第75話 ヒロイン補正
佐藤武史は空気が読めないと言われるが、本人はそれなりに読んでいるつもりであるし、おおよそ許される性格をしている。
空気を読めなどと言う人間の方が、実のところは高圧的で理不尽な空気を作り出していたりする。
それに空気を読んで苦しむよりも、読まずに堂々としている方が楽だろう。
空気を読んでそれで生きやすいなら、それはそれでいいのだろう。だが他人にまでそれを強制してほしくない。
この球場を覆う空気。
東大の勝利を、そして月曜日の第三戦が行われることを望む空気。
そんなものは無視して勝ってしまって、オフの月曜日はのんびり過ごしたいのだ。
「タケ、調子に乗るなよ」
キャッチャー桜が呟いてくるが、知らんフリの武史である。
舌打ちの音が怖い。
出来ればここで自分ではなく、誰か別の人が打ってくれれば良かった。
ならば恨みはそちらに向かう。
ツインズは平気で筋違いの恨みをぶつけてくるので、武史にとっては恐怖の対象である。
(しかし出来れば権藤さんとは対戦したくなかった)
ツインズが相手であれば、これまでの恨みを晴らすべく、全力でホームランを狙っていったのであるが。
正直武史は、明日美であれば打てると思っていた。
これまで打たなかったのは、まず打っても点にならない場面であったこと。
そしてもう一つの、こちらがより大きな理由であるが、打ったら恵美理が悲しみそうなことである。
(仲いいからなあ)
去年の夏、全国選手権大会をついに制して、マウンドで抱き合って泣いていた二人の姿は尊かった。
武史はそこそこの仲のいい友人はいるが、全国制覇をした時も倉田と抱き合って喜び合おうとは思わなかったし。
そんなことを考えながらも、投げられる球を待っている。
初球、これは違う。
ストンと落ちたスプリットだが、見切っている。
変化量が少なかったが、これでもボールだ。
(七回の表、ツーアウトで点差は一点。ホームランが出れば逆転)
狙うのは、ゾーン内に落ちるスプリットか、伸びるストレート。
バックスピンが綺麗にかかったストレートは、当たれば飛ぶのだ。
投げ込まれれるのは小さく動くムービングで、これはフォームのわずかな違いと言うか、一つ一つ違うもので分かる。
すさまじい才能を持った天才であるが、基本が分かっていない。
(なんか高校入った頃の俺みたいだな)
人間、昔の自分のような人間を見ると、恥ずかしくなるものである。
もっとも明日美の場合は単なる技術の優劣なので、そこまで同族嫌悪などは起こさないが。
ランナー三塁から振りかぶるのは、昨日の直史の場合と同じ。
そして天から吊り下げられたかのようにその体がしなる。
投げられた球は、ストレート。
(もらい!)
だがボールはバットの上を通過。
わずかに当たって、高く上がる。
「邪魔!」
桜に突き飛ばされて、武史は転倒。そして桜は無事にボールをキャッチ。
直史のようにはいかない武史である。
(なぜに~! 主人公補正でも働いてんのか!?)
