてこないという点では、直史にはあまり嬉しくもないものである。

 直史はもう、野球においては満たされた。

 だからもう、仕事以外では本気を出すことはないだろう。

「WBCだったら出るな。優勝したら団体向けだけど、勲章とかも出るし」

 そういう名誉とか権威だのに、直史は別に弱いわけではないのだが、ほしがることはほしがる。

 家にとって、名誉なことだと考えるからだ。


 六代前の先祖は、広域な土地を当時の政府に寄付し、地元の工業化に貢献し、勲章をもらっている。

 白黒の写真で、仏間に飾られているのだ。

 直史のメンタルは、そういった過去の否定出来ない歴史が支えている。

 現代の人間とは、かなり価値観の持ちようが違うのだ。




「瑞希ちゃんはナオ兄ちゃんでいいの? もちろんナオ兄ちゃんは立派な男だけど」

 小学生ぐらいの女の子が、そんなことを訊いてくることもある。

「うちのお母さんは、田舎は人付き合いが大変って言うけど」

 それは、確かにそうなのかもしれない。


 時代錯誤だのと言われるかもしれないが、このあたりは家父長制が色濃く残っている。

 車で30分も走ればちゃんとした市街地に行くのだが、田んぼも畑も残っている。

 佐藤家は休耕田は持っているが、基本的には野菜作りだ。

 祖父母のやっていることだが、いずれは両親もこれを継ぐのかもしれない。

 農家ではあるのだが、それで完全に生計を立てているのとも違う。


 実家からほんの数分歩けば母屋と言われる祖父母の家に着く。

 直史の母は瑞希に対して、やたらと恐縮するのだが、祖母はきっちりとした佇まいである。

 畑に出ている姿と、着物を着た姿の間にはギャップがある。

 そして割烹着を着ていることが多い。


 懐かしい日本の原風景と言うべきか。

 直史は、これを守ることを、己の使命のように感じている。

「まあ40歳ぐらいになっても、別に外で働いていてもいいと思うのだけど」

 祖母は瑞希に対して、そんなことを言う。

「人様のお役に立てる仕事を選んだのは立派だけど、今はまだもう少し、やりたいことをやればいいと思うのだけれどね」

 孫がスーパースターだと、祖母としても鼻が高いらしい。


 瑞希は直史の意思が固いのを知っている。

 影響力の強いこの祖母でも無理だろうし、他の誰が言っても無理だろう。もちろん瑞希でも。

 セイバーやイリヤといった、世界を動かせる影響力の人間すら、直史を動かすことは出来ない。

 瑞希は、自分がお願いすれば、小さなことならやってくれるという自覚はある。

 だがお願いしようとは思わない。直史がそういう人間を選ばなかったのだと、はっきりと分かるのだ。


 瑞希は直史の進路を知っているので、この先の人生でどう野球に関わるかも、おおよそは分かる。

 社会人野球には、クラブチームで参加することが出来る。

 もしオリンピック競技でまた野球がされるなら、その選手として選ばれれば出るだろう。




「瑞希さん、こういうの、私憧れてたの」

 今年から参加したメンバーには恵美理がいる。

 将来的には義理の姉妹になるかもしれない。まあ自分たちと違ってこの二人は、この先にも色々とありそうではあるのだが。


 お嬢様然とした恵美理であるが、実は瑞希よりはキャンプなどへの適応力は高い。

 父親は音楽家ではあるが、休暇には別荘に行って、キャンプなどをしたりはしていたのだ。

 本当の金持ちほど、むしろアウトドア嗜好もある。

 恵美理はそういったタイプの人間だ。


 色素の薄い肌に、夏の陽光では淡く金色にも見えたりする髪。

 そういえばイリヤも全く容姿は違うが、外国の血を引いていた。

 瑞希は高校卒業後、そしてイリヤが東京に来てから、彼女と会うことがそこそこ多い。

 執筆する中において、イリヤはかなり重要度が高いのだ。

 そんなことを気にせずに書けばよいと言うのだが、これはあくまでも質を向上させるためのものである。


 高校という舞台から解き放たれたイリヤの活動は、急激に膨らんで行った。

 元々日本を主戦場としている人間ではなかったのだが、なんだか最近はアニメの作曲などに関わっていて、本当に大丈夫かと瑞希は思ったりもする。

「白い軌跡が映画化したら、私が作曲するから」

 そんなことをさらっと言ってくるイリヤだが、彼女は基本的に仕事を好き嫌いで決める。

 金になるからという仕事をしない。自分が納得出来ることしかしない。

 マネージャーは大変なのだが、それでちゃんと稼いでくるのだから、文句もそうは言えないのだ。


 彼女と将来、姉妹になるのかな、と瑞希は想像する。

 とりあえず武史とツインズは確実に義理の弟妹となるわけだが、三人とも色々と騒動は起こしそうではある。

 長男の嫁としてしっかりする気は、既に満々の瑞希であった。

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