このあたりどうも、武史には天運がないように思える。
実際は単純に、明日美の球威の見定めが甘かっただけであるが。
終盤、最後にまた上位打線に回る。
ここで点を取れなければ、一点差のまま試合終了。
すると明日の月曜日にまた試合をして、勝ったほうに勝ち点一が入る。
もちろん早稲谷は、直史を出してくるはずだ。
昨日の試合で直史は137球を投げた。
だが変化球主体であり、今日はノースローである。
監督の辺見も、ここまで来れば月曜日の対戦も仕方がないと考える。
だが先発として直史を投げるのに、支障はないのか。
中一日で、どこまで回復しているのか。
(それにしても……)
まさか東大の、しかも女子選手にここまで苦戦するとは。
いや苦戦などというものではない。明らかに対等以上に戦っている。
ただ単に、直史がさらにそれを上回っているだけで。
直史>女子選手>六大の他の男ども
この関係が成り立っている。
一点を取れれば、流れが変わると思っていた。
しかし一点も取らせないところは、直史に似ていると思う。
この日、武史は被安打三、四死球一、奪三振18という成績を残す。
普通なら負けるはずのない数字あったが、スコアは1-0で決着した。
歴史的に見ても最強レベルという本年の早稲谷。
それが歴史的に見て、間違いなく最強の東大に敗北した。
勝敗は一勝一敗で、月曜日に行われる第三戦で勝ち点がどちらにつくか持ち越された。
何気に直史にとっては、月曜日の試合は初めてである。
これまでは勝つにしろ負けるにしろ、土日で決着がついていた。
おかげで日曜はお泊りをしていたわけだが、それが今週はない。
(めんどくせえ)
人生の中では一瞬かもしれないが、試合のために調整をして、実際に試合をした後も、色々とやることがあるのだ。
直史は自分の人生の時間が、無駄に使われることを嫌う。
誰だってある程度はそうかもしれないが、直史は特にそれを意識している。
そして瑞希は休日ならだいたい試合を見に来るが、月曜日は講義を優先する。
はっきり言って、恋人にかっこいいところを見せるのは重要だと考える直史であるが、それがないなら一気にモチベーションが落ちる。
そんな状態でもパフォーマンスを十全に発揮するのが直史なのだが。
クラブハウスに戻った早稲谷の面々の表情は暗い。
単純に敗北したというのもそうだが、女子選手に負けたというのが大きい。
昨日の試合にしても、ほとんど直史と樋口以外は活躍していないのだが。
特に西郷は、まともにバットが振れていない。
大きな体を小さくして、隅っこの席に座っている。
辺見としても苦々しい表情をしているが、事態がおかしくて何を言えばいいのか分からない。
女に負けた。
東大に負けた。
後者はまだ、ごく稀にではあるがありうるが、女子選手の混じった東大に負けたというのがなんとも。
「佐藤、兄の方の佐藤、妹たちの攻略方法は?」
直史はまたか、と思いつつもちゃんと発言する。
「ジャイロ以外は普通の変化球です。だから配球を読めば打てます。あいつらは性格が悪いので、打ちにくい配球にしてくるから、それを読めば一打席は打てます」
そもそも第一試合の前のミーティングに、しっかりと言っておいたことだろうに。
「西郷はまた、どうしてあんなスイングになってるんだ?」
「……許してたもんせ」」
別に怒っているわけではない辺見である。
西郷の言葉を日本語訳しながら聞いた感じでは、九州ではまともに女と勝負するぐらいなら、敗北した方がマシという価値観があるそうな。
今でも男女の社会的役割が激しく分かれているのが、修羅の国であるらしい。
ほんとかよと思いつつ、とりあえず西郷は次の試合はスタメンから外す。
「樋口、四番に入れ」
そう言われて面倒くさそうな顔をしながらも、返事は返す樋口である。
「なんだ、嫌なのか」
「嫌です」
正直すぎる樋口の言葉に空気が凍るが、本人は平然としている。
そもそも樋口はキャッチャーでバッターを手玉に取るのは凄く好きだが、バッターの決め球を狙い打ちするのは少ししか好きではない。
ツインズに加えて明日美を打ち取ることを考えると、キャッチャーに専念したいのだ。
ランナーはそれなりに出ているのだから、一点取るぐらいは指揮官の仕事であろう。
ここまで早大が取った二点は、両方とも直史と樋口の個人技によるものだ。
ランナーは出ているのだから、点が取れないのは監督の無能である。
辺見としても、自分の責任は痛感している。
だがとにかく、三人のピッチャーを自由に使われることで、あちらは投げる球の選択肢が増えすぎる。
直史としても現実的には、カーブを狙うのがいいと思っている。
球速の絶対値が低いということは、それだけボールに対する反応が遅くてもいいということだ。
速い球を動かすというのは、それだけ反応の時間が遅れるということだ。
ともあれ、明日もまた投手戦になるだろう。
直史は頼りにならない指揮官はそっちのけで、樋口と対策を練ることにする。
タイミングがあってジャストミートすれば、ツインズでもホームランは打てる。
だが相当に大振りは必要になるし、ボールの入ってくる角度を考えれば、カーブを投げておけば大きな傷にはならない。
あとは向こうがどちらの打席に入るかが問題だが、今のところは左打席に入ることが多い。
シンカーを使っていけば、それなりに抑えられる。
問題は明日美の方であるが、これも必要以上の警戒はいらない。
沈む球に目を慣らした後にストレートを投げれば、直史のストレートなら空振りフライアウトになる。
「いや、その考えは危険だ」
直史としてはツインズの邪悪な知性を信じている。
「あいつらはこちらがそういった考えでいつことには気付くと思う」
「ああ、あいつら頭いいのか」
大学に入って以来、野球の上手いバカとばかり戦ってきた樋口は、東大はそれには当てはまらないことを忘れていた。
頭の良さが関係ない、ひたすら弱い集団であったので。
ならばどうするか。
直史は、スルーを使うことを提案する。
これまでは散々、才能とセンスがあるから、直感で打ってしまうかもしれないと恐れていた。
ツインズが投げられるので、スルーの性質自体には慣れているだろう。
絶対的なスピードが違うので、簡単に打てるとは限らないが。
とりあえずこれに勝てば、春のリーグ戦も終わりである。
やっとのんびりした生活に戻れるかとも思ったが、今度はまた全日本がある。
「なんだか俺たちの責任以外で、負ける方法ないかな」
直史が不穏なことを言い出すが、考える余地があるなと思うあたり、樋口もひどい。
もちろんさすがに、そんなことを考えたりはしない二人である。
ともあれ肝心なのは、失点よりも得点を気にするべきではないのか。
一試合目を二点、二試合目を無得点というのは、他のチームに比べても得点出来ていない。
「おそらくうちのチームだけを、徹底して研究したんだろうな」
一年からずっと四番の西郷がスタメンから外れるというのは、かなり大きな変化である。
なんだかんだ言って樋口なら、あの三人からでも一本ぐらいはヒットを打てそうだ。
ただし前後が弱ければ、点は入らない。
今日の試合だって機会があればホームランを狙ったが、その機会がなかったのだ。
ツインズが本気を出して、直史の攻略を考えてくる。
初対決はピッチャーが有利と言われるが、次の試合ではこれがどの程度当てはまるか。
ツインズのデータを集めれば、最適に近い配球は読めてくるだろう。
「でもあいつら、うちに勝つためだけに、データに罠仕掛けてくるかもしれないからな」
「そこまでやるか」
樋口でも呆れるほどの、ツインズのあくどさという名の強さである。
世間的には東大の美少女戦隊が勝利することを望んでいるのだろう。
話題性だけを言うなら、そちらの方が面白い。
直史はスーパースターではあるが、アイドルではないので。
だが世間の期待を裏切ってやるのは、直史にとって好みとするところだ。
対策はある程度考えた。
とは言ってもあの二人を相手にしては、全てが万全にいくとは限らない。
それに権藤明日美の謎のポテンシャルが、どこまで発揮されるか。
なんだかんだ言いながらも直史は、今日の試合にしても勝つのは武史だと思っていた。
だから樋口が出塁した時には、これで月曜の予定はなくなるなと、ちょっとほっとしていたのだが。
「さてと、じゃあ俺は出てくるけど」
瑞希の部屋にお出かけである。今日はちょっと凝った料理を作るらしい。
樋口がいるなら、別にこの部屋を空けておいてもいいのだが、こいつもそろそろまた女を作っているような気がする。
「こういう時に都合がいい女がいないと困るな」
今はいないらしい。
「関係解消した相手にでも話してみるかな」
「お前、刺されないようにだけは気にしろよ?」
異性関係のお互いのトラブルに対しては、共にドライなバッテリーであった。
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